帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(114)おしと思心は糸によられなん

2016-12-31 19:14:53 | 古典

             

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下114

 

仁和の中将の御息所の家に、歌合せしける時に、

よみける               素性

おしと思心は糸によられなん 散る花ごとに貫きてとゞ止めむ

仁和の帝の、中将の御息所(皇子をお産みになった女御)と申し上げる方の家にて、歌合わせしようとした時に詠んだ・歌。 素性(法師・歌人として詠んだ歌として聞く)

(惜しいと思う、人の・心は、糸に撚ることができればなあ、散る木の花ごとに、確り繋ぎ止めたいと思う……お肢・惜しいと思う女心は、糸に撚れたらなあ、散るお花ごとに、確り繋ぎて、我が・止めてやろう)

 

この歌合の詳細はわからないが、推定するに、光孝天皇崩御(889)の後、喪明けを待って、もとは天皇の企画された歌合だったが御息所の里の家で開催されたのだろう。御息所には哀傷の癒えない時だっただろう。このように仮定すると、前の(108)、藤原後蔭(御息所の兄と思われる)の歌や、この素性の歌の主旨がわかりやすくなる。

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「おし…帝がお通りになられる時の前払いの声は『おし』…をし…惜しい…愛着する…執着する…お肢」「よられなん…撚ることができればなあ」「なん…なむ…その事態の実現を強く望む意を表す」「散る…果てる…尽きる」「貫きて…確り固定して…確り繋ぎて」「む…意志を表す」。

 

大切なお方を亡くされた御息所をお慰めする歌。――歌の清げな姿。

お肢、惜しいと思う女の心は、糸に撚れたらなあ、散るおとこ端毎に、我が・確り繋ぎ止めてやりたい。――心におかしきところ。これがあってこそ和歌である。無ければ、ただの弔辞である。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(113)花の色はうつりにけりないたづらに

2016-12-30 19:02:58 | 古典

             

 

                        帯とけの「古今和歌集」

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下113

 

(題しらず)                    小野小町

花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに

(草花の色香は・わが容色は、衰えてしまったようね、することもなく、わが身、世に過ごし、長雨・眺めていた間に……木の花の色は・貴身の色情とかたちは、衰えてしまったようね、むなしく、わが身、夜に降る淫雨ながめ・物思いに耽っていた間に)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「色…色や形ある物…色香・容色…色情」「うつりにけり…移ってしまった…衰えてしまった…色あせてしまった」「けり…気付き・詠嘆」「な…確認・念押し」「いたづら…徒ら…無駄だ…役立たない…することがない…むなしい」「世…女と男の世の中…おんなとおとこの夜の仲」「ふる…経る…過ごす…古る…年老いる…振る」「ながめ…長雨…淫雨…眺め…見つめて物思いに耽る…長め…延長」「見…媾…まぐあい」「雨…おとこ雨」。

 

草木の花の色彩は褪せてしまったようね、徒らに、わが身、世に過ごし、長雨していた間に。――歌の清げな姿。

おとこ端の色情は、衰えてしまったようね、空しく、わが身、夜に、振るを、見つつ、もの思いに耽っていた間に。――心におかしきところ。

わが花顔の色香は、衰えてしまったようね・男どもの見せる色情も、無気力に、わが身、この世に過ごし古び、長らえている間に。老いは全てを変えた。あゝ無常。――これが歌の深き心か。

 

このように聞けば、この歌一首から、若き頃の好き美女、小町の妖艶な姿さえ彷彿される。


 仮名序「小野小町は、いにしへの衣通姫の流れなり。哀れなる様にて、強からず、言はば、よき女の、悩めるところあるに、似たり、強からぬは、女の歌なればなるべし」や、真名序「小野小町之歌、古衣通姫之流也、然艶而無気力、如病婦之著花粉」の批評の主旨も理解しやすくなる。


 藤原定家が「百人一首」に、数ある小町の歌からこの歌を撰んだのも納得できる。

 

平安時代の和歌の文脈に入ったのである。今や常識と化した国文学的解釈は、この時点から見れば、ほんとうに奇妙な解釈である。(有名なこの歌の現在の解釈は、どの教科書や参考書にも、小さな古語辞典にも載っているので、ここには掲げない)。その潤いと艶のない、誰もが正当と思いたくなる理性的解釈方法の砂漠を抜け出たのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(112)ちる花をなにかうら見む世中に

2016-12-29 18:11:57 | 古典

             

 

                        帯とけの「古今和歌集」

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下112

 

(題しらず)              (よみ人しらず)

ちる花をなにかうら見む世中に わが身もともにあらむものかは

(よみ人しらず・男の詠んだ歌として聞く)

(散る花を、どうして怨みに思うのだろうか、世中に、わが身も共にあるものだろうか……果てるおとこ花、どうして裏見るだろうか、女と男の夜の仲に、わが身と共に常に在る物か、尽き逝く物よ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「散る…果てる…いのち尽きる」「花…木の花…おとこ花…おとこ端」「なにかうら見む…どうして恨みに思うのだろう…どうして裏見るだろうか…どうして二見するだろうか(お花は一過性なのだ)」「見…思うこと…覯…媾…まぐあい」「世中…女と男の世の中…女と男の夜の仲」「あらむもの…在らむもの…生存する者…存続するもの」「かは…疑問を表す…反語を表す」

 

散る花を、何か・惜しむ余りにか、怨むのだろう、わが身も共に、常に・在るような物か。――歌の清げな姿。

尽き果てるおとこ端、何か・二見しょうとか、おんなとおとこの夜の仲に、貴身も・わが身も共に、常に・健在な物かは。――心におかしきところ。

無常観や、「色即是空」「空即是色」という思想が底流する。――歌の深き心か。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(111)こまなめていざ見にゆかむふるさとは

2016-12-28 19:11:30 | 古典

             

 

                        帯とけの「古今和歌集」

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下111

 

題しらず                よみ人しらず

こまなめていざ見にゆかむふるさとは 雪とのみこそ花はちるらめ

題知らず                    詠人知らず(男の歌として聞く)

(駒並べて、友よ・さあ見に行こう、古里は、雪とばかりに、花吹雪は散っているだろう……こ間なめて、いさ見にゆこう、古妻は、逝きとばかりにだ、わが白ゆきの花は散るだろう)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「こま…馬…駒…股間」「なめて…並べて一緒に…舐めて」「見…見物…覯…媾…みとのまぐはひ…まぐあい」「ゆかむ…行こう…逝こう」「ふるさと…故郷…生まれ育ったところ…古里…古女…古妻」「さと…里…言の心は女…さ門…おんな」「ゆき…雪…白ゆき…おとこの情念…逝き」「のみ…だけ…限定の意を表す…飲み…呑み」「こそ…強調する意を表す」「花…木の花…男花…おとこ花…白雪の花」「ちる…散る…果てる…逝く」「らめ…らむ…(散る)ことだろう」。

 

共に、いざ見物に行こう、今頃・故郷は花吹雪だろう。――歌の清げな姿。

股間舐めて、さあ、見に逝こう、振るさ門は白ゆきと呑みてぞ、両人の華は、散り果てるだろう。――心におかしきところ。

 

歌の心におかしきエロスが、ほぼ表面に顕れて、「玄之又玄なる歌」ではない。深い心もないようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による


帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(110)しるしなき音をも鳴くかなうぐひすの

2016-12-27 19:08:50 | 古典

             

 

                        帯とけの「古今和歌集」

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下110

 

鶯の花の木にて鳴くをよめる          躬恒

しるしなきねをも鳴くかなうぐひすの ことしのみちる花ならなくに

(鶯が花の木にて鳴くのを詠んだと思われる……女がおとこ花の気に泣くのを詠んだらしい)・歌  みつね

(効きめない声あげて鳴くのだなあ、鶯が、今年のみ散る花ではないのに・どうしょうもなく毎年散る……役立たぬ、根をも、嘆き泣くかな、憂くひすの女、こ疾しだけの、早く果てるおとこ端ではないのに・毎度のことよ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「しるしなき…効果無き…効きめ無き…役立たぬ」「ねをもなく…音をも鳴く…声あげて鳴く…声だして泣く…根おも泣く」「ね…音…声…根…おとこ」「を…対象を示す…お…おとこ」「も…意味を強める…追加する意を表す(他にも嘆くことがある)」「鳴く…泣く」「かな…感動・感嘆を表す」「うぐひす…鶯…鳥の言の心は女…憂く干す…いやだ干からびる」「の…主語を示す…修飾語をつくる」「ことし…今年…こ疾し…此の早過ぎ」「のみ…限定…の見…の身」「散る…果てる…尽きる」「花…木の花…男花…おとこ端」「ならなくに…ではないのに」。

 

無駄な声あげて鳴く鶯だなあ、毎年散る花なのに。――歌の清げな姿。


 歌の清げな姿を一見する限り、「散る花を止める効果もないのに、いたずらに鶯が鳴くのを詠んだ歌」で、これ以上の意味はないと思える。「歌の様を知り、言の心を心得る」平安時代の人々は、歌の清げな姿を一見するだけでは想像できない、心におかしきエロスが顕れるのを享受していたのである。


 役立たぬ根をも、嘆き泣くなあ、憂くひすの女、こ疾しのみ、すぐ散り果てるおとこ花ではないのに、弱い根も今に始まったことはないし。――心におかしきところ。


 早過ぎは、おとこの本性の恒常的疾患、ときには、弱々しい根もある、憂くひすの女よ。――これが、歌の深い心らしい。


 貫之は、このような歌を愛でて「玄之又玄」という。
躬恒を侮るなかれ」、躬恒と貫之の歌は、優劣つけ難いというのが、平安時代の人々の結論のようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)