帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの土佐日記 (雨風やまねば) 正月十六日

2013-01-31 00:03:24 | 古典

    



                                      帯とけの土佐日記


土佐日記(雨風やまねば)正月十六日

 
 十六日。風波止まないので、なおも同じ所に留まっている。ただ、海に波無くなって、いつしかみさき(一時も早く室戸岬)という所を行き過ぎようとだけ思う。風波、にわかに止みそうにもない。

あるひと(或る男)が、この波立つのを見て詠んだ歌、

しもだにもおかぬかたぞといふなれど なみのなかにはゆきぞふりける

(霜さえもおりない地方というけれど、波の中には雪が降ったことよ……白いものさえ、置かない方というけれど、汝身の中には白ゆき、ふったなあ)。

 さて、船に乗ってより今日まで二十日あまり五日になったことよ。


 言の戯れと言の心

 「しも…霜…白髪…白い毛…下…白いもの」「おく…置く…(霜などが)おりる…(頭髪などが)霜ふりとなる」「かた…地方…方…人を間接的に指す」「なみのなか…波の中…波立つ心のうち…汝身の中…汝見の途中」「な…汝…親しいもののこと」「み…身…見…まぐあい」「ゆき…雪…白…白い毛…白ゆき…おとこの色」「はつかあまりいつか…二十五日間…(室戸岬にも近づけない、遅々として船の進まない)長い日々」。



 優れた歌かどうかは、姿、心、おかしきところの品の良し悪しによる。

歌は、深い心、清げな姿、心におかしきところが、一つの言葉の多様な意味を利して表されてある。「言の心」は字義を含む戯れの意味のすべてである。

霜には年月、風雪にも苦難の歳月などという意味もあって、古今和歌集 春歌上には、次のような文屋康秀の歌がある。ついでながら、聞きましょう。

春の日の光にあたる我なれど かしらの雪となるぞわびしき

 「春…季節の春…情の春…張る」「光…帝の威光…為政者の栄光…男の輝き…おとこの照りかがやき」「かしら…頭…頭髪…もののかしら」「雪…白髪…おとこ白ゆき」。
 このような言の戯れの意味を知れば、この歌の意味のすべてが伝わり、この歌の品定めができるでしょう。

貫之は古今集仮名序で、文屋康秀の歌を評して曰く「言葉巧みにて、そのさま身におはず、言わば商人の良き衣着たらむが如し」。この批評に同感できるように康秀の歌を聞くべきである。


 伝授 清原のおうな
 
聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)


 原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系土佐日記による。


帯とけの土佐日記 (暁に雨降れば) 正月十四日~十五日

2013-01-30 00:02:52 | 古典

    



                          帯とけの土佐日記


 土佐日記(暁より雨降れば)正月十四日・十五日


 十四日。暁より雨降れば、同じ所に停泊している。船君、節忌みをする。精進食がないので、正午を待って、それより後に、船頭の昨日釣った鯛と、銭がないので米と取り替えて、精進落ちをされた。このような事、なおもあった。船頭また鯛を持って来た。米、酒、しばしばくれてやる。船頭、機嫌悪くない。


 十五日。今日、(もち粥の節供なのに)小豆粥は煮ない。残念で、それに、日がわるいので、ゐざるほどにぞ(座って移動する程の進み方で)、今日、(船出して)二十日あまり経った。むなしく日が経つので、人々、うみをながめつゝぞある(海を眺め続けている…倦みを長め続けている)。めのわらは(女の童…おんな)が言う、

たてばたつゐればまたゐるふくかぜと なみとはおもふどちにやあるらむ

(風立てば波立つ、とまればまた静まる、吹く風と波とは同じ思いの友だちかしら……心に風立てば立つ、射ればまたおさまる、おとこの心に吹く風と白なみは、思いの同じ友かしら)。

いふかひなきもの(言う甲斐のない幼い者…言うかいもないもの)が言ったことに、全く似つかわしい。


 言の戯れと言の心

「うみ…海…憂み…辛いこと…倦み…飽き飽きして嫌になっていること」「ながめ…眺め…長め…ぼんやり見つめてもの思いに沈む」「つつ…反復継続している意を表す…筒…中空…空しい」。

「めのわらは…女児…女の身に居付くわらは、このものの立場で詠んだ歌」「たつ…風が立つ…波が立つ…ものが起つ」「ゐる…居る…止まっている…おさまっている…射る」「かぜ…風…心に吹く風…飽き風や春風など」「なみ…波…心の波だち…心の乱れ…無み…白なみ…おとこ心に立つ白々しい波」「もの…者…物…身の一つのもの」。

 


 これは、女児を装って、女のものの立場で、おとこの白け易い性情を言った例。このような(あだな、まめでない、遊びめが言うような)ことを、詠んだとは言わないところに語り手の見識が示されてある。

古今集仮名序に「今の世の中、色に尽き、人の心、花になりにけるより、あだなる歌、はかなき言のみ出でくれば、色好みの家に、埋もれ木の人知れぬことと成りて、まめなる所には、花薄、穂に出だすべきことにも有らずなりにたり」とある。紀貫之が歌の現状を嘆いたのは、ほぼ三十年前のことである。なおも教化、啓蒙の必要があったのでしょう。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)

 
原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系土佐日記による。


帯とけの土佐日記 (雨ふらず) 正月十二日・十三日

2013-01-29 00:01:02 | 古典

    



                         帯とけの土佐日記


 土佐日記(雨ふらず)正月十二日・十三日


 十二日。雨降らず。ふんとき(ときふん…時文)これもち(もちこれ…望之)の乗った船の遅れていたのが、奈良志津より室津に着いた。


 十三日の暁(夜明け前)に、すこし雨が降る。しばらくして止んだ。女、だれかれということなく、ゆあみ(湯浴)などしょうと、辺りのよさそうな所に下りてゆく。うみをみやれば(海を見わたすと…憂みをみているので)

くもゝみなゝみとぞみゆるあまもがな いづれかうみとゝひてしるべく

(雲もみな波と見える海人が居ればなあ どちらが海なのか問うて知ることができるでしょう……心の雲もみな心の波立ちと思える、尼が居ればなあ、どちらが憂みなのと問うて知ることができるでしょうに)

とこんな歌を詠んだ。

さて、十日すぎなので月が明るくすばらしい。船に乗り始めた日より、船では紅濃く良い衣は着ない。それは海の神に怖じてだと言っていて、なにのあしかげ(何の葦陰…何の脚陰)にかこつけて、ほやのつまのいずし(ほやの妻の貽すし…ほやの妻の井す肢)すしあはび(すし鮑…すし貝)を、心外にも、衣を脛に上げて(海の神に)見せてしまったことよ。

 
 言の戯れと言の心

 「うみをみやる…海を見やる…憂みをみている…辛い目にあっている」「くも…雲…心に煩わしくもわきたつもの…煩悩」「なみ…波…心の波立ち…心の乱れ」「あま…海人…尼」「うみ…海…憂み…思いの満たされない辛さ」「あしかげ…葦陰…脚陰」「ほや…海底に立つ生物…おとこ」「い…貽貝(三角洲の形)…ほやの妻…女」「い…井…女」「貝…女」「す…洲…三角州…女」「し…子…親しみ込めて付ける詞」「あはび…鮑…貝…女」。

 


 このようなものを、海神(男神か、女神かな)に見せてしまった。どうなることやらと思えば、この後、海は雨と風波で三日間荒れる。

「ふんとき」は、さかさまに読んで、ときふん(時文)、貫之の子息の名。「これもち」も、もちこれ(望之・もちゆき)で子息の名でしょう。親子は難破や沈没の危険を分散するため別の船に分乗して航海する。名は「やぎのやすのり」のように戯れるので、逆さにしてあるのでしょう。
 枕草子は、ものの名のおかしさを多く載せている。人の名についても記されてある、中でも (藤原)行成が、書状の署名を「みまなのなりゆき」として、清少納言をおかしがらせた話(第百二十六)は興味深い。「ゆきなりのなまみ…行成の生身」が書いた文と読むとおかしい書状なのである。


 伝授 清原のおうな
 聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)

 
原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系土佐日記による。


帯とけの土佐日記 (暁に船を) 正月十一日

2013-01-28 00:02:15 | 古典

    



                                     帯とけの土佐日記


 土佐日記(暁に船を)正月十一日


 十一日。暁に船を出して、室津に至ろうとする。人はまだみな寝ているので、海の有様も見えず。ただ月を見て、西東をば知ったのだった。こうしているうちに、すっかり夜が明けて、手を洗い例のことなどして、昼になった。今しも羽根という所に来た。
 幼い童、この所の名を聞いて、
はねといふところは、とりのはねのやうにやある(羽根という所は、鳥の羽根のようなの?…端根というところは、とりがはねるようなものなの?)」という。まだ幼い童の言なので、人々が笑うときに、居合わせた女の童がなんと、この歌を詠んだ。

まことにてなにきくところはねならば とぶがごとくにみやこへもがな

(ほんとうに名に聞く所が羽だったら、飛ぶようにして都へ帰りたいわ……まことにて汝に効くところ、跳ねるならば、飛ぶが如くに、宮こへいきたいわ)、

という。男も女も、なんとしても、とく京(早く都…早く頂上)へ至りたいと思う心があるので、この歌を良しというのではないが、その通りよと思って、人々忘れない。


 言の戯れと言の心

 「はね…羽根…端根…おとこ」「とりのはね…鳥の羽…女の跳ね…女の撥ね」「鳥…女」「はね…身をはずませる…身を撥ね上げる」「ところ…場所…箇所」「な…名…汝…おとこ」「きく…聞く…効く」「みやこ…都…京…頂上…宮こ…絶頂」「もがな…願望の意を表す」。

言の戯れも色好みなことも全く知らない童の歌だけれども、大人の耳には否応なく言の戯れの意味が聞こえる。それで、この歌を「人々笑う」のであり、「人々忘れない」のである。


 この羽根という所を問う童のついでに、また、むかしへひと(四年前に亡くなった女児)のことを思い出して、何時になったら忘れるのか。今日は増して、はゝのかなしがらるゝことは(母の悲しい思いがこみあげてくることよ)。下って来た時の人の数が足りないので、古歌の、「数は足らでぞ帰るべらなる」と言うことを思い出して、他の人が詠んだ。

 よのなかにおもひやれどもこをこふる おもひにまさるおもひなきかな

 (世の中に、思いやっても、子どもを恋う思いに勝る思いはないことよ……夜のなかに、思いやっても、この君を乞う思いにまさる思いはないのよねえ)、

と言いながら。

 


 「はゝのかなしがらるゝ…母の悲しむ感情が自然に起こる」「らるる…受身または自発の意を表わす。この語、単独で尊敬の意を表わしていない」。
語り手は女児を亡くした母自身で前国守の妻。

 言の戯れと言の心
 
「世の中…男女の仲…夜の中」「こ…子ども…子の君…おとこ」「こふ…恋う…乞う」。

 

古歌「数は足らでぞ帰へるべらなる」は、古今和歌集 「羇旅歌」にある、よみ人しらず。赴任した地方の国で夫を亡くし独り都へ帰る妻女の歌という、

北へゆく雁ぞ鳴くなる連れてこし 数はたらでぞかへるべらなる

(北へ行く雁が鳴いている、連れて来た数は足りないで、帰るようだ……来た辺で逝く、かりぞ無くなる・女ぞ泣いている、連れて山ば越した数は足りないで、独り宮こへ返るようだ)。

 言の戯れと言の心
 「北…北風…心に吹く寒風」「かり…雁…狩…刈…娶り…まぐあい…鳥…女」「なくなる…鳴いている…泣いている…無くなる」「つれてこし…引率して来た…連れてやまば越した」「かず…数…(雁の)数…ものの回数」「かへる…帰る…返る…繰り返す」「べらなる…ようすだ…しているようだ」。


 伝授 清原のおうな
 
聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)

 
 原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系土佐日記による。


帯とけの土佐日記 (かくあるを見つつ) 正月九日~十日

2013-01-26 00:02:32 | 古典

    



                               帯とけの土佐日記


 土佐日記(かくあるを見つつ
)正月九日~十日

宇多の松原など)こうして見ながら漕ぎ行くにつれて、山も海もみな暮れ、夜更けて西東も見えなくて、てけのこと(天気のこと…船の運航のこと)、船頭の心に任せた。

男でも慣れないと、(夜に漕ぎ行くのは)たいそう心細い。まして、女は船底に頭つきあてて声あげて泣く。このような思いをしているのに、船員と船頭は船歌唄って、何とも思っていない。

その唄う歌は、

はるのゝにてぞねおばなく、わかすゝきにてきるきる、つんだるなをおやゝまぼるらむ、しうとめやくふらむ、かへらや

(春の野にて、声あげて泣く、若すすきで手切る切る、摘んだ菜を親は見つけるやろうか、姑は食うやろうか、帰ろうや……春のひら野にて、声あげて泣く、若い薄情な男なので、手を切る切る。つんだ汝を、親は見守るやろうか、姑はくってしまうやろう、返ろうや無かったことにしょ)。

よんべのうなゐもがな、ぜにこはむ、そらごとをして、おぎのりわざをして、ぜにもゝてこず、おのれだにこず

(昨夜の若い男がなあ、銭を請求してやる、空言して、掛買いして、沖乗り業して銭も持ってこず、おのれさえ来ない……ゆうべの若衆がなあ、銭請うてやる、うそ言いって、奥乗りわざして、掛け買いの・銭も持ってこず、おのれさえ来ない)。

これだけではなく多くあるけれども、書かない。これらを人が笑うのを聞いて、海は荒れるけれども、心は少し凪いだ。こうして行きつつ過ごして、泊り(奈半の停泊港)に至って、翁人ひとり、老女ひとり、とりわけ心地わるくして、ものもお食べになられないで、ひっそりとなった。


十日。今日は、この奈半の泊りに泊まった。

言の戯れと言の心

「すすき…薄…男…薄情なおとこ」「てきる…(薄の葉で)手を切る…関係を断つ」「つむ…摘む…採る…娶る…まぐあう」「な…菜…汝…女」「かえらや…帰ろうや…返ろうや…(何も無かった時に)返ろうよ」「もがな…願望を表わす…逢いたい…来てほしい」「おぎのりわざ…掛買い…沖乗り業…沖合いでの漁業…奥乗りわざ」「おき…沖…奥…女」。

 

 若い衆の薄情で浮気な有様と若い女の心情が唄われる。この舟歌を聞いて、人は笑ったとある。船歌にも清げな姿と「心におかしきところ」がある。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)

 原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系土佐日記による。