帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの平中物語(十一)また、この男、人とものいふに

2013-10-31 00:07:34 | 古典

    



               帯とけの平中物語



 「平中物語」は、平中と呼ばれた男の詠んだ古今和歌集には載せられない和歌を中心にして、その生きざまが語られてある。平中は、平貞文のあだ名で、在中将(在原業平)に次ぐ「色好みける人」という意味も孕んでいる。古今集の編者の貫之や躬恒とほぼ同世代の人である。

色好みな歌と物語を紐解いてゆく。言の戯れを知り、字義とは別に孕んでいる言の心を心得て読むことができれば、歌の「清げな姿」の裏に「心におかしきところ」が見える。物語の帯はおのずから解ける。

 

 
平中物語(十一)また、この男、人とものいうふに


 また、この男、人(女)と言葉を交わしているが、かヘリごと(返事…返し歌)はするのに、逢いもしないで月日が経ったので、男、

われのみや燃えてかへらむよとともに 思ひもならぬ富士の嶺のごと

(我だけか、燃えて元に返らない、身の上と共に、思いをかけても成らない、富士の嶺の如き・高嶺の華よ……我の身や、燃えて元に返らない、夜と共に、思いも成らない、富士の嶺のごとく・くすぶっている)。

 

言の戯れと言の心

「のみ…だけ…の身…おとこ」「よ…世…身の上…身分…夜」「思ひ…思い…思火」。

 

女、返し、

富士の嶺のならぬ思ひも燃えば燃え 神だに消たぬむなしけぶりを

(富士の嶺の・高望みの・思いも、燃えるならば燃えよ、神さえ消せない、むなしい煙よ……不死の山の頂きの成らない思火も、燃えるなら燃えよ、女でも消せない、男の・むなしい気振りよ)。

 

「ふじ…富士山…不死…不二」「神…上…女」「けぶり…煙…気振り…そぶり…ふるまい」。この歌は古今集巻第十九に紀乳母作としてある。

 

また、男、返し、

神よりもきみは消たなむたれにより なまなまし身の燃える思ひを

(神よりも、あなたは消すべきだ、誰により、なまなましい身が燃える思火となったのか……神よりも、あなたは・我が思火を・消してほしい、誰による、なまなましい身の、燃える思火おなのか)。

 

言の戯れと言の心

「なむ…強く望む意を表す…(けして)ほしい…(けす)べきだ」「を…詠嘆を表す…お…おとこ」。

 

また、女、返し、

かれぬ身を燃ゆと聞くともいかがせむ けちこそしらねみづならぬ身は

(枯れもしない身を、燃えていると聞いても、如何しましょう、消すことすら知らない、水でない身は……なまの身お、燃えていると聞いても、如何しましょう、消すことさえ知らない、見ず、ならない身は)。

 

「身を…身お…おとこ」「みづ…水…見づ…見ず…見ない」「見…覯…媾…まぐあい」。

 

このように歌も詠み、をかしかり(優れておもしろい…滑稽だ)けれども、まじめに、にげなし(不釣り合い……相応しくない)と、女が・言ったので、男は・言い止んだのだった。

 


 女は紀乳母、陽成天皇の乳母であった位の高い人。この人の場合はわからないが、乳母は天皇即位と共に三位に叙せられることもある。

平中は年齢も位も下。桓武天皇を祖とする元皇族。父の代に平の姓を賜り臣に下った人。


 

平中物語の原文は、小学館 日本古典文学全集 平中物語による。歌の漢字かな表記は必ずしも同じではない。

 

 


帯とけの平中物語(十)また、このおなじ男、女どもありけり

2013-10-30 00:07:44 | 古典

    



               帯とけの平中物語



 「平中物語」は、平中と呼ばれた男の詠んだ古今和歌集には載せられない和歌を中心にして、その生きざまが語られてある。平中は、平貞文のあだ名で、在中将(在原業平)に次ぐ「色好みける人」という意味も孕んでいる。古今集の編者の貫之や躬恒とほぼ同世代の人である。

色好みな歌と物語を紐解いてゆく。言の戯れを知り、字義とは別に孕んでいる言の心を心得て読むことができれば、歌の「清げな姿」の裏に「心におかしきところ」が見える。物語の帯はおのずから解ける。



 平中物語(十)また、このおなじ男、女どもありけり


 また、この同じ男(平中)に、女ども(女・複数……女友)いたのだった。それが来たのだった。夜が更けるまで、ものがたり(雑談……色々なものの話)をして、帰って、言ってきた、

さよふけて嘆き来にしをいつの間に 夢に見えつつ恋ひしかるらむ

(さ夜更けたので嘆きながら帰って来たわ、いつの間にか夢に見ながら、君を・恋しがっている、どうしてかしら……さ夜更けて、嘆きが来たわ、いつの間にか、君は・夢で見えて、わたしも・見つつ、乞いし、かりしている、どうしてでしょう)。


言の戯れと言の心

「なげく…(くやしくて)悲嘆する…(残念で)溜息する…(あいたくて)嘆願する」「見る…(夢など)見る…娶る…媾…まぐあう」「こひ…恋い…乞い…願い求めること」「こひしかる…恋しくある…乞いし狩る」「かる…狩る…猟る…あさる・むさぼる・つむ…めとる…まぐあう」「らむ…原因理由などを疑う意を表す」。

 

返し、

嘆くてふことぞことわり思ひせば 夜半に来て寝ずかへらましやは

(嘆くということはだ、道理でごもっとも、人にもしも・思をかけるならば、夜半に来て寝ずに帰るだろうか、帰らないものを……あなたが・嘆願するということはね、もっともなことよ、我にもしも・思火に火がつけば、夜半に山ば来て寝ずに繰り返すだろうか、するだろう)。

 

言の戯れと言の心

「なげく…上の歌に同じ」「かへらましやは…帰らましやは…返らましやは」「まし…仮想に基いて推量などする意を表す」「やは…疑問の意を表す…反語の意を表す」。

 

古今集真名序では、この時代の歌を、ほぼ次のように評す。「浮詞は雲と興り、艶流は泉と湧く、其実、皆落ち、其華は孤り栄える、至りて有るは好色の家、此を以って為すは花鳥の使、乞食の客、此れを以て為すは活計の謀」。

 

「花鳥の使」は、まさに上の歌のような、恋の便りのこと。「乞食の客」は、旅の僧または「なま法師」といわれる自称法師で、門づけ芸人のこと。好色な歌を唄い、笑いを誘って物を乞うたようである。清少納言はお好きだった。


 

 平中物語の原文は、小学館 日本古典文学全集 平中物語による。歌の漢字かな表記は必ずしも同じではない。



 以下は、平安時代の物語と歌を読むための参考に記す。

 

古今集仮名序の結びに「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、歌が恋しくなるだろうとある。


 歌の様(
和歌の表現様式)については、藤原公任に学ぶ。『新撰髄脳』に「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることがわかる。これが「歌の様」である。

「言の心」については、先ず、平安時代の言語観を清少納言と藤原俊成に学ぶ。清少納言は「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの」、それが我々の言葉であると『枕草子』第三章に記している。藤原俊成は「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ているが、そこに言の深い趣旨が顕れる」という。これらの言語観によれば、歌言葉などには、字義以外にもこの文脈で孕んでいた意味があることがわかる。それを一つ一つ心得ていけばいいのである。

 

歌も物語も、今では「色好み」な部分がすべて消えて、清げな姿しか見せていない。その原因は色々あるけれども、一つは、鎌倉時代に和歌が秘伝となって埋もれたことにある。古今伝授として秘密裏に継承されたがそれも消えてしまった。秘伝など論理的に解明することなど不可能であるから見捨てて、原点の貫之・公任の歌論に帰ればいいのである。もう一つは、近世より、古典文芸について、論理実証的考察が始まったことである。この方法は文献学や言語学には有効な方法かもしれない。誰もがこの方法を、和歌や物語の解釈にも有効であると思いたくなる。しかし、和歌と女の言葉の戯れは、論理などで捉えられるような代物ではなかったのである。「聞き耳異なるもの・女の言葉」とか「歌の言葉・浮言綺語の戯れ」ということを、素直に聞けばわかる。言語観は平安時代の清少納言・藤原俊成に帰るべきである。


帯とけの平中物語(九)また、この男、音ぎきに聞き ・(その五)

2013-10-29 00:01:08 | 古典

    



               帯とけの平中物語



 「平中物語」は、平中と呼ばれた男の詠んだ古今和歌集には載せられない和歌を中心にして、その生きざまが語られてある。平中は、平貞文のあだ名で、在中将(在原業平)に次ぐ「色好みける人」という意味も孕んでいる。古今集の編者の貫之や躬恒とほぼ同世代の人である。

色好みな歌と物語を紐解いてゆく。言の戯れを知り、字義とは別に孕んでいる言の心を心得て読むことができれば、歌の「清げな姿」の裏に「心におかしきところ」が見える。物語の帯はおのずから解ける。


 

平中物語(九)また、この男、おとぎきに聞きならしつつ・(その五)


 さて(そうして……倦怠期なので)、そのころ久しく・妻の許へ・行かなかったので、男、愛おしいがって、また、つとめて(ふたたび早朝……回復に努力して)、このように、

 うちとけてきみは寝ぬらむ我はしも 露とおきゐて思ひあかしつ

(くつろいで、よく寝られたでしょう、我はといえば、夜露とともにおきて居て、もの思い明かした……すっかりくつろいで、あなたはひとり寝たことでしょう、我は、しも、つゆ、と共に、起立していて、もの思い明かした)。


言の戯れと言の心

 「しも…強調の意を表す…下…肢も」「つゆ…露…おとこ白つゆ」「おき…置き…起き…起立して」「ゐて…居て…射て」。

 

と言ったのに、この女は、夜ひと夜、ものをのみ(ものばかり……もの、おの身)思い明かして、ぼんやりと外を眺めているときに、使いが男の歌を・持って来たのだった。

白露のおきゐてたれを恋ひつらむ われは聞きおはずいそのかみにて

(白露のようにおきて居て、誰を恋いしていたのでしょう、わたしは聞こえていません、古き都の石上に居て……おとこ白つゆが、起きて、射て、誰を恋いしていらっしゃったの、わたしは、効き極まらず、古妻でして)。


言の戯れと言の心

「白露…おとこ白つゆ」「おきいて…(露が)おりて居て…起きて居て…起立して射て」「きき…聞き…効き…利き」「おはず…負はず…影響受けない…追はず…極まらない…感極まらない」「いそのかみ…石上…古き都のあった所の名…布留という地…古女…古妻」「石…磯…女」「かみ…神…上…女」「にて…場所を表す…資格を表す…年齢を表す…原因理由を表す」。

 

この女が住んでいた所を、石上とは言ったのだった。(第九章終わり)

 


 この頃(古今集編纂時)の、この人々の和歌こそ、仮名序にいう「色好み歌」の典型である。その具体的な意味合いを、今、われわれは聞いたのである。公の「まめなる所」では詠めない、あだ (不実…婀娜) な歌を、真名序では澆漓(ぎょうり・軽薄極まる)とか、奢淫(しゃいん・みだらに過ぎる)という言葉で表している。このような、花鳥の使い(男と女の便り)の歌から脱却し、人麻呂、赤人の歌に帰ろうというのが、古今和歌集編纂の主な観点(コンセプト)であった。


 

 原文は、小学館 日本古典文学全集 平中物語による。歌の漢字かな表記は必ずしも同じではない。



 以下は、平安時代の物語と歌を読むための参考に記す。

 

古今集仮名序の結びに「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、歌が恋しくなるだろうとある。


 歌の様(
和歌の表現様式)については、藤原公任に学ぶ。『新撰髄脳』に「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることがわかる。これが「歌の様」である。

「言の心」については、先ず、平安時代の言語観を清少納言と藤原俊成に学ぶ。清少納言は「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの」、それが我々の言葉であると『枕草子』第三章に記している。藤原俊成は「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ているが、そこに言の深い趣旨が顕れる」という。これらの言語観によれば、歌言葉などには、字義以外にもこの文脈で孕んでいた意味があることがわかる。それを一つ一つ心得ていけばいいのである。

 

歌も物語も、今では「色好み」な部分がすべて消えて、清げな姿しか見せていない。その原因は色々あるけれども、一つは、鎌倉時代に和歌が秘伝となって埋もれたことにある。古今伝授として秘密裏に継承されたがそれも消えてしまった。秘伝など論理的に解明することなど不可能であるから見捨てて、原点の貫之・公任の歌論に帰ればいいのである。もう一つは、近世より、古典文芸について、論理実証的考察が始まったことである。この方法は文献学や言語学には有効な方法かもしれない。誰でもこの方法を、和歌や物語の解釈にも有効であると思いたくなる。しかし、歌と女の言葉の戯れは、論理などで捉えられるような代物ではなかったのである。「聞き耳異なるもの・女の言葉」とか「歌の言葉・浮言綺語の戯れ」ということを、素直に聞けばわかる。言語観は平安時代の清少納言・藤原俊成に帰るべきである。

 

 


帯とけの平中物語(九)また、この男、音ぎきに聞き ・(その四)

2013-10-28 00:09:45 | 古典

    



               帯とけの平中物語



 「平中物語」は、平中と呼ばれた男の詠んだ古今和歌集には載せられない和歌を中心にして、その生きざまが語られてある。平中は、平貞文のあだ名で、在中将(在原業平)に次ぐ「色好みける人」という意味も孕んでいる。古今集の編者の貫之や躬恒とほぼ同世代の人である。


 物語も歌も、言の戯れを知り「言の心」を心得て読めば、その「清げな姿」だけではなく「心におかしきところ」が見える。言の心を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。

 

平中物語(九)また、この男、おとぎきに聞きならしつつ・(その四)


 そうして、この(妻への優しい)心が、変るようすがしたので、女、

あひ見てののちぞくやしさまさりける つれなかりける心と思へば

(お逢いして後ぞ、悔しさ増さることよ、すげなく冷淡なお心になったと思えるので……合い見ての後に、心残りな思いが増すことよ、すげなく淡白にかりすることよと思えるので)。


言の戯れと言の心

「あひ見て…相逢って…合い見て…合い合って」「見…まぐあい」「くやしさ…後悔せずにいられない気持…心残りな心地」「つれなかりける…すげなくてなおざりであることよ…冷淡・淡白にかりすることよ」「かり…狩…猟…あさり・むさぼり…まぐあい」。

 

とあるのを見て、男、

見てのみぞわれはもえ増す春山の よその嘆きを思ひつぎつつ

(あなたの顔を・見ているだけでだよ、我は思いが萌えて増す春山のよう、離れている嘆きを思い気遣いながら……見た後の身がだよ、われは萌えて増す、春の・張るの・山ばのよう、よそよそしい嘆きを思い、思いを継ぎながら)。


 「見て…目で見て…逢って…合って」「見…覯…媾…まぐあい」「春…季節の春…張る…春情」「山…山ば」「の…比喩を表す…野」「よそ…他所…離れているとき」「おもひつき…思い付き…好意を持って寄り添う…思い継ぎ…思いを継続し…ものを持続し」。

 

と応えたけれど、やはり、心ざし(好意…愛情)が、おろそかなように見えたので、女、

 いまよりは富士の煙もよに絶えじ 燃ゆる思ひの胸に絶えねば

(これからは富士の煙も決して絶えないでしょう、燃える思いの火が、わたしの小さな・胸に絶えないのですから……これからは、不二の気振りも、夜に絶えないでしょう、君への・燃える思火が、わたしの胸に絶えないから)。

 

 「ふじ…富士山…不死…絶えることがない…不二…二つとない」「けぶり…煙…気ぶり…気持の表れの振る舞い・なりふり」。

 

男、返し、

 くゆる思ひ胸に絶えずは富士の嶺の なげきと我もなりこそはすれ

(くすぶる思いが、あなたの・胸に絶えないのは、富士の峰の、投げ入れる薪と、我もなってはいるのだな……くすぶる思火、胸に絶えないのは、あなたのその・不死の山ばが、嘆きと、我にはなってはいるのだよ)。

  

 「峰…山ばの頂上」「なげき…投げ木…薪…煙の原因…嘆き…悲嘆」。


(つづく)。


 

出会いから、女の心情は歌に表され、色好みで浮気な男の心に直に伝わっていた。そのわけは、歌の巧みさよりも、和歌という表現形式の絶妙さにある。女の正直で生々しい心情は、清げな言葉に包まれてあるが、男の心に達すれば、「心におかしきところ」となって、しみじみと感じられるようである。「よよに住まむ(妻としていつまでも通って来よう)」と言わせた。また、男の浮気の虫を(何はの方にもの見に行くのを)、留めたのも女の歌であった。

そしてここで、この夫婦に倦怠期がきたようである。


 

 原文は、小学館 日本古典文学全集 平中物語による。歌の漢字かな表記は必ずしも同じではない。



 以下は、平安時代の物語と歌を読むための参考に記す。

 

和歌は、古今集仮名序の結びに「歌の様を知り、言の心を心得える人」には恋しくなるだろうとある。「歌の様(和歌の表現様式)」については、藤原公任に学ぶ。『新撰髄脳』に「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあるとわかる。これが「歌の様」である。

 

「言の心」については、先ず、平安時代の言語観を清少納言と藤原俊成に学ぶ。清少納言は「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの」、それが我々の言葉であると『枕草子』第三章に記している。藤原俊成は「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ているが、そこに言の深い趣旨が顕れる」という。これらの言語観によれば、歌言葉などには、字義以外にもこの文脈で孕んでいた意味があることがわかる。それを一つ一つ心得ていけばいい。

 

 


帯とけの平中物語(九)また、この男、音ぎきに聞き ・(その三)

2013-10-26 00:06:38 | 古典

    



               帯とけの平中物語

 
 
「平中物語」は、平中と呼ばれた男の詠んだ古今集には載せられなかった和歌を中心にして、その生きざまが語られてある。平中は、平貞文のあだ名で、在中将(在原業平)に次ぐ「色好みける人」という意味も孕んでいる。古今和歌集の編者の貫之や躬恒とほぼ同世代の人である。


 

平中物語(九)また、この男、おとぎきに聞きならしつつ・(その三)


 さて、またこの男(平中)、いきて(女の許へ・行って……逝って)、明くる朝に、女が言った。

 言の葉の人だのめなる憂き露の おきていぬるぞ消えて恋しき

 (君の言葉が人を頼りにさせる・けれども実が無い・憂き露のよう、おきて帰ってしまうのね、消えてやがて恋しい……君の言葉が女を頼りにさせるけれど憂き露のよう・一瞬の少なき白つゆ贈り・置きて帰るのね、消えて乞いしい)。


言の戯れと言の心

「人だのめ…人に頼もしく思わせること…頼もしく思わせるだけで実の無いこと」「憂き露…いやな白露…ほんの少し、一瞬のこと、やがて消えるおとこ白つゆ」「おきて…起きて…(露など)おりて…置いて…送り置いて」「消えて…消えるので…消えそうして」「恋しき…慕わしくなる…乞いしき…求めたくなる」。

 

返し、

あはれあはれおきて頼むな白露は 思ひに草の葉やかるるとぞ

(あゝ、かわいそう、降りても頼りにするな、白露は、思いによって、草の葉を枯らすとかいうぞ……あゝ、いとおしい、贈り置かれても頼りにするな、おとこ白つゆは、その思い火で、女の端、焦がれさすとかいうぞ)。


言の戯れと言の心

「あはれ…かわいそう…いとおしい」「草…女」「葉…端…身の端」「枯るる…涸るる…干からびてだめになる…焦がれる」「る…受身の意を表す…自発の意を表す」。

 

こうして過ごしている時に、逍遥(物見・遊行)したかったので、なにはのかた(難波の景色の良い所……遊女たちも居て賑わっている船着き場)へ行くのだった。「その間、平穏でいてくださいよ、これは但馬の国より持って来た『たにもかく』という、もの(蛙の置物)を遣るね」と、

かた時の別れだにかくわびしきを

(片時の別れでさえ、こんなに辛いことよ・すぐにかえるからね)

と言ったので、女、

ゆきかへるまにわれは消ぬべし 

(君が行き帰る間に、わたしは・命・消えてしまうでしょう……君が逝き、よみがえる間に、わたしは・思い火・消えてしまうでしょう)。

さらば(君が・そんなおつもりならば……それではさようなら)などと言って、また、女、

難波がた朝満つ潮のはやく来ね 淀まば身のあわたへずけぬべし

(難波潟、朝満つ潮のように、はやく・帰って・来てほしい、よどんだら、身が泡・泡のようなわたくし・耐えられず、命消えてしまうでしょう……何とかの方で、浅はかに満ちる肢おのように早く・帰って・来てね、君が・そこに留まれば身の泡絶えず、わたしは・泡のように消えるでしょう)。


言の戯れと言の心

「なにはかた…難波潟…京では見られない海辺の風情ある所…何は方…帰り船の男どもや巷の男どもの集う遊女の居る所」「しほ…潮…士ほ…肢お」「ほ…お…おとこ」「ね…願望を表す…命令を表す」「あわ…淡…泡沫…白…消えやすいもの」。

 

男、返し、

干る潮の満ちかへる間にけぬべくは なにか難波の潟をだに見む

(ひく潮の満ちかえる間に、きみが・消えてしまうにちがいないなら、どうして難波の潟を・景色などを・見るだろうか、見に行かないよ……ひる肢おの、満ち返る間に、きみが・きっと消えてしまうならば、どうして何はの方をだ、見ようか見ないよ)。


言の戯れと言の心

「ひる…干る…干潮になる…ものを体外に出す」「潮…上の歌に同じ」「難波の潟…上の歌に同じ」「見…覯…媾…まぐあい」。


と言って、難波へも行かず、あはれがりて(我を・哀れがって……妻を・いとおしがって)、思い・とどまった。(つづく)

 


 

  原文は、小学館 日本古典文学全集 平中物語による。歌の漢字かな表記は必ずしも同じではない。