帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第三 別旅(百九十九と二百)

2012-07-12 00:06:10 | 古典

  



          帯とけの古今和歌集


 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集 巻第三 別旅 二十首
(百九十九と二百)


 命だに心にかなふものならば 何か別れのかなしからまし 
                                   
(百九十九)

(命さえ、人の心に叶うものならば、どうして別れが、哀しかったりするでしょうか……君のこの君の命さえ、女の思いどおりになるものならば、どうして山ばの先の別れが、哀しかったりするでしょうか)。


 言の戯れと言の心

 「命…人の寿命…君の命…はかないおとこの命」「心にかなう…心に叶う…思いどおりになる」「別れ…旅人との別れ…人の命との別れ…元気になって帰ってきそうもない病人との別れ…返らないおとこの命との別れ」「何か哀しからまし…どうして哀しがったりするでしょうか、しないでしょう」。


 古今和歌集によれば、或る男が、つくしへ(筑紫へ…病の命尽くしに)湯浴みしょうと、出かけた時に、山さき(山崎…船着き場の名…山ばの先)にて、別れ惜しみしたところで、詠んだ、遊女の歌。


 歌の清げな姿は、神のみぞ知る人の寿命ながら、生きて再び逢えないと誰もが感じている人の餞別の宴での歌。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、帰らぬ別れの哀しみに、山ばの先での返らぬ別れの、女の哀しみを添えてあるところ。

 


 北へゆく雁ぞなくなる連れてこし 数はたらでぞ帰るべらなる 
                                    
(二百)

 (北へ行く雁が鳴いているようね、連れだって来た数が足りないで、帰るのでしょう……

つれあい北辺で逝く、かりぞ無くなる、連れだって越した山ばの数は足りなくて、独り京へ帰らなければならいの)。


 言の戯れと言の心

 「かり…雁…鳥…女…刈り、狩り…めとり…まぐあい」「なくなる…鳴いている…無くなる」「つれて…連れて…一緒に」「こし…来し…来た…越し…越えた」「数…鳥の員数…連れて越した数」「かへる…帰る…返る」「べらなり…しているのだろう…することになろう…しなければならない」「なり…推量の意を表す…断定の意を表す」。「京…都…山ばの頂上」。


 古今和歌集によると、題しらず、よみ人しらずの歌。左注に「この歌は、或る人、男女諸共に地方の国へ、(赴任するために)でかけ、その国に至って、即、亡くなったので、女ひとり、京へ帰る道で、帰る雁の声を聞いて詠んだと云う」とある。


 歌の清げな姿は、鳴く雁に寄せて、地方で夫を亡くし独り京へ帰らなければならない女の心情。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、女独り山ばの頂上へ、返らなければならないのと、自嘲気味な心情が顕れているところ。


 新撰和歌集は、作歌事情など充分に承知したおとなの男たちが、歌の心におかしきところを、吟味する歌集である。
 貫之が、撰ぶ歌は「漸艶流於言泉」(にじみでる艶流、於ける言葉の泉)と漢文序に記す。この「艶流」を実感できる、歌の聞き方がある。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず

  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。