帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第九 羇旅歌 (418)狩りくらしたなばたつ女に宿からむ

2018-02-21 21:38:58 | 古典

            

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第九 羇旅歌

 

惟嵩親王の供に、狩りにまかりける時に、天の河と

言ふ所の河のほとりに下り居て、酒など飲みけるつ

いでに、親王の言ひけらく、狩りして天の河原に至

ると言ふ心をよみて、さか月は注せと言ひければ、

よめる                業平朝臣

狩りくらしたなばたつ女に宿からむ 天のかはらに我は来にけり

(惟嵩親王の供として、狩りに出かけた時に、天の河と言う所の、河の辺に馬を下り居て、酒など飲んだついでに、親王が言われたのは、狩りして天の河原に至ると言う心を詠んで、人々の心を和ませて、盃は注せと、言われたので、詠んだと思われる・歌)(なりひらの朝臣)

(狩りして日を暮らし、七夕姫に、宿を借りよう、天の河原に、我は来たことよ……おんな狩りして日暮し、七夕姫に、や門借りよう、あまのかの腹に、我は来たなあ)。

 

 

「狩り…獣狩り…女狩り…おんなあさり」「たなばたつ女…七夕姫…織姫」「宿…やど…や門…おんな」「天のかはら…天の河原…所の名…物の名。名は戯れる。女の川腹、川腹、おんな」「来にけり…来てしまったことよ…来たのだなあ」「けり…気づき・詠嘆の意を表す」。

 

狩りして日を暮らし、七夕姫に、宿を借りよう、天の河原に、我は来たことよ――歌の清げな姿。

狩りの遊びをしていて、天の川という所で日が暮れたという呑気な情況に見えるが、現在の政権より、第一皇太子である惟嵩親王と、業平は命さえ狙われている敵対する人、それを承知しの上で都に近づいて来てしまった。もはや行き場のないこのような旅こそ、羇旅の旅である。

伊勢物語こそ、業平の羇旅の物語である。

 

おんな狩りして日暮し、七夕姫に、や門借りよう、あまのかの腹に、我は来たなあ――心におかしきところ。

どの様な情況でも、人々を和ませるのが、和歌である。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)