帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

古今和歌集の歌の秘義(六)

2013-03-08 00:32:26 | 古典

    



            古今和歌集の歌の秘義()



 枕草子
にある清少納言の言語観を、「同じ言葉でも、聞き耳によって意味の異なるもの、それが我々の言葉である」と読みとる。古来風体抄にある藤原俊成の言語観も「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ているが、そこに言の深い趣旨が顕れる」と認識して、伊勢物語、古今和歌集、土佐日記、枕草子など平安時代の文芸を、そのような言語観で読み直せば、藤原公任のいう「心におかしきところ」が見える。


 掛詞を浮言綺語の戯れと捉え直す


 「掛詞」などという言葉は、平安時代に無かった。今では、和歌に「掛詞」と名付ける修辞法があるという。辞書によると「一つの言葉に二重の意味を持たせるものである」という。それを指摘すれば歌が解けたように思いたくなるが、そうではない。それは歌の表層の清げな衣の紋様の発見のようなものである。

 

例歌を見てみよう。古今和歌集秋歌上 題しらず よみ人しらず。

わが背子が衣のすそを吹き返し うらめづらしき秋の初風

「うら」は、裏と心との掛詞で、歌は「わたしの彼の衣の裾を吹き返して、衣の裏を見せて、心珍しい秋の初風だこと」となる。これだけの歌だろうか。


 言の戯れと言の心
 「ころも…衣…心身を包むもの…心身の換喩」「うらめづらしき…心珍しい…恨めつらしき…恨めしい感じのする」「あき…飽き…厭き」「風…心に吹く風…心が凍る寒風もあるが、ここでは、飽き満ち足りた初風か、厭きの初風か…体言止めは詠嘆の心情などを表す」。


 歌の心におかしきところは、「わたしの彼の身や心のすそを、吹き返して、心恨めしい、厭きの初風だことよ」となる。


 

 古今和歌集 離別歌 題しらず、在原行平朝臣。

たち別れいなばの山の峰に生ふる 松とし聞かばいま帰りこむ


 「いなば」は、往なばと因幡の掛詞で、「まつ」は松と待つの掛詞。歌は「出発し、別れ往なば、因幡の山の峰に生える松、待つと聞いたなら、今にも、帰って来るだろう」。


 言の戯れと言の心
 「たち…発ち…絶ち…断ち」「いなば…因幡…国の名…名は戯れる、往なば、行けば、逝けば」「山…山ば」「おふる…生える…きわまる…感極まる」「松…待つ…女」「いま…今にも…ただちに…井間に」「井間…女」「かへり…帰り…返り…くり返し」「む…推量を表す…意志を表す」。


 歌の心におかしきところは、「絶ち別れいく、山ばの峰で感極まる女、待つわと言うのを聞けば、いまに、繰る返るぞ・我は」。


 題しらずとあるので、おそらくは、因幡の国への赴任の旅発ちの歌と言うよりも、女人が原因の左遷(都から遠ざけられる)の旅のようである。懲りないぞと言う意志が表れている。



 反国文学的断章は、これで終わる。批判は続けると楽しくない。一石を投じてやめるのは惜しい気もするが、波紋が広がる、それでいいとする。


古今和歌集の歌の秘儀(五)

2013-03-07 00:01:36 | 古典

    



            古今和歌集の歌の秘儀(五)



 歌を字義どおり聞くと、歌の思いと直接関連の無い部分が表れる。その部分は序詞と名づけられた。序詞のある歌は古今集に二十数首はある。

貫之のいう「言の心」と、俊成が歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕われる」というのを無視して、字義通りに聞くと、それは表れたのである。三首ばかり撰んで聞いてみよう。



 序詞と云われる部分の秘義


 古今和歌集 恋歌一  題しらず よみ人しらず

あふ坂の関に流るゝ岩清水 いはで心に思ひこそすれ

岩清水までは序詞で、「いは」と言う言葉を導き出すためにある。または、「言わないで心には思っている」という歌の主な想いに情緒的な色付けをしたり、歌の調べを整える為にあると説明される。


 歌言葉の戯れと言の心を心得て聞けば、上のような苦しい説明は要らない。
 歌は(逢坂の関に流れる岩清水、言わないで心に思っているわ……和合の山ばの難所で、汝涸れる、心動かぬ澄んだ女、口には出さないで心で乞い、恋しいと思っているわ)である。

 「あふさか…逢坂…関所の名…合う坂…和合の山ば」「関…関所…難関…難所」「ながるる…流れる…なかれる…汝涸れる」「な…汝…親しきもの…おとこ」「いは…岩…言の心は女」「水…言の心は女」。


 

古今和歌集 恋歌二 題知らず 貫 之

五月山こずゑを高みほととぎす 鳴くねそらなる恋もするかな

(夏五月の山、高く伸びた梢にいるので、ほととぎす、鳴く声空遠く・高嶺の花に、恋をすることよ……さ突きの山ば、小枝に、高いため、ほと伽す女、泣く声、空しい乞いもするかな)


 言の戯れと言の心

「さつき…五月…さ突き」「さ…接頭語」「山…山ば」「こずゑ…梢…小枝…おとこ」「を…が…お…おとこ」「たかみ…高いため…山ばが高いため」「ほととぎす…時鳥…鳥…女…ほと伽す」「なく…鳴く…泣く」「そら…空…むなしい」「こひ…恋い…乞い…求め」。

 


 古今和歌集 恋歌二題知らず 壬生忠岑

風ふけば峰にわかるる白雲の たえてつれなき君が心か

(風吹けば、山の峰で別れる白雲のよう、絶えて、つれない貴女の心だことよ……心に飽き風吹けば、山ばの峰で別れる、白じらしい心雲が絶えて、つれない男の心だなあ)


 言の戯れと言の心

「峰…山ばの頂上…絶頂」「白雲…白々しくなった心雲」「白…おとこの色」「雲…心に煩わしくも湧き立つもの、情欲など」「の…のよう…比喩を表す…が…主語を表す」「つれない…冷淡な…薄情な」「きみ…貴女…男」。

 

江戸時代に、契沖は『古今余材抄』で、この歌の「上の句は序」だという、そして訳さずという。歌は「たえてつれなききみが心か」となり、「世にもたぐいまれなつれない君が心か」と訳す。

本居宣長の『古今和歌集遠鏡』は「類も無いけしからぬ気強い君が心か」と訳す。

香川景樹は『古今和歌集正義』で、「絶えて」は、絶倫や絶景の「絶」ではない、絶えて知らぬ、絶えて聞こえぬという絶えてであると異を唱えるが、いづれにしても、上の句は序詞だと言うことに変わりなく、国文学に継承されて、今も、この歌は、そのように聞かされ聞いている。

 

和歌の国文学的解釈は、その最初に、解釈の方法を間違えたようだ。もとより和歌に序などない。序詞などという言葉も平安時代にはないのである。


古今和歌集の歌の秘儀(四)

2013-03-06 00:08:43 | 古典

    

 

            古今和歌集の歌の秘儀(四)



 古今和歌集の歌の多重の意味は、鎌倉時代に秘伝となって、やがて下の心は埋もれ木となった。今の人々が見ているのは和歌の清げな姿である。なぜそうなったのか。先ず江戸の学者たちは、貫之、公任の歌論の「歌の様」を無視して、和歌の解き方を新たに考察しはじめた。歌言葉についても「言の心」を無視して字義を専らとして、唯一正当な意味を決定しょうとした。俊成は歌言葉について「浮言綺語の戯れに似ている」と言い、そこに、歌の趣旨が顕れると言っていることも無視したのである。


 歌言葉の戯れは、枕詞、序詞、掛詞、縁語などと名付けて克服できたように見える。しかし如何なる理性も論理も戯れ変化してきた言葉を牛耳ることはできない。和歌のここまでは序詞、これは掛詞、これとこれは縁語と指摘すれば歌を把握できたと思いたくなるが、歌の「清げな姿」の紋様の発見のようなもので、「深い心」や「心におかしきところ」が解けたのではない。

「心におかしきところ」を蘇えらせることができるのは、意味が秘義となる以前、古今集の歌の文脈の真っただ中にいる人々の歌論であり言語観である。



 さつき待つ花たちばなの秘儀


 古今和歌集 夏歌、題しらず、よみ人しらず。伊勢物語 第六十段にもある歌を聞きましょう。


 さつき待つ花たちばなの香をかげば むかしの人の袖の香ぞする


 江戸の学者、本居宣長の「古今和歌集遠鏡」の訳は「五月ニサク橘ノ花ノニホヒヲカゲバ、マヘカタノナジミノ人ノ袖の香ガサスル」である。

明治の国文学者、金子元臣の「古今和歌集評釈」は「五月を待ちつけて咲く、その花橘の香をかげば、今に忘れられぬ昔馴染みの人の袖の香が、存外するわい」である。

現代の国文学的解釈、新 日本古典文学大系本 古今和歌集では「夏の五月を待って咲く花橘の香りをかぐと、もと知っていた人の袖の香りがする思いだ」とある。解釈はおおむね同じである。


 この歌、「伊勢物語」の文脈にあっては、上のような平穏な歌ではありえない。一人の女がこの歌によって尼になったというのである。


 伊勢物語 第六十段での歌を聞き直そう。


 むかし、男が居た。宮仕えが忙しく、心も真面目ではなかった頃、家の主婦が、「まめにおもはむ(貴女を誠実に思うよ)」と言う人について地方の国へ行ったのだった。この(妻を寝とられた)男、宇佐の使い(勅使)となって行った時に、或る国の祇承の官人(勅使の接待もその役目)の妻となっていると聞いて、「をんなあるじにかわらけとらせよ、さらずはのまじ(女主人に酒の酌をさせろ、でないと、飲まない・おまえの言う事聞かない、ぞ)」と言ったので(脅したので、元の妻・女主人が)、酒杯をとって差しだしたときに、男、肴であった橘をとって、

さつき待つ花たちばなの香をかげば むかしの人の袖の香ぞする

(五月待つ花橘の香をかげば、むかしの女人の袖の香がするぞ……さ突き待つ、先、立ち端の香をかげば、むかしの男の身の端の香がだ、するぞ)。

といひけるにぞ、思ひいでて、あまになりて、山にいりてぞありける(と言ったので、女は・思いだして、尼になって山に入って居るということだ)。


 言の戯れと言の心

「さつき…五月…さ突き」「さ…美称…接頭語」「はな…花…端…先端…身の端…おとこ」「たちばな…橘…木の花…立花…男木」「ひと…人…女…男」「そで…衣の袖…端…身の端」。

 

歌と物語をこのように聞けば、先日、述べたように、清少納言や紫式部や同時代のおとなの女たちの伊勢物語読後感に合致する。

物語の主人公(業平・作者)は、女を恨んで侮辱するというのが清少納言の見方である。枕草子(第七十八)はそのように読めた。
 主人公の心は最低だ、しかしこれが人の心である。業平の名(名声、評判、汝、その身の端)をくさして、この世から消してしまうことはできないでしょうというのが、紫式部の見解のようだ。源氏物語絵合の巻はそのように読めた。

 

江戸以来の歌や物語の解釈は、合理的で、論理実証的で、正当だと誰もが思っているが、解き明かしたのは、歌や物語のうわべの清げな姿だけである。


古今和歌集の歌の秘儀(三)

2013-03-05 06:03:46 | 古典

    



            古今和歌集の歌の秘儀(三)



 古今和歌集の歌の多重の意味は、鎌倉時代に秘伝となって、やがて下の心は埋もれ木となった。国学と国文学が解き明かすのは歌の清げな姿のみである。「心におかしきところ」という下の心を蘇えらせるために、意味が秘義となる以前に帰って、平安時代の人々は歌をどのように享受していたかということからやり直そう。


 紀貫之の春たちける日の歌


 古今集の第二首目の歌を聞きましょう。この歌も、置かれた位置から、立春の日の歌であると同時に春情の初めの歌であると推定される。古今集撰者紀貫之は、それをどのように詠んでいたのか聞きましょう。

袖ひちてむすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらむ

(袖を濡らして手で掬った水が凍っているのを、春立つ今日の風、とかしているだろうか……そでぬらし結んだをみなが、心に春を迎えず凍っているを、春たつ京の心風、とかしているだろうか)。


 言の戯れと言の心

「そで…袖…衣の袖…端…身の端」「ひちて…浸して…濡らして…ぬれて」「むすぶ…手で掬う…結ぶ…ちぎりを結ぶ…結婚する」「水…女…水草、水鳥、沼、川、滝、泉、など、なぜか言の心は女」「こほれる…凍っている…水ぬるむ春ではない…心に春を迎えていない…こ掘れる…まぐあう」「を…対象を表す…感動・詠嘆を表す…お…おとこ」「春…季節の春…春の情…張る」「たつ…(季節などが)始まる…起つ…立つ」「けふ…今日…京…山の頂…極まったところ…感極まったところ」「かぜ…風…心に吹く風…春かぜなど」「らむ…現在の事実について推量する意を表す…(新妻の心の内を)推量する意を表す」。


 歌は上のような言の戯れを全て踏まえられて、用いられてある。意味が三層に重なっていることがわかるでしょうか。


 藤原俊成は上のような言の戯れの内に顕れる意味を、当然聞きとった。『古来風躰抄』で、次のように評する。

この歌、古今にとりて、心もことばも、めでたく聞こゆる歌なり(この歌は、古今集の歌として、心も言葉も、愛でたくなる程すばらしと、聞こえる歌である……この歌は、いにしえも今でも、心におかしきところも、吟味され用いられた言葉も、愛でたいと聞こえる歌である)」。


 歌が色好みに堕落したのを嘆いた人の歌である。色情の表現は適度に抑えられてあって、二重に包まれて、絶艶とか妖艶とは言えないが、心におかしきところが「玄之又玄」なる処にあるのは、今の人々にもわかるでしょうか。


 俊成の子、定家は、貫之の歌について、『近代秀歌』(秘々抄とも云われる)で、次のように評している。

昔、貫之、歌の心巧みに、たけ及び難く、ことば強く、姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の躰を詠まず。それよりこの方、その流れうくるともがら、ひとへにこの姿におもむく」。そして、「花山僧正、在原中将、素性、小町が後絶えたる」という。それは、「余情妖艶」な歌のことである。


 「妖艶」とは文字通り、女があやしく身をくねらせるるようななまめかしさをいう。小野小町の歌の「余情妖艶」なさまを味わってみましょう。


 小野小町の花の色の歌


 古今和歌集 春歌下。定家が百人一首に撰んだ歌。

花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに

(わが花顔の色香は移ろうたようね、いたずらにわが身、世に経てもの思いに耽っていた間に……お花の色情は衰えたようね、いたずらにわが身、夜にふる、ながめしていた間に)。


 言の戯れと言の心

 「花…草の花(なでしこ・おみなえし等)…女花…花顔(楊貴妃の顔など女の美しい顔)…木の花(梅・桜など)…男花…はかなく散るおとこ花」「色…色彩…色香…色情…かたちある無常なるもの…おとこ」「み…身…見…覯…まぐあい」「世…夜」「ふる…経る…振る」「ながめ…眺め…見る…もの思いに沈む、耽る…長めののまぐあい…長雨…淫雨」「見…覯…まぐあい」。


 余情の「心におかしきところ」は言の戯れに顕れている。「深き心」は、有れば、直接、心に伝わるでしょう。


 草の花と木の花は「言の心」が異なる。この歌では両方の意味に戯れている。それを、花は桜と決め付けて女の容姿のたとえとし、小町が我が容姿の衰えを詠んだ歌とのみ聞けば、小町の歌にあるという「余情妖艶」が聞こえない。定家以降、この余情妖艶なところが秘義秘伝となってゆく。


古今和歌集の歌の秘儀(二)

2013-03-04 06:01:16 | 古典

    



               古今和歌集の歌の秘儀(二)

 
古今和歌集の歌の多重の意味は、鎌倉時代に秘伝となって、やがて下の心は埋もれ木となった。国学と国文学が解き明かすのは歌の清げな姿のみである。
  「
心におかしきところ」という下の心を蘇えらせるために、意味が秘義となる以前に帰って、平安時代の人々は歌をどのように享受していたかということからやり直そう。



 二条の后の春のはじめの御歌


 巻頭の一首は思春期を迎えた少年のとまどいの歌であった。少女の早春の日の青春の歌は、古今和歌集春歌上の第四首目に置かれてある。聞きましょう。


  二条の后の春のはじめの御歌

雪のうちに春はきにけり鶯の 凍れる涙いまやとくらむ

二条の后の(季節の春のはじめの御歌…春の情の初めの御歌)

(雪の降るうちに立春は来たきことよ、鶯の凍っている涙、いまごろ、とけているでしょうか……ゆきのうちに、春はきたことよ、女の凍っている涙、いま、とけるのでしょうか)。


 言の戯れと言の心

「ゆき…雪…白…おとこ白ゆき…男の情念」「はる…季節の春…情の春」「うぐひす…鶯…春告げ鳥…鳥の言の心は神世から女」「こほれる…凍っている…心に春を迎えていない…こ掘れる」「こ…小…接頭語」「ほる…井掘る…まぐあう」「らむ…見ていない事を推量する意を表す…事実を推量の形で婉曲に述べる…事実を詠嘆的に述べる」。


 鳥は女であること

鳥が女であるなどとは、根拠の無い、実証できないことである。もとより言葉の意味にいちいち根拠などない、くわえて、とりとめもなく戯れるものである。この国では神代から鳥の言の心が女として用いられてきたためである。『古事記』を開けば、鳥は女であったことがわかる。要約して示す。


 賢しくて麗しい女がいると、お聞きになった八千矛の神は、さよばい(娶り)にお出ましになって、おとめの寝る板戸を、押しゆるがして、「我が立たせれば、あを山に、ぬえは鳴きぬ、さ野つ鳥ききしはとよむ、庭つ鳥かけは鳴く、うれたくも(腹立たしくも)鳴くなる鳥か、この鳥も、うち止めこせね(さっと止めさせろ)――」とお詠いになられた。

賢しこく麗しい沼河姫、未だ戸を開かずお詠いになった。「八千矛の神のみこと、(われらは)ぬえ草の女にしあれば、わが心、浦渚の鳥ぞ、今こそは我鳥にあらめ、後は汝鳥にあらむを、命はな死せたまひそ(命まではとらないでね)――」。


 鳥は御仕えする女たちであり、沼河姫自身のことである。これを比喩とか擬人法と捉えるよりも、鳥の「言の心」は女であると心得るのである。


 雪は男の情念であること

「雪」が男の白い情念であることは、二条の后の御歌の前後に置かれた歌で普通に通用している事である。その歌を聞きましょう。


  古今和歌集 春歌上第三首目 題しらず、よみ人しらず、

春霞たてるやいづこみ吉野の よしのの山に雪はふりつゝ

(春霞が立ち始めたのは何処、みよしのの吉野の山に、雪は降り続いているのに……はるが済み、絶つたか、出づこ、見好しのの好しのの山ばに、白ゆきふりかさねつつ)。


 言の戯れと言の心

「春…季節の春…情の春…張る」「立つ…絶つ…断つ」「いづこ…何処…出づこ」「こ…おとこ」「山…山ば」「雪…おとこ白ゆき…男の情念」「つつ…繰り返す…反復を表す…続く…継続を表す…(時に詠嘆の意を含む)筒…空」。

 

同 第五首目 題しらず、よみ人しらず、

梅が枝にきゐる鶯はるかけて 鳴けどもいまだ雪はふりつゝ

(梅の枝に来て居る鶯、春告げて鳴いても、未だ雪は降りつづく……男花の枝に、気入る女、はるを告げて泣けども、いまだ雪はふりつづく)。


 「梅…木の花…男花…おとこ花」「枝…身の枝…おとこ」「鶯…鳥…女」「春…季節の春…情の春」「かけて…告げて…声に出して」「鳴く…泣く」。「雪」と「つつ」は上の歌に同じ。

 

このように、大人の歌には性愛にかかわる艶なる「心におかしきところ」がある。現代語のエロチシズムのあるのが普通である。元方の歌と二条の后の春のはじめの御歌のように純真無垢な感じがする歌は稀で貴重なのである。


 仮名序に「今の世の中、色に尽き、人の心、花になりにけるより、あだなる(徒な…婀娜な)歌、はかなき言のみ出で来れば、色好みの家に埋もれ木の、人知れぬ事となりて、花薄、穂にい出すべき事にもあらずなりにたり」とあるのは、古今集編纂時の歌の現状が、上のような歌の氾濫となっていたことを述べている。


 このような歌についての国文学の解釈は、清げな歌の姿を解くだけである。「歌の様」を知らず、「春」を季節の春と決めつけるなど「言の心」心得ないためである。