帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第三 別旅(百八十五と百八十六)

2012-07-04 00:05:19 | 古典

  



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集 巻第三 別旅 二十首
(百八十五と百八十六)


 人やりのみちならなくに大方は いき憂しといひていざ帰りなむ 
                                   
(百八十五)

(人に遣わされた道中ではないので、普通は、もう見送って行き辛いと言って、さあと、帰ってしまうだろうに……ひとにやらされる道ではないので、おお方おとこどもは、逝き辛いといって、いざさらばと、帰ってしまうものだろう)。


 言の戯れと言の心

 「人やり…他人が遣らす…女が遣らす」「道…道中…色の道」「ならなくに…ないのに…ないので」「おほかた…大方…たいてい…普通…おお方…おとこども」「いきうし…行き憂し…(見送って)行き辛い…逝きづらい」「いざ…ものごとを始める時に発する言葉…さあ…では」「かへりなむ…帰ってしまうだろう…(普通は)きっと帰ってしまうだろう…帰らなむ…(もう充分だから)帰ってほしい」「な…ぬ…完了の意を表す」「む…推量の意を表す」「なむ…人への願望を表す」。


 古今和歌集の歌の詞書には、「つくしへゆあみむとてまかりけるとき…筑紫へ湯浴みにでかける時…(命を)尽くしに湯浴みに出かける時」「山さきより神なびのもりまで(山崎より神奈備の森まで…山ばの前より、かみ靡が盛りとなるところまで)送りに人々まかりて、帰りがてにして、別れ惜しみけるに詠める」とある。
 「山…山ば」「神…かみ…上…女」「なび…靡く…萎え伏す」「もり…森…杜…盛り」。古今集の詞書も一筋縄ではない。前後の歌の様子からすると、作者は命尽くすために湯浴みにでかけたもよう。


 歌の清げな姿は、今生の別れと察知して別れ難くする人々を思いやり、見送りへの謝辞。   
 歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、人のさがを、おとこのさがをも超えて、よくぞここまで見とどけてくれたというところ。

 


 わたの原八十島かけてこぎ出ぬと 人には告げよあまの釣船 
                                   
(百八十六)

(海原の八十島をめざし漕ぎ出たと、都の人々には告げよ、海人の釣船……あまの腹の、八十しま心にかけて、こぎだしたと、ひとには告げよ、あまの吊りふ根)。


 言の戯れと言の心

 「わた…わたつみ…海…女」「はら…原…腹」「やそしま…八十島…多数の島…多数のし間…多数の女」「しま…島…洲…し間…女」「かけて…めざして…心に思って…心にかけて」「人…人々…女」「あまの…海人の…漁師の…女の」「つりふね…釣舟…吊り夫根…つりでた小さなおとこもどきのもの」「ふね…船…夫根…おとこ」。


 古今和歌集の詞書に、「隠岐の国に流されける時に、船に乗りて出でたつとて、京なる人のもとにつかはしける」とある。

 
 歌の清げな姿は、島流しの罪をうけて出立するとき、居ない見送りの人への挨拶。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、罪を負わせた人々へ、はらわたを投げつけるような生々しい言葉。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。