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帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (三十一) 坂上是則 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-01-31 19:46:42 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義


 
 平安時代の和歌は、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容とは全く異なるものであった。
原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に素直に従って「百人一首」の和歌を紐解く。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌である。近代以来の短歌や国文学の和歌解釈に慣れてしまった人々には理解困難な歌論だろう。江戸の国学も近代の国文学もこれを無視して、新たなに和歌を解く方法を創り上げた。「序詞」「掛詞」「縁語」の修辞法で表現されてあったと言うのであるが、平安時代の文脈から見れば、奇妙な捉え方である。こちらの方を無視して、百人一首の和歌の奥義を紐解く。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (三十一) 坂上是則


  (三十一)
 あさぼらけありあけの月と見るまでに 吉野の里に降れる白雪

(朝ほのぼのと明けるころ、残月の明りかと、まさかと・思うまでに、吉野の里に降った白雪よ……浅ほらけ、のこりのつき人おとこが、まさかと思うまでに・まさかと見るまでに、好しのの、さ門に、降った白ゆきよ)

 

言の戯れと言の心

「あさ…朝…浅」「ぼらけ…ほのぼの…ほがらほがら…洞け…空洞・虚し」「ありあけの月…明けの空に残る欠けた月…努め終えた尽きひとおとこ」「見る…思う」「見…覯…媾…まぐあい」「までに…(状態などの)限度を表す…(情態などの)限度を超えていることを表す」「吉野の里…土地の名…名は戯れる。良し野の里、好しののさ門、よきおんな」「里…家…言の心は女…さ門…おんな」「白雪…白逝き…白ゆき…体言止め、余情がある」「白…果ての色…おとこのものの色」

 

歌の清げな姿は、明け方の残月が照らすかと見えるほどに、映える里の白雪。

心におかしきところは、あさましく虚しい、残りのつき人おとこ、見る限度を超えてまで、好しののさ門に、ふった白ゆきよ。

 


 古今和歌集 冬歌。詞書は「大和のくにゝまかれりける時に、雪のふりけるを見てよめる」とある。裏を返せば「大いなる和合の山ばに出掛けて行った時に、おとこ白ゆきの降ったのを見て詠んだ」歌。

この歌の次に置かれてある詠み人知らずの歌は、返歌ではないけれども、並べ置くのに相応しい歌である。女の歌として聞く、


    題しらず                     よみ人しらず

消ぬがうへに又もふりしけはるがすみ  たちなばみ雪まれにこそみめ

消えない上に又も降り敷け、春霞が立てば、お雪見るのは稀になるでしょうから……消えない上にまたも降りしいてよね、情の・春が済み、絶たれれば、身ゆき、稀に見ることになるでしょうから)


 「はるかすみ…春霞…春が済み…春情が澄み」「たちなば…立ちなば…立春ともなれば…断ちなば…絶ちなば」「みゆき…御雪…身ゆき…おとこ白ゆき」「み…見…覯…媾…まぐあい」「め…む…推量の意を表す」

 

男は複数の妻の許へ訪れるのが普通の世の中だったので、この詠み人知らずの女の「心は深い」のである。歌は「清げな姿」がある。「心におかしきところ」が愛でたく添えられてある。歌の内容は是則の歌の次に並べ置くのに相応しい。


「小倉百人一首」 (三十) 壬生忠岑 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-01-30 19:30:30 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 平安時代の和歌は、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容とは全く異なるものであった。
原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に素直に従って「百人一首」の和歌を紐解く。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌である。近代以来の短歌や国文学の和歌解釈に慣れてしまった人々には理解困難な歌論だろう。江戸の国学も近代の国文学もこれを無視して、新たなに和歌を解く方法を創り上げた。「序詞」「掛詞」「縁語」の修辞法で表現されてあったと言うのであるが、平安時代の文脈から見れば、奇妙な捉え方である。こちらの方を無視して、百人一首の和歌の奥義を紐解く。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (三十) 壬生忠峯


  (三十) 
ありあけのつれなく見えし別れより あかつきばかり憂きものはなし

(有明の月が無情なさまに見えた朝、女との・別れがもとで、暁ほど、ゆううつで嫌なものはない……朝方残るつき人おとこが、つれなく見えた・冷淡で無情に見ていた、朝の別れがあってより、あか・吾が、尽き程、ゆううつで嫌な物はない)

 

言の戯れと言の心

「ありあけ…朝方空に残る月…衰えゆく月人おとこ…欠けて薄ぼんやり空しい尽き人おとこ」「つれなく…薄情に…冷淡に…無反応に」「見えし…見えた…思えた…見ていた」「見…覯…媾…まぐあい」「わかれ…女の許を去る…和合の分離」「より…によって…原因理由を表す…(とき)から…起点を示す」「あかつき…暁…赤尽き…吾が尽き」「赤…元気色」「うき…憂き…ゆううつな…つらい…無反応な…無情な」「もの…情態…物…身の一つのもの」

 

古今和歌集 恋歌三、題しらず。


歌の清げな姿は、愛する人と浮かれた後の別れ、暁の憂き心情。

心におかしきところは、朝の尽きひとおとこ、つれなく見ていた別れの時から、我が尽きほど無情で嫌な物はない。


 

月の言の心は、壮士(月人壮子)、男、おとこ(ささらえをとこ)であった時代の歌である。夕方きまぐれに顔を見せて朝に去って行く、満ち欠けする月は、男・おとこ、という「言の心」があっても不思議ではない。それを利して、男のほんとうの心根の一端を、ひいては人の業(ごう)を、「玄之又玄」に表現したこのような和歌は高く評価されて当然である。

壬生忠峯は、古今和歌集撰者の一人。その時、右衛門府生(宮中警護の役所の下級武官)であった。

 

古今和歌集仮名序の結びの言葉、「歌の様を知り、言の心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、いにしへを仰ぎて、今を恋ひざらめかも」の主旨の理解と、当時の高度な文芸の真髄に、一歩近づく事が出来るだろう。

和歌は、近代人の短歌や国文学の文脈からは、全く想像できない高度な表現方法と内容を持っていた。


「小倉百人一首」 (二十九) 凡河内躬恒 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-01-29 18:40:06 | 古典

             



                     「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 平安時代の和歌は、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容とは全く異なるものであった。
原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に素直に従って「百人一首」の和歌を紐解く。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌であると言う。近代以来の短歌や国文学の和歌解釈に慣れてしまった人々には理解困難な歌論だろう。江戸の国学も近代の国文学もこれを無視して、新たなに和歌を解く方法を創り上げた。「序詞」「掛詞」「縁語」の修辞法で表現されてあったと言うのであるが、平安時代の文脈から見れば、奇妙な捉え方である。こちらの方を無視して、百人一首の和歌の奥義を紐解く。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (二十九) 凡河内躬恒


  (二十九)
 心あてに折らばやをらむ初霜の おき惑はせる白菊の花

(心あてに、折り採るのかな折るのだろう、初霜が、一面に・降りていて、どれにしょうかなと・惑はせる白菊の花よ……気遣う事無く、折りたいな折ろう、初しもの、贈り置きを惑わせる、白い・色づいてなさそうな、乙女よ)

 

言の戯れと言の心

「心あてに…あて推量に…適当に…あれこれと気遣うことなく」「をる…折る…(菊の花を)折り採る…(わがものを)折る・逝く」「ばや…かりに(折る)としたら(折る)だろうか…できたら(折り)たいなあ…自己の願望を表す」「む…推量を表す…意志を表す」「しも…霜…白いもの…下…肢も…おんな・おとこ」「おき…置き…(霜が)降りている…(送り・贈り)置き」「白…純白…色づいてなさそうな…純心無垢な」「菊…草花の名…草花の言の心は女…女花…長寿の花、桜花(男花)などとは比べるまでもない。菊の露を付けた綿で身を拭えば、若返り長寿を得られるとか、道長の妻(倫子)より贈られたので、あの紫式部も拭ったかも(このように現代では想像もつかない意味が、平安時代には、草の花の名(きく・なでしこ・をみなへし等)には、あったのである)」「花…草花…女花…体言止めで余情がある」

 

歌の清げな姿は、庭一面の初霜、白菊の花、折り採ろうとしている少女の景色。

心におかしきところは、初霜の白菊のような乙女を垣間見た男の生な心根。


 

紀貫之のいう「歌の様」を知らず「言の心」を心得ず、歌言葉が戯れることも知らないと、次のような一義な解釈となる。


 明治の或る著名な国文学者の解釈は「花やら霜やら知れぬやうに、あのやうに、初霜が置いてまがはせてある、白い菊の花は、大概當て推量にて、折るならば折ろうかとなり」。

現代の古語辞典の解釈は「もし折るのなら、あてずっぽうに折ってみようか。初霜が真っ白におりてどれが花かと、人の目を惑わせている白菊の花を」。別の古語辞典の解釈は「当て推量に折るなら折ることもできようか、初霜が一面におりて、その白さで見分けがつかないようにしている白菊の花を」。


 

拝啓、故 正岡子規 様


「歌詠みに与ふる」と言うことで、「この歌は嘘の趣向なり、初霜が置いた位で、白菊が見えなくなる気遣いこれ無く候。趣向嘘なれば趣もへちまもこれ有り申さず」「今朝は霜がふって白菊が見えんなどと、真面目らしく人を欺く仰山的の嘘は極めて殺風景に御座候」と批判されました。貴方の酷評の矛先は、明治の歌詠み人や平安時代の和歌や身恒に向けるのは的違いです。江戸から明治にかけての国文学的解釈に向けるべきだったのです。

嘘の解釈です。躬恒が、そんな、くだらん歌を詠んだと、国文学者たちは本気で思っているのでしょうか、解釈方法を間違えているのではないかと思わないのは、なぜでしょうか。和歌を殺風景にしたのは国文学的解釈なのです。学問として、真面目に人を欺く嘘は、今も世に蔓延ったままであります。貴方に的外れな批評をさせた元凶は国文学的な和歌解釈であります。

平安時代の和歌の、ほんとうの心は如何なるものであったかは、おそれながら、ご賢察いただけるものと思います。


「小倉百人一首」 (二十八) 源宗于朝臣 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-01-28 19:20:05 | 古典

             



                        「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 平安時代の和歌は、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容とは全く異なるものであった。
原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に素直に従って「百人一首」の和歌を紐解く。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌である。近代以来の短歌や国文学の和歌解釈に慣れてしまった人々には理解困難な歌論だろう。江戸の国学も近代の国文学もこれを無視して、新たなに和歌を解く方法を創り上げた。「序詞」「掛詞」「縁語」の修辞法で表現されてあったと言うのであるが、平安時代の文脈から見れば、奇妙な捉え方である。こちらの方を無視して、百人一首の和歌の奥義を紐解く。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (二十八) 源宗于朝臣

 

(二十八) 山里は冬ぞさびしさまさりける 人目も草もかれぬと思へば

(山里は、冬こそ、さびしさ増さることよ・花も紅葉もなく、人目も離れ、草も枯れてしまうと思えば……山ばの、ふもとの・さ門は、飽き果てた後ぞ、さびしさ増さることよ、ひとめもくさむらも、離れて・枯れて、しまうと思えば)

 

言の戯れと言の心

「山里…山のふもとの人里…山ばの女」「山…山ば」「里…言の心は女…さ門…おんな」「冬…さむざむとした季節…飽きの果ての後…身も心も寒いころ」「さびし…寂し…淋し…心細い」「人目…人の注目…人が花や紅葉見物に訪れること…ひとのめ…女のめ」「め…女…おんな」「草…言の心は女…めの辺りのくさむら」「かれぬ…枯れぬ…涸れぬ…離れぬ」「ぬ…完了したことを表す」

 

歌の清げな姿は、山里の冬景色。

心におかしきところは、あき果てた後の淋しいことよ、めも、そのくさむらも、離れてゆくと思うと。

 

古今和歌集 冬歌にある。題は「冬の歌とてよめる」。どうして解り切った題を付けたのだろうか。「花実相兼」、「実」は、よれよれになって見捨てられる恥ずかしいことなので、冬の景色を詠んだのだと、あえて本人が言った歌ということ。「花」をあえて強調した。


 大和物語にある歌を聞きましょう。

沖つ風ふけゐの浦に立つ浪の 名残りにさへや我は沈まん

清げな姿は略す……奥方の風、更け井の心に立つ波の、余波に、さえよ・小枝よ、我は沈没するでしょう)


 「沖…奥…女」「風…心に吹く風」「ふけ…吹け…更け…深け…深まる」「ゐ…井…おんな」「名残り…余波」「さへ…さゑ…小枝…おとのの自嘲的表現」「や…詠嘆を表す…呼びかけ」

 

このような、おとこの哀れな歌が多いこの人が、官職の不遇を訴えて詠んだらしい歌を御覧になられた叔父にあたる御方は、「実」に、この類いのさみしさを感じられて、或る僧都に歌を見せて相談されたとか、「この男、出家した方がいいのではないか、如何かな」だっただろうか。

 

源宗于は、是忠親王の子、光孝天皇の孫。貫之が土佐の国から帰京して京に入るころ(承平四年・934)、右京大夫(右京の行政・警察・司法をつかさどる右京職の長官)であった。天慶二年(939)歿。

 


「小倉百人一首」 (二十七) 中納言兼輔 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-01-27 19:37:48 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 平安時代の和歌は、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容とは全く異なるものであった。
原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に素直に従って「百人一首」の和歌を紐解く。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌であると言う。近代以来の短歌や国文学の和歌解釈に慣れてしまった人々には理解困難な歌論だろう。江戸の国学も近代の国文学もこれを無視して、新たなに和歌を解く方法を創り上げた。「序詞」「掛詞」「縁語」の修辞法で表現されてあったと言うのであるが、平安時代の文脈から見れば、奇妙な捉え方である。こちらの方を無視して、百人一首の和歌の奥義を紐解く。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (二十七) 中納言兼輔

 

 (二十七) みかの原わきて流るるいづみ川 いつみきとてか恋しかるらむ

(みかの原を、分けて流れる、いづみ川、あの景色・あのひとの姿、何時見たというのか、どうして恋しく思われるのだろうか……身かの腹、湧きて流れる井津身かは、何時見たと言うのか・見てもいないのに、乞いしい、どうして求めるのだろうか)


 言の戯れと言の心

「みかの原…土地の名…名は戯れる。見彼の腹、身かの腹」「わきて…分きて…別きて…湧きて」「いづみ川…川の名…名は戯れる。何時見かは…井津身かは」「かは…川の言の心は女・おんな…疑問の意を表わす…反語の意を表す」「みき…見た…眺めた…見かけた…垣間見た…関係をもった」「見…覯(詩経の言葉)…媾…まぐあひ…みとのまぐあひ(古事記にある言葉)」「恋し…乞いし…求めたくなる」「らむ…推量…原因理由を疑問として提示する…人の本能だけど、なぜかわからない」

 

新古今和歌集 恋一にある。題知らず。


 歌の清げな姿は、少年が大人になるころ、何時か見かけた少女が、なぜか無性に恋しくなる春情のめばえ。

心におかしきところは、女の身の川を見たこともないのに、求めている、どうしてだろうか。

 

歌は、深い心がある。清らかな川のような姿をしている。心におかしきところが、程良く添えてある。

 

藤原兼輔は、紀貫之ら古今和歌集撰者たちの有力な支援者だったようである。承平三年(933)歿。貫之は土佐国赴任中に、この人の悲報を聞く。悲嘆、落胆の大きさは、紀貫之撰「新撰和歌集」の序文に表われている。ほぼ次のようなことが述べられてある。


 醍醐天皇の御時、紀貫之等は、勅撰集の「古今和歌集」の撰進を果たした。数十年後に貫之は、改めて秀れた歌を抽出するように勅命を受け、土佐国守に赴任中、政務の余暇に、ようやく秀歌の選定成ったものの、帝は既に崩御。勅を伝えた中納言の藤原兼輔もまた逝去された。

土佐より帰京した日(承平四年二月)、献上しょうとした「妙辞」は、空しく文箱の中にあり、独り落涙する。もしも貫之逝去すれば、歌は散逸するだろう。この「絶艶の草」が、またも鄙びた野の歌に混じってしまうのは恨めしい、故に、来るべき代に伝えようとして公にする。

撰んだ歌は「花実相兼」なるもののみで、「玄之又玄」である。唯に春の霞や秋の月を詠んだ歌にあらず、「漸艶流於言泉(言葉の泉に艶流しみわたる)」ものである。 皆これらを以って、天地、神祇を感動させ、人倫を厚くし、孝敬を成し、上は歌でもって下を風化し、下は歌でもって上を風刺するのである。

ここで、貫之の云う「妙辞」「絶艶の草」「花実相兼」「玄之又玄」「漸艶流於言泉」などという言葉を実感として、和歌に感じることはできないのは、和歌の国文学的解釈が、近世、近代、現代にかけて長年に亘って間違った方向に進んでしまったためである。

 

言葉は、その時代のその文脈で通用していた複数の意味を孕んでいる。その厄介な言葉を逆手にとって(利用して)、普通の言葉では言い表すことのできない人の生々しい心根を、清げな景色や物で包むように表現する高度な文芸であったと考えられる。とすれば、「絶艶」とか「艶流」は、「玄之又玄」なるところに秘められてある。貫之の和歌に関するすべての言説は、ないがしろにせず、この時代の和歌解釈の助けとすべきだろう。