帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔十〕山は

2011-02-28 06:09:37 | 古典

 



                                       帯とけの枕草子〔十〕山は

 


 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。
「心におかしきところ」を紐解きましょう。


 

枕草子〔十〕山は


 山は、おぐら山。かせ山。三笠山。このくれ山。いりたちの山。わすれずの山。すゑの松山。かたさり山こそ、いかならんとをかしけれ。いつはた山。かへる山。のちせの山。あさくら山、よそに見るぞおかしき。おほひれ山もをかし、りんじの祭りのまひ人などのおもひ出らるゝなるべし。三わの山おかし。たむけ山。まちかね山。たまさか山。みみなし山。


 清げな姿

山は、小倉山。鹿背山。三笠山。このくれ山。いりたちの山。忘れずの山。末の松山。片去り山こそ、どのようなのかとおかしいことよ。いつはた山。かへる山。のちせの山。朝倉山、よそに見るとおかしい。大比礼山もおかしい、臨時の祭りの舞人などが思い出されるでしょう。三輪の山すばらしい。手向山。待ちかね山。偶さか山。耳成山。

 

心におかしきところ

山ばは、お暗の山ば。風のような山ば。三つ重なる山ば。子の暮れの山ば。入り絶ちの山ば。見捨てない山ば。末の待ちどうしい山ば。片方去る山ばこそ、どうなってるのかと、おかしいことよ。何時果ての山ば。くり返す山ば。後が背の君の山ば。浅暗ら山ば、よそよそしく見るのがおかしい。大ひれ山ばもおかしい、臨時の祭りの舞人などの、おもひだされるでしょう。三和の山ばすばらしい。手向けの山ば。待ちかねの山ば。たまさかの山ば。見身成し何も聞こえない山ば。

 
 言の戯れと、紀貫之のいう心得るべき「言の心」

 「山…行事などの山ば…感情の山ば…山の名は山ばの名と聞いてそれぞれに戯れる」「お…を…おとこ」「くら…暗…迷い…ゆき煩い」「かせ…鹿背…風…たよりない」「かたさり…中途半端で去る…片方が去る」「のちせ…後背…男の山ばが後…めづらしい」「あさ…朝…浅」「見…媾…まぐあい」「おほひれ…雅楽の曲名…大比礼…長い頭巾…大きなおひれ」「ひれ…身のひれ…おとこ」「三わ…三和…見和…三度の和合」「みみなし…見、身成し、聞く耳無し」。


 「みわの山」という言葉は、和歌ではどのように用いられてきたか聞きましょう。


 万葉集巻第一 額田王 近江国に下る時に作る歌。

三輪山をしかもかくすか雲だにも 心あらなも隠さふべしや

(三輪山をその様に隠すか、空の雲であっても、心あってほしい、隠しさえぎるべきか……三和の山ばを、その様に隠すか、心に湧き立つ雲だけでも、心あってほしい、隠し障るべきか)


 近江国に遷都する時、三輪山をご覧になっての御歌。


  「雲…空の雲…心に湧き立つもの…情欲、春情など」「なも…てほしい…願い望む意を表す」。

 


 古今和歌集 春歌下 紀貫之 春の歌とてよめる

みわの山をしかもかくすか春霞 人にしられぬ花やさくらむ

(三輪の山をそのように隠すか春霞、人に知られない花でも咲いているのだろうか……三和の山ばを、そのように隠すか、はるが済み、ひとに知られないお花でも咲いているのだろうか)。


  「春霞…春が済み…張るが済み」「春…季節の春…情の春」「かくす…隠す…見えない」「人…人々…女」「花…おとこ花」。

 


 伝授 清原のおうな


 
聞書  かき人しらず    (2015・8月、改訂しました)
 


帯とけの枕草子〔九〕今の内裏

2011-02-27 06:06:27 | 古典

 
            
                     帯とけの枕草子
〔九〕今の内裏



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。


 枕草子〔九〕今の内裏
 
 文の清げな姿 
 今の内裏の東を北の陣という。なし(梨)の木のはるかに高いのを、「いくひろあらむ(幾尋、有るのでしょう)」などという。権中将「もとよりうち切って定澄僧都の、えだあふぎ(枝扇)にしたいなあ」とおっしゃったのを覚えていて、定澄僧都が山階寺(興福寺)の別当(長官)になって慶び申しの日、近衛司にこの君がお出でになられたときに、背の高い方なのに高い屐子(下駄のような履物)さえ履いていたので、甚だ高い。退出された後で、「どうして、あの、えだあふぎ(枝扇)をば持たせてあげませんの?」と言えば、権中将「もの忘れせぬ(もの忘れしたのよ…あなたはもの忘れしないなあ)」と、わらひ給(お笑いになる)。
 「定てうそうづにうちぎなし、すくせぎみにあこめなし(定澄僧都に袿なし、すくせ君に袙なし)」と言った人(権中将)こそ、おかしけれ(おかしいことよ)。

  「今の内裏…長保元年(999)に内裏焼亡のため一条院を内裏とした」

 駄洒落程度のおかしさは、「東…北」「なし…梨…無…有」「背の高い人…縮背君」などの意味の違いを知っていれば、わかるでしょう。「笑い給う」ことや、「おかしけれ」というのは、それだけのことではない。


 心におかしきところ
 今内裏の東を北の陣という。なしの木のはるかに高いのを、「幾尋有るのでしょう」などという。権中将「もとよりうち切って定澄僧都の、えだあふぎ(枝扇…身の枝、合う木)にしたいなあ」とおっしゃったのを覚えていて、定澄僧都が山階寺の別当になって慶び申しの日、近衛司にこの君がお出でになられたときに、背の高い方なのに高い屐子さえ履いていたので、とんでもなく高い。退出された後で、「どうして、あの、えだあふぎ(身の枝合う木…えだに合う気)をば持たせてあげませんの?」と言えば、権中将「もの忘れせぬ(彼は煩悩の合う気わすれた人だよ…あなたはもの忘れしない人だなあ)」と、お笑いになる。 
 定てうそうづにうちぎなし、すくせぎみにあこめなし(定澄僧都に袿なし、宿命君に袙なし…身丈高い定澄僧都に着せる下着なし、身丈伸縮する宿命君に下着なし)」と言った人(権中将)こそ、おかしいことよ。


 言の戯れを知り、言の心を心得ましょう
 「木…こ…男」「枝…男の身の枝」「あふき…扇…合う木…おとこ…合う気」「もの忘れ…忘却…煩悩など断つ」「せぬ…した…しない」「ぬ…完了した意を表す…打消しの意を表す(ずの連体形)」「すくせ君…宿命君…男の宿命か、やっかいなものを身に付けて生まれる。血はつながっていて息子のようなものでもあるから子の君。この君は親の言うことは聞かないらしい。寝てよと言っても起きたり、たてと言っても横になったままであったり、親に無断で伸縮するという。このような、枝、子、木、合う木などと称されるものは、宿世君や縮背君というのに相応しく、着せる下着はないでしょう」。

 
 心得のあるおとなの女たちには、言の戯れのうちに心におかしきところが聞こえていた。


 伝授 清原のおうな

 聞書  かき人しらず

  枕草子の原文は、岩波書店新日本古典文学大系 枕草子による。



帯とけの枕草子〔八〕よろこび

2011-02-26 06:01:15 | 古典

 




                      帯とけの枕草子〔八〕よろこび


 

 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。


 

枕草子〔八〕よろこび

 

よろこびそうすることこそおかしけれ。うしろをまかせて、おまへのかたにむかひてたてるを、はいしぶたうしさわぐよ


 

文の清げな姿


 男の慶び申しの儀式は、おかしいことよ。衣の後ろを引きずるに任せて、御前の方に向かって立っていてよ、礼して舞踏して、音立てて動き回るよ。


 

文の心におかしきところ


 女の悦びを奏でることこそ、おかしいことよ、あとは君まかせで、お前の方で、向かって立っているおをよ、いただき、足ばたばたして、さわぐよ。

 


 「よろこび…慶び…喜び…悦び」「そうする…奏す…申し上げる…奏でる」「うしろ…裾…衣の後ろ…身の後ろ…出来事の後のこと」「おまえ…御前…を前」「を…感嘆詞…お…男」「前…身の前」「はいし…拝し…授け…授かり」「ぶたう…舞踏…舞の形、袖を左右にひるがえし足踏みをする」。


 

この章は、次に記す僧が大寺の別当に任じられ慶び申す日の話の前置きか。女の悦びのことは余りの情。

 


 伝授 清原のおうな


 
聞書  かき人しらず    (2015・八月、改訂しました)

 枕草子の原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。

 


帯とけの枕草子〔七〕正月一日

2011-02-25 06:05:57 | 古典

 

                      帯とけの枕草子
〔七〕正月一日



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。


 枕草子〔七〕正月一日
 
 正月一日、三月三日は、いとうららかなる。五月五日は、くもりくらしたる。七月七日は、くもり暮らして、夕がたは晴れたる空に月いとあかく、星の数もみえたる。九月九日は、暁がたより雨すこしふりて、菊の露もこちたく、おほひたるわたなどもいたくぬれ、うつしのかももてはやされて、つとめてはやみたれど、猶くもりて、やゝもせばふりおちぬべく見えたるもおかし。

 文の清げな姿
 正月一日、三月三日は、とってもうららかである。
 五月五日は曇り暮らしたことよ。
 七月七日は曇り暮らして、夕方は晴れた空に月がたいそう明るく星の数も見えたことよ。
 九月九日は暁のころより雨が少し降って、菊の露もたいそう多く、覆っている綿などもひどく濡れ、移り香もいっそうひき立って、あくる朝には雨はやんだけれどなおも曇って、ややもすれば、露などふり落ちてしまいそうに見えているのも風情がある。

 文の心(翁丸事件のあとがき)
  正月一日、三月三日は、翁丸は飾り付けられたりして宮の内は・とって明るくのどかだった。
 五月五日は(さ月いつかは…さる月の何時だったか)、翁丸事件が起こり、心曇り暮らした。
 七月七日は(ふみつきなぬかは…踏み突き何ぬかは)、翁丸は打たれていた、苦盛り暮らして、夕方は心晴れる・解決のめどが立った、空の月も明るく、星も多数見えた(翁丸の傍で徹夜した)。
 九月九日は(ながつきここのかは…長突き此処のかは)、翁丸の手当をして、頑なになった心を癒してやる、明け方に雨少し降って、菊の露もこちたく(聞く方の涙の露もあふれ)、傷を被う綿もひどく濡れ、匂いもおどろくほどで、早朝、涙の雨も止んだけれど、なおも苦盛って、ややもすれば気落ちしそうに見える翁丸、かわいい。

  翁丸に鏡を見せて呼びかければ、どのように反応するかはあらかじめ知っていた。
 文がこのような意味だけで「おかし」と同感する女たちではない。「余りの情」がなければ、歌も文も充実しない文脈に居る。

 文の心におかしきところ
  睦突き、つい立ち、や好い身かは、とってもうららかなことよ。
  さ尽き、出づかは(離れるのね)、心曇り暮らしたことよ。
 文尽き七日は、苦盛り暮らして、夕方は晴れた空に月人壮士がとっても元気、欲しの数も見えることよ。
 長突き、此処の香は、あか突き方よりお雨が少し降って草花(女)のつゆもとっても多く、被っている綿入れ夜具もひどく濡れ、移り香もいっそうひき立った。朝にはお雨はやんだけれどな、汝おも、心雲盛りて、ややもすれば、白つゆ・振り落ちそうに見えるのも、かわいい。

 当時のおとなの女たちと「聞き耳」を同じくしましょう。
 「一日…ついたち…つい立ち」「つい…ふと…すぐ」「なる…なりの連体形…断定を表す…後の体言は省略してある、体言止めは詠嘆の心情を表す…うららかだったなあ…うららかだったけどなあ」「月…つき…おとこ…突き・尽き」「いつかは…出づかは…出たのかは…離れるのか…帰って行くのね」「たる…断定のたりの連体形」「夕方…男の訪れる時」「晴れたる空に月いとあかく…晴れた空で月がとっても明るい…気色のいい女に月人おとことっても元気」「空…天…女」「月…壮士…男…おとこ」「赤…元気色」「ほし…星…欲し…欲望」「見る…思う…まぐあう」「おかし…風情がある…可笑しい…かわいらしい」。


 翁丸事件の発端は、馬の命婦の言葉にあるけれども、その苛立ちは私事の所為かな、宮の内で日ごろ曇り暮らしていたからでしょう。より異常なのは、蔵人たちの翁丸の扱い方。翁丸と呼んでも反応しないように調教して、一野良犬として放生するのはいいけれど、死にましたと嘘の報告を上にしていること。そのことは、上に仕える右近の内侍の言葉から察しることができる。宮(中宮定子)が、心憂がらせ給ふ(不快がられた)のはそのことだった。

 殿(道隆)存命中は、宮の内はうららかだったなあ。このようなことは起こらなかった。


 伝授 清原のおうな

 聞書  かき人しらず



帯とけの枕草子〔六〕上に侍う御猫

2011-02-24 06:05:19 | 古典

 

                    帯とけの枕草子
〔六〕上に侍う御猫



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、君が読まされ、読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」。「心におかしきところ」を紐解きましょう。

 次は翁丸という犬の話を通して女の言葉が聞き耳によって意味の異なる例。


 枕草子〔六〕上に侍う御猫 

 主上のもとにいらっしゃる御猫は、冠を賜り「命婦のおとど」といって、とっても可愛かったので飼育させておられたが、階段に出て寝ていたので、御猫の乳母の馬の命婦が「あら、いけない。お入りなさい」と呼ぶのに、日がさし入り、眠っていたので、脅そうとして、「翁丸! どこだ、命婦のおとどを喰え! 」と言うと、真かと(聞いて)、愚か者は走りかかったので、御猫は脅え惑うて御簾の内に入った。 
 朝餉の御間に主上がおられて、ご覧になられ、たいそう驚かれる。御猫を御懐にお入れになられ、男どもを召されると、蔵人忠隆、なりなかが、参上したので、「あの翁丸を打ち懲らしめて犬島へ遣れ、ただ今だ」と仰せになられたので、集まり犬狩りして慌ただしい。馬の命婦をも責めて、「乳母を替えよう。たいそう気掛かりだ」と仰せになられれば、畏まって御前には出ない。犬は狩り出して、滝口(警護の武士)によって追放してしまわれた。
 「あわれ、大いに身を揺るがして歩き回っていたものを。三月三日(節句)には、頭の弁(藤原行成)が柳の頭飾りを付けさせ、桃の花をかざしに挿させ、桜を腰に差しておられた折りは、このようなめに遭うとは思わなかったでしょう」などと哀れがる。 
 「お食事のときは、必ず向かいに居たので、ものさびしいですね」などと言って、三、四日経った昼ごろ、犬のひどく啼く声がするので、どこの犬がこのように長啼きするのかしらと聞くと、あちこちの犬を尋ね見にゆく、御厠人の者が走って来て、「ああひどい、犬を蔵人が二人して打っておられる、死ぬでしょう。犬を流罪になさいましたが、帰って来たと打ち懲らしめておられるのです」と言う。心憂きことよ、翁丸である。「忠隆、実房などが打っている」というので、制止に遣るうちに、どうやら啼き止む。
 死んだので陣屋の外に捨てたというので、哀れがっていた夕方、ひどく腫れ、あきれるほどの犬の、みすぼらしいのが、震えながら歩きまわるので、「翁まろか、このごろこんな犬がいたかしら」と言って、「翁丸」と言っても聞き入れもしない。「翁丸よ」と言い、「ではないわ」とも言っていると、「右近(内侍)が見知っている。呼びなさい」と宮が召されると参上した。「これは翁まろか」とお見せになられる。「似てはございますが、これはとんでもないようです。それに、翁丸かとさえ言えば、喜んで参りますものを、呼べども来ず。そうではないようです。あれは打ち殺して棄てましたと申していました。二人で打ったのならば、生きているでしょうか」と申せば、宮は不快がられる。暗くなって、ものを食べさせたが食べないので、翁まろではないということで終わった。 

 明くる朝、宮の御髪づくりし、御手水などしてさしあげていて、御鏡を持たせになられご覧になられるので、ご奉仕していたときに、犬が柱のもとに居たのを見やりながら、「あわれ、昨日、翁丸をひどく打ったらしいのよねえ。死んだのでしょう哀れなこと。何の身にこの度は生まれ変わったのでしょうね。どんなに辛い思いをしたのかしらね」と言ったので、そこに居た犬が震え、咽び啼いて涙をただ落としに落とすので、驚きあきれる。さては翁丸だったのだ。昨夜はひた隠しに忍んでいたのだなと、哀れに添えておかしいこと限りない。御鏡うちおきて(御鏡をさっと置いて…御鏡を犬に向けさっと置いて)、「さはおきな丸か(さては翁まろか…映っているのは翁まろか!)」と言うと、ひれ伏してひどく啼く。宮も、たいそうお笑いになられる。右近の内侍を召して、これこれよと仰せになられると、右近の内侍が・笑い騒ぐのを主上もお聞きなられて、渡っていらっしゃった。「意外にも、犬などもそのような心があったのだなあ」と、お笑いになられる。
 上の女房たちも聞いて集まって来て、翁丸と呼ぶのにも、今はもう、たちうごく(立って動いている…立ちうごめいている)。「猶このかほなどのはれたる、物のてをせさせばや(やはりこの顔などが腫れている怪我の手当をさせようね……汝お、子の彼おなどが張れている、ものが手をお使いになるのかな)」と言うと、「ついにこれを(とうとう翁丸だということを…ついに皆が見ぬふりしていたことを)言い表してしまったことよ」などと、笑うので、忠隆が聞いていて台盤所の方より、「まことでしょうか。それを見てみましょう」と言ったので、「あらいやだ。さらさら、そのようなものは無いわ」と言わせると、「それでも見つけるおりはございましょう。さのみも(そうとばかりは…そのような身も)、隠しておられることはできません」という。 さて、正式に許されて、元のようになった。やはり哀れがられて震え啼きしたのは、世に例がなくおかしくて哀れなことよ。人などは人に言われて泣いたりはするが。

 「お…おとこ」「こ…おとこ」「はれる…腫れる…張れる…弓張りになっている」「手…手当(治療)…犬の手…子の君にとっての親?の手」「せさせ…使役」「ばや…意向・願望または疑いを表す」。

 「翁まろか」と呼んでも寄り付かなかったのは、翁まろと呼んでも寄り付かないように、忠隆らが調教したためで、「ながなき」はそのときのこと。後に死んだと言うことにして密かに放生する為。 宮はこのような蔵人らの解決方法を察知されて不快に思っておられる。それに、女房たちにとっても、犬ではあっても、目の前で起こった流罪、解任、刑死は重苦しい事態。それらを笑いによって解消した。我褒めかな。
 
 犬に鏡を見せたのは、犬に人間的な振る舞いをさせて人の笑いを誘うため、御鏡を犬に見せることなど決してありえないと思い込んでいる人の耳には、永遠に、そうは聞えないでしょう。言葉は聞き耳よって意味が決定的に異なるものでしょう。

 「もののてをせさせばや」に女たちが笑ったのは、「もの」を主語にして主客転倒した表現と、何よりも日頃は秘められている性に関わる事柄が適度に露になったことによるでしょう。


 伝授 清原のおうな
 
 聞書  かき人しらず  (2015・8月、改訂しました)

 枕草子の原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子によった。