帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(86)雪とのみふるだにあるを

2016-11-30 19:04:32 | 古典

             

 

                       帯とけの「古今和歌集」

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下86

 

桜の散るをよめる        凡河内躬恒  

雪とのみふるだにあるをさくら花 いかにちれとか風のふくらむ

桜の散るのを詠んだと思われる・歌……おとこ花が散るのを詠んだらしい・歌。 おほしかふちのみつね

(ただ雪とばかり、降っているものをなあ、桜花、どのように散れと言って、風が吹くのだろうか……逝きとの身、古る駄である物をなあ、おとこ端、どのように果てよというのか、心風が、山ばで激しくなぜ・吹くのだろう)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「雪…ゆき…逝き…おとこ白逝き」「のみ…(ただそれ)だけ…もっぱら…限定・強調を表す…の身…(ただそれだけ)の身」「ふる…降る…散る…古…古びる」「だにあるを…だけなのになあ…駄なのになあ」「だ…駄…駄馬…駄目…駄目な物」「を…詠嘆を表す…おとこ」「さくら花…木の花…言の心は男…おとこ花」「散れ…果てよ・尽きよ(命令形)」「風…春風…心に吹く風…山ばで男の心に吹く激しい風…山ばのあらし」「らむ…原因・理由に疑問を以て推量する意を表す…どうしてだろう」。

 

ただ雪とばかり、降っているのになあ、桜花よ、風は、どのように散れと言って吹くのだろうか。――歌の清げな姿。

逝きの身とばかり、古びている、駄目なものなのになあ、おとこ花、どのように果てよといって、よの風や心風が激しく吹くのだろうか。――心におかしきところ。

 

ただ逝くだけの身、精根尽き古びた、駄目な物、おとこはな、白ゆき降らすのを、どうしろと言うのか、心に激しい風が吹く・夜の女の風当たりも強いし。

 

 鴨長明『無名抄』に、躬恒の歌は貫之に優るとも劣らない勝劣つけ難いと歌の師たちが言ったとある。源俊頼(金葉集撰者・長明にとっては師の長老的存在)は、躬恒をば侮るなかれ、躬恒ほど「よみ口深く思ひ入りたる方は、又、類なき者なり」と言われたと記されてある。これらの言葉の真意はわからないが、今、この歌からわかった事だけを記すと、特異な視点での発想、切り口が独特である。「のみ…の身…だけの身」「ふる…古…古びる」「だに…駄に…駄めなのに」などの戯れが効いている。「清げな姿」からは思いもよらない、おとこの深い心が旨く詠まれてあると思える。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(85)春風は花のあたりをよぎてふけ

2016-11-29 19:18:24 | 古典

             

 

                         帯とけの「古今和歌集」

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下85

 

春宮帯刀陣にて桜の花の散るをよめる   藤原好風

春風は花のあたりをよぎてふけ 心づからやうつろふとみむ

春宮帯刀の陣にて桜の花の散るのを詠んだと思われる・歌……皇太子警護の陣屋にて、男花の散るのを詠んだらしい・歌。 藤原のよしかぜ(この頃、左兵衛の少将、後に陸奥の守という)

春風は花の辺りを避けて吹け、花は・わが心から、移ろい散ろうとしているのか、見さだめたい……心に吹く春風は、おとこ端の辺りを避けて吹け、おとこ花は・自らの心により移ろい散るのか、心風吹くから果てるのか、さだめるために見たい)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「春風…春の季節に吹く風…春情の心風」「花…木の花…男花…おとこ花…おとこはな「はな…先端…身の端…おとこ」「よぎて…よけて…さけて…よぎって…通り過ぎて」「心づから…心自ら…心が自発的に」「うつろふ…移ろう…悪い方に変化する…衰える…果てる」「みむ…見む…観察するつもり…見定めたい…見たい」「見…覯…媾…まぐあい」「む…意志を表す…(見さだめる)つもり…(見)ようと思う」。

 

春風は、一度、花の処は避けて吹け、早々に散るのは桜の本性なのか、風の所為か、見さだめたい、――歌の清げな姿。

春情の心風によって、男先端は早々に果てるのか、それは生来のおとこの性(さが)なのか、確かめるために、見たい。――心におかしきところ。

 

男ばかりの陣屋で、夜間警護の暇々に、こんな歌を詠んで男どもは和んで居たのだろう。歌ではなく普通の言葉でこんなことを言い出したら、ただのゲスだろう。和歌は「心に思う事を見る物などに付けて言い出し」、「姿清げ」で「心におかしく」感じる表現様式を持っていたのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(84)久方のひかりのどけき春の日に

2016-11-28 19:05:20 | 古典

             

 

                        帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下84

 

桜の花の散るをよめる       紀友則

久方のひかりのどけき春の日に しづ心なく花のちるらむ

桜の花の散るのを詠んだと思われる・歌……おとこ花の散り果てるのを詠んだらしい・歌。  きのとものり(古今集の撰・編集者の筆頭であったが、制作途中で亡くなったという)

(久方の陽光、のどかな春の日に、静かな心なく、桜の花がどうして散るのだろうか……久堅の照る光、のどかかな張るの日なのに、どうして、慌しくおとこ花が、散り果てるのだろうか)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「ひさかたの…久方の…天・日・月などの枕詞… (万葉集では久堅と表記されることもある。久しく堅いのは、男の願望)」「ひかり…光…栄光…日・月・光などの言の心は男…照るもの」「はる…季節の春…春情…張る」「のどけし…うららかである…穏やかである…ゆったりとしている」「に…(時)に…時を示す…だけれども・なのに(接続助詞)」「花…木の花…桜花…男花…おとこ花」「らむ…どうしてだろうか…なぜだろうか…原因・理由を推量する意を表す」。

 

のどかな春の陽光のもとで、どうして、あわただしく桜花は散ってゆくのだろうか――このような、花散る風情、美しい花が果てゆくのを惜しむ心などは、歌の「清げな姿」である。

久堅の、照る栄光、うららかに張る日なのに、静心なく、忙しくも、おとこ花が、何故に散りゆくのだろうか。――心におかしきところ。これは、歌の様を知り言の心を心得て、歌言葉の浮言綺語のような戯れの意味を知れば顕れる。

 

平安時代の大人たちは、ゆっくりと三度繰り返し読み上げられるのを聞けば、この歌に顕れる、おとこの性(さが)の「あはれ」や「をかし」を享受し、藤原俊成のいう深い旨(主旨・趣旨・旨味)を感じただろう。

紀友則の代表作として「百人一首」に撰んだ藤原定家は、当然、この歌のすべてを把握していたのである。

 

和歌の真髄は、定家より数代後の世に、秘伝となり埋もれ木となった。江戸時代の賢人たちの和歌の解釈は、平安時代の歌論や言語観をすべて無視した、うわの空読みである。明治以降の国文学的解釈も、そこから一歩も出られない。これは、現代の間違ったままの国文学的和歌解釈への警鐘である。

 

古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」巻第二 春歌下(83)桜花とく散りぬともおもほえず

2016-11-26 19:48:22 | 古典

          

 

                  帯とけの「古今和歌集」

          ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下83

 

桜のごと、とくちる物はなしと人の言ひければ

よめる                (貫之)

桜花とくちりぬともおもほえず 人の心ぞ風もふきあへぬ

桜の如く早々に散る物は他にないと、人が言ったので詠んだと思われる・歌……おとこ花のように、早く散るものはないわと女が言ったので詠んだらしい・歌。 (つらゆき)

桜花が、早々に散ってしまうとは思えない、人の心こそ、心に吹く風に堪えられず・すぐ変わる・ものなのになあ……おとこ花は、早く散るとは思えない・山ばの激しい心風に堪えられないのだ、女の心こそ、山ばの嵐に合わない・ものなのだなあ)

 


 歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「桜花…男花…おとこ花」「とく…疾く…早過ぎ…さっそく」「ちりぬ…散ってしまう…果ててしまう…尽きてしまう」「ぬ…完了した意を表す」「人…人々…男…女」「風…心に吹く風…山ばで吹く激しい心風(これを、荒らし・嵐という)」「ふきあへぬ…吹き堪えぬ…吹くのに堪える事が出来ない…吹き合えぬ…吹くのに合わすことが出来ない」「あへぬ…堪えぬ…もちこたえない…合えぬ…合致しない…間に合わない…和合できない」「ぬ…『ず』の連体形…打消しを表す…体言が省略されてある、余情があり詠嘆表現でもある」。

 

桜花が早々に散ってしまうとは思えない、人の心こそ、心に吹く風に堪えられず・すぐ心変わりするものよ――歌の清げな姿。

おとこ花が早く散るとは思えない、山ばの心風の嵐に堪えられないのだ、女の心こそ、山ばの嵐に合わないものだなあ。――心におかしきところ。

 

この歌は、女が「さくら花のごとく疾く散るのね」と言ったので詠んだ歌である。


  感情曲線の山ばの合致し難いのは、言うまでもなく、女性の性の格に、はかない男性の性情など遠く及ばないためである。求める、高み、深み、それに持続力など女性が格段に上回るためである。男性は詠嘆するしかない。


 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(82)ことならば咲かずやはあらぬさくら花

2016-11-25 19:25:20 | 古典

             

 

                        帯とけの「古今和歌集」

                 ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。                                                                                                                                                                                                                                   

 

「古今和歌集」巻第二 春歌下82

 

桜の花の散りけるをよめる           貫之

ことならばさかずやはあらぬさくら花 見るわれさへにしづ心なし

桜の花が散ったのを詠んだと思われる・歌……おとこ花が散ったのを詠んだらしい・歌 つらゆき

(咲けばすぐ散る・如きものならば、咲かずに、つぼみのままで・在ったらどうなの、桜花、花見する我さえ、静かな落ち着いた心で居られないよ……できる・ことならば、咲かずに在ったらどうなの、おとこ花、みる、我れさえも・わが小枝も、落ち着いた心で居れないよ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「ことならば…そういう・事ならば…それ如き・ものならば…出来る・事ならば」「さかず…花・咲かず…おとこ花・咲かず」「やはあらぬ…ではないのか…であればよいのになあ」「さくら花…桜花…男花…おとこ花」「見る…見物する…見する」「見…覯…媾…まぐあい」「さへに…さえも…までも…添加の意を表す…さ枝に…小枝にも」「さ…接頭語」「枝…身の枝」「しづ心なし…静づ心なし…落ち着いた心がない…慌しい心だ…忙しない心だ」。

 

すぐ散るのならば、咲かないでいいじないか、桜花、花見する我れまでも、忙しなくて心が落ち着かないよ。――歌の清げな姿。

出来る事ならば、咲かないで在って欲しいよ、おとこ花、みる、我さえも・わが小枝も、あわただしい心になるので。――心におかしきところ。

 

この歌は、前に置かれた菅野高世の「添え歌」に応えた皇太子の歌にすると、高世の歌(古今集にあるのは一首のみ)の「枝より無用に散りし花だから散っておんなの泡となる」の意味が、さらに際立つだろう。時代が違うので、代作を頼まれたわけではないけれど、昔の他人の立場に立って、その人に相応しい歌を作れてこそプロの歌詠みである。歌を撰び編集する者としての仕事らしい。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)