帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第三 別旅 (百八十三と百八十四) 

2012-07-03 00:12:25 | 古典

  



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集 巻第三 別旅 二十首
(百八十三と百八十四)


 音羽山こだかく鳴きてほとゝぎす君が別れを惜しむべらなり 
                                  
(百八十三)

 (音羽山、小高く鳴いて時鳥、君の別れを惜しんでいるようだ……をと端の山ば、小高く泣いてほと伽す、且つ恋うひと、君の別れを惜しんでいるようだ)。


 言の戯れと言の心

 「をとは山…音羽山…山の名、名は戯れる、鳥の羽音のやま、女の端音の山ば、おと端の山ば」「鳥…女」「音…声…をと…おとこおんな」「羽…端…身の端」「山…山ば」「ほとゝぎす…鳥の名…名は戯れる、ほと伽す、かっこう(鳴き声)、郭公、且つ恋う、且つ乞う」「ほと…おと…をと…おとこおんな」「べらなり…のようだ…しているようだ」。

古今和歌集には、「をとは山のほとりにて、人をわかるとてよめる」とある。


 歌の清げな姿は、旅立つ男を音羽山の近くまで見送って来て、鳴く時鳥に寄せた別れの挨拶。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、ひとは大声で且つ恋うと泣いて、君との別れを惜しんでいるだろう。


 歌は相手の心を和らげる。



 夕月夜おぼつかなきを玉手箱 うたみの浦をあけてこそ見め 
                                  
(百八十四)

 (夕月夜、薄暗くおぼつかないので、玉手箱、うたみの浦を、夜が明けてから、見るとしょう……夕尽くよ、おぼつかないお、玉手箱、死ぬかもしれぬが、憂多見のひとをあけて見るぞ)。


 言の戯れと言の心

 「夕月夜…夕がたの月…暮れ方の月」「月…月人壮士…おとこ…突き…尽き」「おぼつかなし…ぼやりしている…もどかしい…不安である」「玉手箱…浦島太郎が開けたため忽ち老いて命を亡くした箱…開けるのは命懸けのはこ」「玉…美称」「はこ…端子…身の端っこ」「うたみの浦…浦の名…名は戯れる、(古今集では)二見浦、再見したくなる風光明美な浦、二見の女、うた美の浦、憂多見の女、憂き多情な女」「浦…海…みなと…女…うら…心」「あけ…明け…開け…ひらいて」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「め…む…意志を表す」。


 古今和歌集によれば、但馬の国の温泉に湯治にゆく途中、二見浦という所に泊まって、夕食の後、供の者たちが歌を詠んだついでに詠んだとあり、三句と四句が「玉くしげ二見の浦は」となっている。


 歌の清げな姿は、風光明美な所は夜明けに見ようというところ。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、たぶんひと見もならぬ病の男が、命を懸けてでも、多見の女を見るぞというつよがり。


 歌は周囲の人々の心を和らげる。こちらが本歌で、古今集の歌はできるだけ品よく聞こえるように変えたものと思われる。元に戻した歌を見れば、歌の作者の心も和むでしょう。作者は、この新撰和歌集編纂の勅命を貫之に伝えた藤原兼輔。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。