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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首 (二百十七と二百十八)
たち返りあはれとぞ思ふよそにても 人に心をおきつしらなみ
(二百十七)(寄せては返し、愛しいとぞ思う、他所にても、人に心を寄せる、沖の白波よ・我は……立ち返り、愛しいと思う、他所に居ても、ひとに心を置きつ、お、起きつ、白ら汝身よ)。
言の戯れと言の心
「たちかへり…繰り返し…寄せては返り…また立ち返り」「あはれ…かわいい…いとしい…愛情を感じる」「人…女」「心を…心、を…心、おとこ」「おきつ…沖つ…沖の…起きつ…置つ…心を置いた(気にかけた・執着した)…露などおりた…おとこ白つゆ贈り置いつ…起きた」「しらなみ…白波よ(体言止めは余情を含む)…白汝身よ…白つゆの我が身の端よ…白つゆのあなたの身よ」「しら…白…おとこのものの色」「なみ…波…汝身…わがおとこ…あなたの身」「な…汝…親しい者の称」。
古今和歌集 恋歌一、題しらず。
歌の清げな姿は、女は高嶺の花か、遠くで思いだけが寄せては返す、沖の白波のような片恋。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、ひとを愛しいと思えば、立ち返り起き、よそにても、白つゆおくり置く、「あはれ」なおとこのさが。
こきちらす滝の白玉ひろひおきて 世の憂きときの涙にぞかる
(二百十八)(放ち散らす滝の白玉、拾い置いて、世の中が辛い時の、涙にぞ借りる……こき散らす、ひとの多気の白玉、拾い置いて、夜のわずらわしい時の、おとこ涙に借用する)。
言の戯れと言の心
「こき…こく…放つ…体外に出す」「滝…女…多気…多情」「白玉…たきの飛沫…真珠…つゆ」「世…夜」「憂き…憂し…ゆうつだ…つらい…気が進まない…わずらわしい」「涙…目の涙…ものの流す涙」。
古今和歌集 雑歌上。「布引の滝にて詠める」とある歌。
歌の清げな姿は、仲間との滝見物のとき、時勢批判、憂さ晴らし。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、滝の多情な女に比して、おとこのさがのはかなさが顕れるところ。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。