帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(二百十七と二百十八)

2012-07-23 00:06:20 | 古典

   

           帯とけの新撰和歌集


 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。

 紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首
(二百十七と二百十八)

 たち返りあはれとぞ思ふよそにても 人に心をおきつしらなみ 
                                   
(二百十七)(寄せては返し、愛しいとぞ思う、他所にても、人に心を寄せる、沖の白波よ・我は……立ち返り、愛しいと思う、他所に居ても、ひとに心を置きつ、お、起きつ、白ら汝身よ)。

 
言の戯れと言の心
 
「たちかへり…繰り返し…寄せては返り…また立ち返り」「あはれ…かわいい…いとしい…愛情を感じる」「人…女」「心を…心、を…心、おとこ」「おきつ…沖つ…沖の…起きつ…置つ…心を置いた(気にかけた・執着した)…露などおりた…おとこ白つゆ贈り置いつ…起きた」「しらなみ…白波よ(体言止めは余情を含む)…白汝身よ…白つゆの我が身の端よ…白つゆのあなたの身よ」「しら…白…おとこのものの色」「なみ…波…汝身…わがおとこ…あなたの身」「な…汝…親しい者の称」。

 古今和歌集 恋歌一、題しらず。

 歌の清げな姿は、女は高嶺の花か、遠くで思いだけが寄せては返す、沖の白波のような片恋。歌は唯それだけではない。
 歌の心におかしきところは、ひとを愛しいと思えば、立ち返り起き、よそにても、白つゆおくり置く、「あはれ」なおとこのさが。
 


 こきちらす滝の白玉ひろひおきて 世の憂きときの涙にぞかる 
                                  
(二百十八)(放ち散らす滝の白玉、拾い置いて、世の中が辛い時の、涙にぞ借りる……こき散らす、ひとの多気の白玉、拾い置いて、夜のわずらわしい時の、おとこ涙に借用する)。

 
言の戯れと言の心
 
「こき…こく…放つ…体外に出す」「滝…女…多気…多情」「白玉…たきの飛沫…真珠…つゆ」「世…夜」「憂き…憂し…ゆうつだ…つらい…気が進まない…わずらわしい」「涙…目の涙…ものの流す涙」。

 古今和歌集 雑歌上。「布引の滝にて詠める」とある歌。

 歌の清げな姿は、仲間との滝見物のとき、時勢批判、憂さ晴らし。歌は唯それだけではない。
 
歌の心におかしきところは、滝の多情な女に比して、おとこのさがのはかなさが顕れるところ。


 
伝授 清原のおうな

 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
 
聞書 かき人しらず

  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。