帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (五十九) 赤染衛門 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-29 19:30:05 | 古典

             



                     「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義は、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、
定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観によって蘇える。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、複数の意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(五十九) 赤染衛門

 
  (五十九)
 やすらはで寝なましものをさ夜ふけて かたぶくまでの月を見しかな

(ためらわずに、寝たらいいものを、さ夜更けて・君を待ち、西に・傾くむくまでの月を見ていたことよ……滞ることなく寝たいものを、さ夜更けて、暁まで程遠いのに・片吹く程度の尽き人おとこを見たことよ)

 

言の戯れと言の心

「やすらはで…躊躇せずに…ためらはずに…休まずに…停滞せずに…なか折れせずに」「で…ず…打消しを表す」「ましものを…(寝てれば)よかったなあ…(寝てれば)いいのになあ」「まし…仮想する意を表す(不満や希望などの意を含む)…適当の意を表す」「ものを…のに…のになあ(不満や後悔などの意を含む)」「かたぶく…傾く…(月が西に)沈む…片吹く…中途半端に吹く…独りで吹く」「吹く…息を吐く…ものがものを吹く」「まで…程度を示す…限度を示す」「月…月人壮士(万葉集の月に別名)…つき人男…おとこ…尽き」「見…目で見ること…体験すること…(ひどいめに)遭うこと…覯…媾…まぐあい」「かな…詠嘆を表す」。

 

歌の清げな姿は、来ない男を、夜更けても、待つ女のありさま。

心におかしきところは、ものの途中で雲かくれするつきひとおとこに出遭った女のありさま。

 

後拾遺和歌集 恋二、詞書「中関白、少将に侍りける時、はらからなる人に物いひわたり侍りけり。たのめて来ざりけるを、つとめて女にかはりてよめる」(藤原道隆・道長の兄が、若かった時、姉妹の姉の方にもの言い、情けを交わしていた。頼みにしているのに通って来なかったので、翌朝、姉に代わって詠んだ)歌。



 女の恨み辛みを、ものの途中で片吹き折れる程度のおとこかと、おとこの屈辱的なありさまを揶揄するかたちに変えて、真綿に包んで投げつけたような歌である。

 

赤染衛門は、その後、道長家の主婦・源倫子の女房となったようである。紫式部も一目置く人であった。特に高貴な身分の方ではないが、その歌は「まことにゆゑゆゑしく(ほんとうに意味深く風格があり)、歌詠みとて、よろづのことにつけて、詠み散らさねど、聞こえたるかぎりは、はかなき折り節のことも、恥ずかしき口つきに侍れ(わたくしなど恥じ入っるような詠みっぷりでごさます)」と「紫式部日記」にある。


「小倉百人一首」 (五十八) 大弐三位 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-28 19:27:00 | 古典

             



                     「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義は、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、
定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観によって蘇える。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、複数の意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(五十八) 大弐三位


  (五十八)  
有馬山いなの笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする

(有馬山猪名の笹原風吹けば・どこかで誰かの心に秋風でも吹けば、いやまあ、そうなの、わたしを見捨てるの、見捨てないよね……在り間山ば、否の少々、君の・腹の内に風吹けば、さあ、それよ、わたしは・君の貴身を、見捨てるかもね)

 

言の戯れと言の心

「有馬山…ありま山…山の名…名は戯れる、有り間山、在り間の山ば、貴身が健在である間の愛の山ば」「猪名の笹原…いなのささ原…野原の名…名は戯れる。否のささ腹、否の少々の腹のうち、拒否の少々の心の内」「ささ…小・細・少」「原…腹…腹の内」「風…心に吹く風…春の風…熱い風…飽きの風…厭きの風(ここはこの風)…心も凍る寒風」「いで…(意外な事に)驚き嘆く意を表す…いやまあ、まさかそんな、さあ」「そよ…それよ…相づちをうつ…それそれ」「人を…わたしを…君を…君お…君のおとこ」「忘れ…忘却…見限る…見捨てる」「見…夫婦に成ること…めとり…媾…覯…まぐあい」「やはする…反語の意を表す…(忘れる)だろうか、いや(忘れ)ない…疑問を表す…(忘れる)か…(忘れる)かも」。

 

歌の清げな姿は、自然に吹く風に付けて、君の心に少し否の風吹けば、わたしを見捨てるの、捨てないよね。女の心情を表わした。

心におかしきところは、山ばで在る間に、少し否の風が吹けば、わたしは貴身を見捨てるかもよ。女の心根が顕われている。

 

後拾遺和歌集 恋二、詞書「かれがれなる男の、おぼつかなくなどいひたりけるによめる」(離れがちであった男が、あなたが心配で心細い思いだなどと言ったので詠んだ……涸れ涸れとなったおとこが、たよりない感じで、あなたが気にかかるなどと言ったので詠んだ)


 

大弐三位は、紫式部の一人娘で、三歳ぐらいで父を亡くした。宮仕えを始めたシングルマザーの紫式部に育まれた。成人して宮仕えの後、太宰府大弐三位高階成章の妻となった。

 

やまと歌は、「世にある人、業(ごう)など繁きものなれば、心に思う事を、見るもの聞くものに付けて言ひ出せるなり」。これは、紀貫之が古今集仮名序の冒頭に記した。和歌の歌論の原点である。

 

今では、この歌の上の三句は「序詞」で、「そよ」という風に縁のある言葉を導き出し、そよそよと揺らぐ女心を表したとする。それで、近代の歌論や言語観には適っているのだろう、その文脈に在る人は納得し、そのような歌であると決定するのだろう。人々は、その解釈が平安時代の歌論や言語観を全て無視していることに気付か無くなる。


「小倉百人一首」 (五十七) 紫式部 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-27 19:31:48 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義は、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、
定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観によって蘇える。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、複数の意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(五十七) 紫式部


  (五十七)
 めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな

(良き男に・巡り会って対面したの、それとも、よく分からない間に、雲隠れしてしまった、夜半の月人壮士だったのかな……め眩むほど合って見たの、それとも、判別つかぬ間に、心雲隠れてしまった夜の半ばまでの、尽き人おとこだったの、どうなのよ)


 言の戯れと言の心

「めぐり…巡り…目くり…めくらみ」「あひ…逢い…遭遇…合い…和合」「見…対面…判断…覯…媾…まぐあい」「や…疑問…呼びかけ」「わかぬ…分かぬ…判別付かない」「雲がくれ…雲に隠れる…心雲が消える」「雲…煩わしくも心に湧き立つもの…情欲…欲情…色」「にし…してしまった…完了したことを表す」「夜半の…途中の…有明けまで健在であるのが理想」「月…月人壮士(万葉集での月の名)…ささらえをとこ(万葉集以前の月の別名)…平安時代を通じて、言の心は男、おとこ(近代では月に女性的イメージを持つようになったかもしれないが、そのような文脈で、平安時代の歌を解釈することが誤解の原因である)」「かな…感嘆・詠嘆の意を表す…疑問を表す・念を押す…どうなのよねえ」。

 

歌の清げな姿は、好い男に巡りあったの、すぐに別れてしまったの、どうなのよ。

心におかしきところは、めくるめく見たの、それとも、夜半に尽きるようなおとこだったの、どうなのよ。

 

新古今和歌集 雑歌上、詞書「はやくより童友だちに侍りける人の、年ごろ経てゆき逢ひたる。ほのかにて、七月十日の頃、月にきほひて帰り侍りければ」。


 
「紫式部集」により憶測すれば、幼友だちと、二人共いい歳ごろになって巡りあって、四方山の話をしたようである。また再び、父の地方の国への赴任に伴って行くことになる、片や南国、紫式部は雪国と、別れ別れになること、その間に歌を沢山詠んで置いて、四年後逢ったとき交換しようと約束した。ほんとうは、頼れる男に巡りあって通って来るようになれば、京に留まって居たいのである。言わば「婚活」のありさまなど、ほんとうに聞きたいことは、歌でしか表現できないので、友が帰った後から届けさせた歌である。
 
 紫式部は父の任期の途中で、父の知り合いの人の求婚の便りを受けて、一人だけ雪解けと共に帰京して結婚する。
 
数年後、帰京した、幼友だちの親や姉妹の中に彼女の姿は無い。赴任地で帰らぬ人となっていたのだった。また紫式部の夫も結婚後数年で亡くなったのである。

 

この「めぐり合ひて」の歌と、伝わらないがその時の返歌は、友との「本音トーク」である。

 

国文学的解釈は、「月」を女性として、帰って行った幼友だちを暗示するなどと解き、主旨も趣旨も希薄な歌にする。現代の古語辞典の解釈は「しばらくぶりで巡り会ったのだが、その人かどうかも、はっきりとは分からないうちに、雲に隠れてしまった夜中の月よ」とある。「――たちまち帰ってしまった友よ」などと、他の古語辞典の解も大差ない。

紫式部が、ほんとうに、こんな「くだらない歌」を詠んだと思うのだろうか、それを定家が秀逸の歌として撰んだと思うのだろうか。国文学は根本的に和歌の聞き方を間違えているのではないのか。


「小倉百人一首」 (五十六) 和泉式部 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-26 19:24:57 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義は、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、
定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観によって蘇える。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、複数の意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(五十六) 和泉式部


  (五十六)
 あらざらむこの世のほかの思ひでに いまひとたびの逢ふこともがな

(いつまでも・健在ではないでしょう、この世の他の・あの世での、思いでに、今一度、君に・お逢いしたいの……在りはしないでしよう・けど、この夜の、ほかの・おとかの、思い出のために、井間、一度の合うこと叶えたいの)

 

言の戯れと言の心

「あらざらむ…在らずだろう…有らずでしょう…尽きているでしょう・でも」「ざら…ず…打消しを表す」「この世…今世…この夜…今夜」「ほかの…今世のほかの…あの世の…穂かの…おかの…おとこの」「いま…今…さらに…井間…おんな」「逢ふ…あふ…合う…まぐあい…和合」「もがな…願望を表す」。

 

歌の清げな姿は、心地、常ならぬ、多気の女のお誘いの歌。

心におかしきところは、涸れ尽きたでしょう・けど、この夜の貴身の、思い出のために、もう一度和合とかを叶えたい。

 

後拾遺和歌集 恋三、詞書「ここち例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける」。「心地例ならず」は、病んで心が沈んだ状態とも、ただ心地が異常に高ぶった情態とも」聞こえる。


 

和泉式部は、まさに、滝の女(多情な人)であった。恋の遍歴を日記に書き、このように歌に詠んだ。歌に顕れる煩悩は即ち菩提(悟りの境地)であると俊成は言う。従って、那智の滝(無知な多情の人)ではなかった。己の多情さは充分に自覚していたのである。

和泉式部の歌を、もう一首、聞きましょう。後拾遺和歌集雑、


 もの思へば沢のほたるもわが身より あくがれ出づる魂かとぞ見る

(もの思いしていれば、沢の蛍も、我が身より、あの人に・憧れ出た、魂かと思う……もの思えば、わが多情の炎も・貴身のお垂るのも、わが身により、飽く涸れ、出づる、魂か・二つの玉かとよ、見ている)


 「ものおもひ…もの思い…悩ましいものの思火」「さは…沢…沼・川・池・渚などと共に言の心は女…多」「ほたる…蛍・夏の虫…情念の炎…ほ垂る…お垂れる」「より…起点を表す…によって…原因・理由を表す」「たま…魂…玉…白玉…黄金の二つの玉」「見る…目で見る…思う…男女が結ばれる」「見…覯…媾…まぐあい」。

 

二首とも、女の深い心・清げな姿・心におかしきところがある優れた歌である。

歌言葉の戯れに深い旨が顕れ、艶(えん)にも「あはれ」にも聞こえる秀逸の歌である。


「小倉百人一首」 (五十五) 大納言公任 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-25 19:28:40 | 古典

             



                     「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義は、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、
定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観によって蘇える。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、複数の意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(五十五) 大納言公任


   (五十五)
 滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ

(滝の音は絶えて久しくなってしまったけれど、素晴しいという・評判だけは、世に・流布して、今も・なお聞こえていることよ……女の・多気の声は、絶えて久しくなってしまったけれど、我が・汝こそ、流れて・汝涸れて、なおも、気超えて・気色の限度過ぎて、いるなあ)


 言の戯れと言の心

「滝…たき…言の心は女…多気…多情」「音…おと…こえ…声」「ぬ…完了したことを表す」「な…名…名声…評判…汝…親しきものをこう呼ぶ…わがおとこ」「こそ…強調」「ながれて…流れて…流布して…なかれて…汝涸れて…おとこ尽き果てて」「なほ…やはり…依然として…汝ほ…汝お…おとこ」「きこえ…きこゑ…聞こえ…気越え…気超え…気力・気色の限度を過ぎ」「けれ…けり…気付き・詠嘆」。

 

歌の清げな姿は、古き滝の跡を見ての感想。

心におかしきところは、尽き果てたありさまから、睦ましくもはげしい和合を彷彿させるところ。

 

拾遺和歌集 雑上、詞書「大覚寺に人々あまたまかりたりけるに、ふるき滝をよみ侍りける」。これは清げな姿の説明と聞く。


 

藤原公任と清少納言はほぼ同年輩である。全く同じ文脈にあって、歌を合作(コラボ)したこともある。その心におかしきところは、帯とけの枕草子(百二)をご覧いただくとして、ここでは、この文脈で「たき」は「滝…多気な女…多情な女」と戯れていたと心得えれば、「枕草子(五十八)滝は」がどのように聞こえるかみてみましょう。

 

滝は、音無しの滝、布留の滝は、法皇の御覧じにおはしましけんこそめでたけれ。那智の滝は、熊野にありと聞くが哀なり。とどろきの滝は、いかにかしがましく、おそろしからん。


 言の戯れを知らず言の心を心得ずに、字義通り読めば、「愛でたけれ」「哀れなり」「恐ろしからん」に、いまひとつ共感できない。主旨も趣旨伝わってこない。それは、この散文の「清げな姿」に過ぎないからである。ここで読みが終わるのは無智も甚だしい。まして下手な文章などと、清少納言を貶めるのは許せない。


 心におかしきところは(……多気な女は、むっつりの多情。古く涸れた多情女は、(花山)法皇が御覧にいらっしゃったのでしよう、それは、愛でたいことよ。無智の多情女は、熊野詣でしていると聞くが哀れである。轟きの多情女は、井かに、かしましくて、おとこども・恐ろしいでしょうね)。