帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (138)五月こば鳴きも古り南郭公

2017-01-31 19:10:32 | 古典

             

 

                        帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌の国文学的解釈方法は、平安時代の歌論と言語観を全く無視して、新たに構築された解釈方法で、砂上の楼閣である。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に、歌論と言語観を学んで紐解き直せば、今では消えてしまった和歌の奥義が、言の戯れのうちに顕れる。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 138

 

(題しらず)                 伊勢

五月こば鳴きも古り南郭公 まだしきほどのこゑをきかばや

                      伊勢(古今集女流歌人の代表。宇多天皇、後に、敦慶親王に寵愛された)

(五月には、鳴くのも馴れて古びるでしょう、ほととぎす、未熟なときの声を、聞きたいわ……早尽きには、泣くのも盛り過ぎるわよ、ほと伽す女・且つ乞うおんな、未だその時でない小枝を、利かせて欲しいの)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「五月…さつき…さ突き…早尽き」「さ…接頭語…美称…小…早」「鳴き…泣き」「ふり…古り…古るびる…衰える」「南…なん…なむ…強く指示する…でしょうが」「郭公…ほととぎす…鳥…言の心は女…鳥の名…名は戯れる」「まだしき…未だしき…未だその時期にではない…完全ではない…未熟な…使い古しではない…尽きていない」「こゑ…声…小枝…身の枝」「を…おとこ」「きかばや…聞きたい…聞かせて欲しい…効かせて欲しい」「ばや…自己の願望を表す」。

 

さつきには南方より来るのか、山に隠れているのか、ほととぎすよ、早く里に来て、初声聞かせてよ。――歌の清げな姿。

早尽きには、泣くのも衰えるわ、ほと伽す・且つ乞う女、未だ尽きない時の小枝、利かせて欲しい。――心におかしきところ。

 

よの女性の心に思うことを言い出した歌。更衣女房女官下女たち皆共感しただろう。歌の「心におかしきところ」は、女たちを、慰め、時には「をかし」と笑わせ、和ませただろう。それには、「莫宣於和歌(真名序)」和歌より宜しきものはない。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


   


帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (137) さ月松山郭公うちはぶき

2017-01-30 19:10:21 | 古典

             

 

                       帯とけの古今和歌集

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌の国文学的解釈方法は、平安時代の歌論と言語観を全く無視して、新たに構築された解釈方法で、砂上の楼閣である。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に、歌論と言語観を学んで紐解き直せば、今では消えてしまった和歌の奥義が、言の戯れのうちに顕れる。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 137

 

題しらず         よみ人しらず

さ月松山郭公うちはぶき 今もなかなむ去年のふる声

題知らず            詠み人知らず(女の歌として聞く)

(五月待つ、山ほととぎす、うち羽振り、里に来て・今にも鳴いておくれ、去年の古声・でいいから……すばらしい月人壮士、待つ女、山ば且つ乞う、内端吹き、井間も泣きたいの、来たぞの、震える声よ・振る小枝よ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「さ月…五月…夏…さつき…すばらしい月人壮士(万葉集での月の別名)…さ突きおとこ…ささらえをとこ(万葉集以前の月の別名)」「さ…接頭語…美称」「松…言の心は女…待つ」「山…山ば」「郭公…ほととぎす…鳥の言の心は女…鳥の名…名は戯れる、且つ恋う・且つ乞う・ほと伽す」「いま…今…井間…おんな」「声…こゑ…小枝…おとこ…体言止めは余情がある」。

 

なぜか、ほととぎすの鳴き声を待望する女の心。――歌の清げな姿。

すばらしい・つき人おとこを待ち望み、且つ乞うと泣きたいという女の心情。ふるえる声・振る小枝、その時のおんなとおとこのありさま。――心におかしきところ。

 

何らかの事情で男の訪れが無く、独り身となった女の心情。前の男の歌二首と同じような趣旨を、女の立場で詠んだ歌として、ここに並べられてあるのだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (136)あはれてふことをあまたにやらじとや

2017-01-28 19:13:46 | 古典

             

 

                       帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌の国文学的解釈方法は、平安時代の歌論と言語観を全く無視して、新たに構築された解釈方法で、砂上の楼閣である。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に、歌論と言語観を学んで紐解き直せば、今では消えてしまった和歌の奥義が、言の戯れのうちに顕れる。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 136

 

卯月に咲いた桜を見てよめる         紀利貞

あはれてふことをあまたにやらじとや 春にをくれてひとりさくらん

初夏四月に咲いた桜を見て詠んだと思われる・歌……や好い尽きた、憂つきに咲いたおとこ花を見て詠んだらしい・歌。 紀利貞(大内記・阿波国の介など歴任。880年ごろ歿、在原業平らとほぼ同じ時代を生きた人)

(すばらしい・感動するということを、多くの人に、与えまいとしてかな、この桜・春に遅れて独り咲いているのだろうか……憂尽きの哀れということを、吾女田に、与えまいとしてかな、妻のや好いの春に遅れて、おとこはな・独りで咲いているのだろか)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「卯月…四月・初夏…うつき…(戯れて)憂尽き」「桜…木の花…男花…男の生涯の比喩か…おとこ端…我がはかない物の比喩か」「見…見物…覯…媾…まぐあい」。

「あはれ…すばらしいと言う感動…哀れなおとこ花と言う悲哀」「あまたに…多数に…程度はなはだしく…吾間田に…わがおんなに」「間・田・谷…おんな」「やらじ…やるまい…やらないつもり」「やる…遣る…与える」「じ…打消しの意志を表す」「とや…疑問を表す」「春…季節の春…睦突き・来さら来・や好いの春情」「さく…咲く…放く…放出する」「らん…らむ…原因・理由の推量」。

 

春に遅れて初夏に独り咲いた桜を見て、男の諸々の感慨。――歌の清げな姿。

官位昇進などには遅れ、妻にも先立たれた男だろうか、独り咲くわがおとこ花を見ての色々な思い。――心におかしきところ。

 

この歌は、前の人麿の歌と心深いところで相通じるところがあるからだろう。その隣に並べられてある。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (135)わが宿の池の藤波咲きにけり

2017-01-27 19:09:48 | 古典

             

 

                        帯とけの古今和歌集

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌の国文学的解釈方法は、平安時代の歌論と言語観を全く無視したものである。中世に秘事・秘伝となって和歌の奥義を見失ったのだから、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に、歌論と言語観を学んで紐解き直せばいいのである。ほぼ次のような文脈である。

 

紀貫之のいう歌の様(表現様式)と言の心

仮名序の結びに「歌の様を知り、言の心を得たらん人は、大空の月を見るが如くに、古を仰ぎて、今を恋ひざらめかも」とある。「言の心」とは字義以外に、その時代に歌言葉の孕んでいた諸々の意味である。用いられ方から心得るしかない。

藤原公任の捉えた歌の様

公任は、歌の様(歌の表現様式)を捉えている。「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりと言ふべし(新撰髄脳)」と優れた歌の定義を述べた。歌の「心におかしきところ」が秘義となったのである。歌の表現様式は、一つの歌に、深い心、清げな姿、心におかしきところの、三つの意味を同時に表現することである。それは、一つの言葉は多様な意味を孕んでいるので可能である。

清少納言の言語観は枕草子にある

われわれの用いる言葉は、「聞き耳」によって(意味の)異なるものであると枕草子にある。言葉の意味は、受け手にゆだねられる、この超近代的ともいえる言語観に従えば、一つの言葉には言の心を含む多様な意味があり、歌に多重の意味があることなど当然のこととなる。歌の「心におかしきところ」は、聞き耳を持つ人だけに聞こえるのである。

藤原俊成は、清少納言と同じ言語観で歌の様を捉えている

歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に」云々と『古来風躰抄』で述べている。ほぼ次のように読める。「歌の言葉は、浮言綺語のように戯れているけれども、そこに、ことの深い主旨や趣旨が顕れる。これを縁にして仏道に通じさせると(顕れたエロスは言わば)煩悩であるが(歌に詠むほどに自覚したならば)即ち菩提(悟りの境地)であるから――(云々とあるが以下は難しいので略す)」。ここに歌の様は、明確に表示されてある。

 

上のような文脈に立ち入って、今では消えてしまった和歌の奥義を紐解き続ける。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 巻頭(135

 

題しらず           よみ人しらず

わが宿の池の藤波咲きにけり 山郭公いつか来なかむ

この歌、ある人のいはく、柿本人麿が也

(我が仮住まいの池のほとりの藤の花々咲いたことよ、今は・山に居るほととぎす、いつの日、来て鳴くのだろうか……我がすまいの、逝けの、臥しの身、咲いたことよ、山ばで且つ乞う妻は、いつの日来て泣くのだろうか)

この歌は、或る人が言うには柿本人麿の歌である。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「やど…宿…仮の住まい」「池…言の心は女…(戯れて)逝け…(精根など)尽き果てた」「ふじなみ…藤波…木の花…言の心は男…多数の藤の花房が揺れているさま…(戯れて)不二な身・臥しな身・わがおとこ」「な…の」「さきにけり…咲いてしまった…放ってしまった」「に…ぬ…完了を表す」「けり…詠嘆を表す」「山郭公…山に居るほととぎす・まもなく里に来て鳴く…郭公…鳥の名…鳥の言の心は女…(名は戯れて)且つ恋う・且つ乞う」「山…ものの山ば」「きなかむ…来て鳴くのだろう(か)…来て泣くのだろう(か)」。

 

旅の宿、初夏四月、藤の花房咲き垂れて揺れている、山ほととぎす、いつの日、ここに来て鳴くのだろうか。――歌の清げな姿。

仮の宿、逝けの臥しの身、さいてしまった、山ばの吾妻、いつの日来て、且つ乞うと泣くのだろうか。――心におかしきところ。

 

古今集に収められた伝承・人麿の歌(七首)は、流人として流される船旅か流罪地かで、それ以外あり得ないような孤独な情況で、妻を恋う歌である。これはその第一首目。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(134)今日のみと春を思はぬ時だにも

2017-01-26 19:50:52 | 古典

             

 

                        帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せてくれるだけである。和歌は、今の人々の知ることとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、
この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して、一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。

 

古今和歌集」 巻第二 春歌下134

 

亭子院歌合に、春の果ての歌         躬恒

今日のみと春を思はぬ時だにも 立つことやすき花のかげかは

亭子院歌合の為に詠んだ、春の果てという題の歌    みつね

(今日だけだと春の季節を思はない時でさえ、立ち去り易い花の影かは・いつまでも見とれて立ち去り難いものだなあ……京の身と・絶頂の身と、張るものを、思わない時でさえ、立つことや好き・絶つこと易き、おとこ花の陰かなあ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「今日…けふ…きゃう…京…山ばの頂上…絶頂」「春…春情…張る」「立つ…立ち去る…起立する…絶つ…絶え尽きる」「やすき…安すき…易すき…八好き…多情に好きな」「花…木の花…男花…おとこ端」「かげ…影…姿かたち…陰…いんぶ…おとこ」「かは…反語の意を表す…疑問を表す」「は…感嘆・詠嘆を表す」。

 

今日で春は終りと思わない日でも、立ち去り易い花の影かは、立ち去り難いものだなあ。――歌の清げな姿。

絶頂の身と張るものを思わない時でさえ絶ったり、思わぬ時に起立したりしやすい、男の身の端なのか、なあゝ。――心におかしきところ。

 

立つべき時に一瞬にして絶ってしまい、唯の妄想でも立ち易い、おとこのはかなくも繊細なありさまを表現した。躬恒らしい歌である。

 

以上で、古今和歌集巻第二 春歌下の歌を聞き終えた。明日からは、巻第三夏歌に移る。この寒中に夏歌か!? と言われそうなので言い訳をする。

春歌は春の風情を「清げな姿」にして、それに付けて、人の心の様々なありさまを表出した歌であった。それは、「業(ごう)」とか「心におかしきところ」とか「煩悩」といわれていた。エロス(生の本能・性愛)とも言える心であった。夏歌も同じで、夏の風物は歌の「清げな姿」に過ぎないのである。歌の主旨や趣旨は、季節や時代に関係のない人の心の本音であり、その心が歌より聞こえる。人にとって、最も「あはれ」とか「をかし」と感じるのは、人のほんとうの心である。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)