帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (162) 郭公人松山になくなれば

2017-02-28 19:18:08 | 古典

             

 

                        帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)である。

普通の言葉では言い出し難いことを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な歌の様(表現様式)をもっていたのである。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 162

 

山に郭公の鳴きけるを聞きてよめる  貫之

郭公人松山になくなれば 我うちつけに恋ひまさりけり

山で郭公が鳴いたのを聞いて詠んだと思われる・歌……山ばで且つ乞う女が泣いたのを聞いて詠んだらしい・歌 つらゆき

(ほととぎす、人を待つ山で、且つ恋うと・鳴くものだから、我、突然に、待つ人が・恋しくなったことよ……ほと伽す、人待つ山ばで・女成るを待つ山ばで、泣く成れば、我、射ちつけに、恋火増さったことよ)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「郭公…ほととぎす…カッコーと鳴く鳥…鳥の言の心は女…名や鳴き声は戯れる。ほと伽す、且つ恋う、且つ乞う・すぐまた求める」「人…女」「松…待つ…言の心は女」「山…山ば…感情の山ば」「なくなれば…鳴いているので…泣く成れば…泣いて山ばの頂上に達すれば」「うちつけに…打ち付けに…突然に…撃ちつけに…放出とともに」「恋ひ…恋火…恋の炎」。

 

郭公が、人待つ山で、且つ恋うと・鳴いているので、我、唐突に、待つ女人、恋しさ増さったことよ。――歌の清げな姿。

且つ乞う女、待望の山ばに泣く泣く達すれば、我、放つとともに、恋の炎、燃え増さったことよ。――心におかしところ。

 

且つ乞う女を有頂天に送り届けた後に、うちつけに、恋しさが増さったとは、男にとっての理想形で、現実には稀有な性愛の形、前の躬恒の歌と同様、おとこ誇り(おとこ自慢)の一種だろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (161) ほととぎすこゑもきこえず山びこは

2017-02-27 19:48:51 | 古典

             

 

                        帯とけの古今和歌集

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)である。

普通の言葉では言い出し難いことを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な歌の様(表現様式)をもっていたのである。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 161

 

侍にて、男ども酒賜うべけるに、召して、郭公待つ歌詠め

とありければ、よめる              躬恒

ほとゝぎすこゑもきこえず山びこは ほかになくねをこたへやはせぬ

侍詰所にて、男ども、酒を頂戴していた時に、呼び寄せられて、郭公を待つ歌を詠めと、御言葉があったので詠んだ・歌  みつね、

(ほととぎす、内裏では・鳴く声が聞こえない、山彦は、他で鳴く音を、反響する対応はしないのではありませんか……且つ乞う女の声が、この辺りでは待てど・聞こえない、異性の且つ乞うと泣く泣くの要求を・山ばの野郎どもの根おが、応じてしまったかもしれませぬ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「ほとゝぎす…郭公…鳥の言の心は女…名や鳴き声は戯れる。且つ乞う」「やまびこ…山彦…こだま…山ばの男」「彦…男」「ほか…他所…他性…異性…女」「なくねを…鳴く音を…(カッコーと)鳴く声に…泣く声を…(且つ乞うと)泣く女の声に」「ねを…音を…音に…根お…おとこ」「を…に…対象を表す」「こたえへ…対応…応じること…(要求を)かなえる」「やは…反語の意を表す…疑問の意を表す」「せぬ…しない…してしまった」「ぬ…『ず』の連体形、打消しの意を表す…『ぬ』の終止形、完了の意を表す」。

 

郭公の声が聞こえないのは、山彦が、他所で鳴く声を、内裏に反響する対応はしないからのようで、ございます。――歌の清げな姿。

且つ乞う女の声、ここでは待てど聞こえない、山ばの男どもは、異性の要求に、応えてしまったようで、ございますよ。――心におかしところ。

 

性の格は、圧倒的に女性が優勢。常に劣勢なおとこは、時々このように、おとこ誇り(おとこ自慢)がしたくなるようで、そこんところも、主上は十分御承知で題を出されたのである。男どもだけの酒の座は和む歌だろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (160) 五月雨のそらもとゞろに郭公

2017-02-25 19:11:30 | 古典

             

 

                        帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)である。

普通の言葉では言い出し難いものを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な歌の様(表現様式)をもっていたのである。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 160

 

ほとゝぎすのなくをきゝてよめる     貫之

五月雨のそらもとゞろに郭公 なにを憂しとかよたゞなくら覧

(郭公の鳴くのを聞いて詠んだと思われる・歌……且つ乞う女の泣くを聞いて詠んだらしい・歌) つらゆき

(五月雨の空もとどろくように、ほととぎす、何を憂しとか・何を憂れうのか、世、ただ鳴くのだろう……さ乱れの空虚も、とろとろに、且つ乞う女、何を、憂しとか・もの足りず辛いとか、夜、多々泣くのだろうか・乱)

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「五月雨…さみだれ…さ乱れ…さ淫ら」「さ…接頭語」「空…空虚…空洞」「とどろに…轟くように…響きわたるように…門泥に…門とろとろに」「と…門…おんな…空洞」「とろ…泥…粘液」「郭公…鳥の言の心は女…名や鳴き声は戯れる。ほと伽す、且つ乞う」「憂し…憂れうる…心配する…(もの足りず)辛いさま」「とか…疑問」「よ…世…男女の仲…夜」「ただ…唯…多駄…多々」「なく…鳴く…泣く」「らむ…原因理由を推量する意を表す…どうしてだろうか」「覧…らむ…見…覯…媾…まぐあい…らん…乱…(世・男女の仲・夜)乱れて」。

 

五月雨の空にとどろくカッコーの声、何を憂いて、世を唯、鳴いているのだろうか。――歌の清げな姿。

さ乱れの空洞もとろとろに、且つ乞う女、何がもの足りず辛いのか、夜多々泣く、どうしてだろう・乱れて。――心におかしところ。


和歌は、エロチシズムのある文芸である。歌に顕れるエロス(生の本能・性愛)は、心におかしい、それを楽しむ。

 

この紀貫之の歌の、国学と国文学的解釈をみてみよう。

江戸の国学者、本居宣長は「遠鏡」で「時鳥ガ五月雨ノ空モドンドヽ  ヨヒトヨヒタスラ鳴クガ  何ゴトヲウイト思フテアノヤウニナクコトヤラ」という。わかりやすく平仮名に直すと、

ほととぎすが、さみだれの空もドンドと、夜一夜ひたすら鳴くが、何ごとを憂いと思ふてあのやうに鳴くことやら。

明治の国文学者、金子元臣は、

梅雨の空も、とゞろと鳴り響くほどに、時鳥は、何事を憂いと思うてか、あのやうに、夜通し泣くのであろうぞ。

現在の解釈、先ず、新 日本古典文学大系「古今和歌集」の解釈は、

さみだれがはげしく降る夜の空も、とどろかすほどに声を響かせるほととぎすよ、いったい何をつらいと思って、夜どおし鳴いているのだろう。

また、日本古典文学全集「古今和歌集」の解釈は

さみだれの夜空を鳴り響かすように、ほととぎすがひと晩じゅう鳴いているのは、何が悲しいというわけなのだろうか。


 現代の他本の解釈も大同小異である。残念ながら、学問的解釈は、これ以上の意味も以下の意味もない平板な「清げな姿」しか明らかにできていない。古今集撰者筆頭の紀貫之の歌が、この程度の意味しかなく、当時の人々も、上のような解釈をしていたと、ほんとうに思うのだろうか。現代の解釈は、理性的で、客観的で、論理実証的な解釈であるから、間違い無いのだろうか。そこには顕れない意味が和歌には有った。

 

平安時代の和歌と言葉に関する言説を全て無視した解釈であることに気付くべきである。貫之のいう「歌の様」を知らず、「言の心」を心得ず、公任のいう「心におかしきところ」が聞こえていない。清少納言の言語観、言葉の意味なんて「聞き耳異なるもの」とは、天と地ほど違う言語観で解かれてある。俊成が「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ている」というのも意に介さず、そこに「深い旨が顕れる」ということを無視した字義通りの解釈が、現代の常識となっている。


 それに、「ほととぎす」は、夜鳴く鳥なのだろうか。どのような鳴き声か、聞いた人は居るだろうか。「ほととぎす」の言の心を心得れば、夜、どのように泣くか、大人なら皆わかるだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (159) こぞの夏なきふるしてし郭公

2017-02-24 19:10:25 | 古典

             

 

                        帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)である。

普通の言葉では言い出し難いものを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な歌の様(表現様式)をもっていたのである。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 159

 

題しらず             よみ人しらず

こぞの夏なきふるしてし郭公 それかあらぬかこゑのかはらぬ

題しらず(この歌も、寛平御時后宮歌合の歌である)、よみ人しらず(男の歌人の歌として聞く)

(去年の夏に、鳴き古びた・鳴き衰え老いた、ほととぎす、そうではないのか、カッコーと鳴く・声が去年と変わっていない……来ぞの懐・来てよ慣れ親しんだ感情、泣き盛り衰えた、且つ乞う女、そうではないのか、盛んにカツコウと泣く声、相変わらずだことよ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「こぞ…去年…来ぞ…来てよ(巻頭の一首では、こそ、来る勿れと戯れていた)」「こ…来い(命令形)」「ぞ…強く指示する意を表す」「なつ…夏…懐…親しみ慣れた」「なき…鳴き…泣き」「ふるし…古し…老いし…衰えし」「郭公…夏に盛んに鳴く鳥…鳥の言の心は女…泣き声や名は戯れる。ほと伽す、且つ乞う」「声…カッコーと鳴く声…且つ乞うと泣く声」「かわらぬ…変わらない…(常に)変わらない…(嗄れもせず・勢い・激しさが)変わらない」

 

去年盛んに鳴いていたほととぎす、ではないのか、老いもせす、カッコーとお盛んに鳴くことよ。――歌の清げな姿。

来てよ、慣れ親しんだ感情の山ばと泣き続けた、且つ乞う女、ではないのか、泣き声は・変わらないなあ。――心におかしところ。

 

寛平御時后宮歌合で、合わされた左方の歌は、よみ人知らず(女房女官らが作った女の歌として聞く)

夏の夜は水やまされる天の川 流れる月の影しとどめぬ

(夏の夜は・梅雨時の夜は、水嵩増すのでしょうか、天の川、流れる月の、光が止まってしまったことよ……懐の夜は・親しみ慣れた感情の夜は、をみなや、高ぶり増さる吾間の川、流れる壮士の陰、留められないことよ)

 

「水…言の心は女」「あまの川…天の川…女の川…おんな」「あま…女…吾間…おんな」「川…言の心は女…おんな」「ながれる…移動する…(白つゆ)流れる」「月…月人壮士(万葉集の表記)…月の言の心は男…大昔(万葉集以前)の月の別名は、ささらえをとこ」「影…光…恵み…照るもの…陰…いんぶ…おとこ」「ぬ…(止めて)しまったことよ…完了した意を表す…(形及び白つゆ、留め)ないことよ…『ず』の連体形、打消しを表す」。

 

両歌とも夏の風物を詠んだ「清げな姿」をしている。女のエロス(生の本能・性愛)を表出した歌と、その女の性(さが)に驚嘆する男の歌の組み合わせである。歌合に出席の女たちは、歌の「心におかしきところ」を満喫しただろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第三 夏歌 (158) 夏山にこひしき人や入りにけむ

2017-02-23 19:12:09 | 古典

             

 

                       帯とけの古今和歌集

               ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)である。

普通の言葉では言い出し難いものを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な歌の様(表現様式)をもっていたのである。

 

古今和歌集  巻第三 夏歌 158

 

(寛平御時后宮歌合の歌)             紀秋

夏山にこひしき人や入りにけむ こゑふりたてて鳴くほとゝぎす

(夏山に、恋しき人でも、入ってしまったのだろうか、声ふり立てて、鳴く、ほととぎす……なづむ山ばに、乞いしき男が入ってしまったのだろうか、声振り立てて・小枝ふるい立たせて、泣く、且つ乞う女)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「夏山…懐山ば…慣れ親しんだ山ば」「山…感情などの山ば…感の極み…絶頂」「こひしき人…恋しい人…乞いしき人…且つ乞う相手」「や…疑問の意を表す」「いり…入山し…入道し…山ばに入り」「けむ…たのだろう…推量する意を表す」「こゑ…声…小枝…おとこ…木の言の心は男」「ふりたて…振り立て…(声)張り上げ…(小枝を)奮い立たせ」「なく…鳴く…泣く」「ほとゝぎす…郭公…鳥の言の心は神世から女…鳥の名や鳴き声は戯れる。ほと伽す、且つ恋う、且つ乞う、すぐさま又と乞う」。

 

夏山に、恋しい人でも入山したのだろうか、声張りあげて、且つ恋うと・鳴くほととぎすよ。――歌の清げな姿。

難渋する山ばの極みに、乞う男が入ったのだろうか、小枝奮い立たせて泣く且つ乞う女。――心におかしところ。

 

「寛平御時后宮歌合」で、この歌に合わされた左歌は、よみ人知らず(女の歌として聞く)、紀秋岑の歌と同じ情況を、女の立場で詠んだ歌。

夏の露なぞとどめぬぞはちす葉の まことの玉となりしはてねば

(夏の露、どうして、流れ落ちてゆくのよ・留まらないのよ、蓮葉の真の宝玉と成って果てられない、いつも……懐の・慣れ親しい、白つゆ、どうして止めないのよ、水草の葉の・女の八す端の、真の白玉と成って果てない、いつもね)


 「夏の…懐の…慕わしい…慣れ親しい」「つゆ…露…夜露…白露…おとこ白つゆ」「とどめぬ…止めない…留まらない…流れ堕ち逝く…果てる」「はちすは…蓮の葉…聖なる台座…玉台…たまのうてな…大切なものをお乗せるの台…女…八す端…多情おんな」「す…洲・巣…おんな」「まことの玉…真の玉…宝玉…真珠…白玉」「ね…ず…打消しを表す」「ば…ので…すればいつも…いつもそうなってしまうことを表す」。

 

秋岑の歌とほぼ同じ感情の境地を詠んだ女歌は、歌合に出席の、左方の女房か女官の作だろう。読人が、歌を三度読み上げるだけなので誰の作かはわらない。この歌合では歌に勝劣は付けない、批評もない。大人の女たちは、「絶艶」ともいえる両歌のエロスをそれぞれに享受する。今で言えば、すばらしいドラマのクライマックスを鑑賞し身の端も胸もキュンとなるのに似ているだろうか。

 

歌の様を知らず、言の心を心得ず、心幼くては、歌の「清げな姿」しか見えないので、歌合など「をかし」くも、何とも思えないだろう。今の人々は、当時の歌の文脈とは程遠いところに居る。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)