帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第九 羇旅歌 (417)夕つく夜おぼつかなきを玉匣

2018-02-19 20:22:42 | 古典

            

                       帯とけの「古今和歌集」

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第九 羇旅歌

 

但馬国の湯へまかりける時に、二見浦と言ふ

所に泊りて、夕さりのかれいひ賜べけるにあ

りける人々、歌よみけるついでに、よめる

          藤原兼輔

夕つく夜おぼつかなきを玉匣 ふたみの浦はあけてこそ見め

 

    (但馬国の湯へ出かけた時に、二見浦と言ふ所に泊って、夕方が来て乾飯を頂いたときに、共にいた人々が歌詠んだついでに、詠んだと思われる・歌……たじ間のせかいにいった時に、二見のうらと言うところに、とどまって、夕食に乾飯を頂いたときに、共にいた人々、歌を詠んだついでに詠んだらしい・歌)ふじはらのかねすけ

(夕方に精魂尽きたよ、おぼつかないので、たまくしげ二見の浦は、夜が明けてから見物するつもりだ……暮れ方の月人おとこ精根尽き、おぼつかないので、玉くしげ二見する心は、夜が明けてからだなあ、見せるつもりだ)。

 

 「たじまの国…但馬の国…国の名…名は戯れる。多肢間、多路間…多情なおんな」「二見…所の名…名は戯れる…二度見」「見…覯…媾…まぐあい」。

 「夕つく夜…夕方に尽きたよ…月人おとこ尽きたよ」「おぼつかなきを…ぼんやりとしている…頼りない感じのおとこ」「を…ので…おとこ」「たまくしげ…匣…櫛箱などの美称…開くものの美称」「二見の浦…所の名…名は戯れる。二度見…おとこの苦手なこと」「浦…裏…心」「あけて…開けて…明けて…(夜が)明けて」「見め…見るつもりだ…見物するつもりだ…見るつもりだ」「め…む…つもりだ…意思を表す」。

 

夕方に精魂尽きたよ、頼りない感じなので、たまくしげすばらしい二見の浦は、夜が明けてから見物するつもりだ――歌の清げな姿。

治る見込みのない湯治の旅も、ゆきゆくだけの、羇旅なのだろう。

 

暮れ方の月人おとこ、精根尽きて、おぼつかないので、玉くしげおんなの二見の裏は、夜が明けてからだなあ、見るつもりだ――心におかしきところ。

普通でも、二見の裏など、ままならないのに、精根尽き、元には戻らないたことを自覚したおとこの悲哀。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)