帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(二百十三と二百十四)

2012-07-20 00:05:04 | 古典

  



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿のみならず、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生々しい心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集 巻第四 恋雑 百六十首
(二百十三と二百十四)

 

 津の国の室の早わせひでずとも 綱を早はく守るとしるべく

                                    (二百十三)

 (津の国の温室の早稲、穂出なくとも、標綱を早や着ける、守ると知れるだろう……津のくにのむろの早我背、濡れなくとも、つなを、早やはめる、盛ると汁だろう)。


 言の戯れと言の心

 「津の国…国の名…津のくに…女のくに」「津…浦などとともに、女」「むろ…室…女…温室…生暖かいところ…無漏…漏れていない」「早わせ…早早稲…早我背…早い我がおとこ」「ひでず…秀でず…穂出ず…漬でず…濡れず」「綱を…おとこを」「綱…緒、紐などとともに、男」「はく…履く…着ける…はめる」「もる…守る…まもる…盛る…盛りとなる」「しる…知る…知れ渡る…汁…滲み出る…濡れる」「べく…べし…だろう」。


 古今和歌集の歌ではない。


 恋歌というより雑歌のよう。久しぶりに逢った恋人どうしの性急な合いのありさまか。

歌の姿は、田守人の日常生活。用いられた言葉の戯れぶりは絶妙。


 

 難波潟しほ満ちくればあま衣 たみのゝ島にたづ鳴きわたる 
                                    
(二百十四)


 (
難波潟に潮満ち来れば、あま衣、田蓑の島に、鶴鳴き渡る……何は方に、肢お満ち来れば、ひとの身と心、多見のの肢間に、ひと泣きつづく)


 言の戯れと言の心

 「なにはがた…難波潟…潟の名…名は戯れる。何は方、あのあそこの方、はっきり言い難いところ」「潟…濱、洲、渚などと共に女」「しほ…潮…士お…肢お…おとこ」「あま…海人…漁師…女」「衣…心身を包むもの…心身」「田蓑の島…島の名…名は戯れる。多見のの肢間、多情なおんな」「しま…島…肢間…洲…す…女」「たづ…鶴…鳥…女」「鳴き…泣き…嬉れし泣き」「わたる…渡る…移動する…ずっと何々する…連続する意を表す」。


 古今和歌集 雑歌上、題しらず、よみ人しらず。


 歌の清げな姿は、潮満ち来る難波潟と鳴き渡る鶴の風景。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、合いの喜びに泣くひとのありさま。

 

 この本歌は万葉集にある山部赤人の歌でしょう。

 貫之は仮名序で、赤人について次のように述べている。「山のべの赤人と言ふ人有りけり。歌に、あやしく(奇しく・妖しく)、たへ(妙え・絶妙)なりけり。(歌のひじりの)人麻呂は、赤人の上に立たむこと難く、赤人は、人麻呂が下に立ったむこと難くなむありける」。これは、赤人も又「歌のひじり」であると称賛しているのと同じでしょう。一首、その歌を聞きましょう。


 万葉集巻第六 神亀元年甲子冬十月五日、幸于紀伊国時、山部宿祢赤人作歌。

 わかの浦に潮満ち来れば潟をなみ 葦辺をさしてたづ鳴きわたる

 (和歌の浦に潮満ち来れば、潟が無くなるので、葦辺をめざして鶴鳴き渡る……我の心に

、わがうらに、士お満ち来れば、片男波脚辺をさして、ひと泣きつづく)。


 「わか…若…和歌…わが」「うら…浦…女…心」「あしべ…葦辺…脚部…脚辺」「たづ…鶴…鳥…女」「なきわたる…鳴き渡る…泣きつづける」。

 
  妖艶、絶艶な有様が、絶妙な言葉使いによって、玄之又玄なるところに顕れている。

  何よりも重要なことは、これまで明らかにしてきた歌々と、
赤人の万葉集の歌の様や言の心が、同じだということ。


 
伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


   新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。