■■■■■
「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義
秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義は、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観によって蘇える。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、複数の意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。
藤原定家撰「小倉百人一首」 (六十) 小式部内侍
(六十) 大江山生野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立
(大江山、生野の道が・行く野の道が、遠いので まだ、踏んでもみず・文も見ず、天の橋立・母の住む丹後の地……大いなるおんなの山ば、逝く野の満ちの遠ければ、まだ、夫身も見ず・そんなめも見ず、あまの端立てて)
言の戯れと言の心
「大江山…京より丹後の国へ行く途中の山の名…名は戯れる。大いなる江の山ば、大いなるおんなの山ば」「大…ほめ言葉では無い」「江…言の心は女…おんな」「生野の道…京より丹後の国へ通じる道の名…名は戯れる、行く野の路、逝くひら野の路、逝く野の満ち足り」「野…山ばではないところ」「ふみ…文…母よりの便り…踏み…体験…夫身…おとこ」「見…目で見る…(天橋立を)股の間から見る…吾間の端立てて見る」「ま…間…おんな」「見…覯…媾…まぐあい」「ず…打消し」「天の橋立…丹後の名所…股の間から逆さまに見れば天への懸け橋に見えるという…丹後の国は母の和泉式部の住む所…体言止めで余情がある」。
歌の清げな姿は、(母上から頼みの歌は届きましたかと問われたので)丹後に縁ある山・野・道・名所の名を連ねた歌で即答した。
心におかしきところは、(去ろうとした男の身と心の端を掴んで引き留め)あまの端たて、ふ身も、逝く野の満ちも、大いなる山ばも、まだ見ていないのよねえ。
金葉和歌集(第五番目の勅撰集)雑部上、詞書「和泉式部、保昌(国守)に具して丹後に侍りけるころ、都に歌合侍りけるに、小式部内侍(和泉式部の娘)、歌よみ(歌人)にとられて侍けるを、定頼卿(藤原公任の子息)、局のかたにまうで来て、歌はいかがせさせ給、丹後へ人はつかはしてけんや、使まうで来ずや、いかに心もとなくおぼすらんなど戯ぶれて、立ちけるを、引きとゞめてよめる」。
こうして、歌の埋もれた部分を発掘して見れば、黄金色に輝く言の葉であった。決して朽ち果ててはいなかったのである。母の和泉式部にも劣らぬ小式部内侍のエロス(性愛、生の本能)の表現は、今の人々にも伝わるだろう。
公任のいう「心におかしきところ」、俊成のいう「言の戯れに顕れる深き旨」は、言わば「エロス」であり煩悩である。和歌は、それを、ものに包むようにして表現する高度な文芸であった。