帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (八十) 待賢門院堀河 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-03-22 19:34:34 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 『百人一首』の和歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に従って、歌の表現様式を知り、「言の心」を心得て、且つ歌言葉は「浮言綺語に似て」意味が戯れることも知って、歌の「心におかしきところ」を享受してみれば、国文学の解釈とは大きく隔たり、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容とは全く異なる驚くべき文芸であった。
このように言いきれるのは、すでに数多くの和歌の「心におかしきところ」や「言の戯れに顕れる深い主旨・趣旨」が、心に伝わったからである。それは、ものに「包む」ように表現されて有り、まさに「煩悩」であったからである。今のところ、これ以上に、わが和歌解釈の正当性を論理的に説明し証明する方法はない。

今の人々は、上の歌論と言語観を無視した国文学的解釈に否応なく絡められ慣らされているため、歌言葉の戯れの意味に違和感を覚え、まして、歌の奥に顕れる深くも妖艶なエロスに心を背けるだろう。しかしやがて、和歌の真髄に気付いてもらえるだろう、人の心の本音だから。

 

藤原定家撰「小倉百人一首」(八十) 待賢門院堀河


   (八十)
 長からむ心も知らず黒髪の 乱れてけさはものをこそ思へ

(長く居ようとする、君の・心も知らず、黒髪の女、心も・乱れて、独りの・今朝は、もの思いしている……長く狩ろうとする、君の・心も知らず、黒髪のように・長い女が、みだれて今朝は、ものをこそ・ものを愛おしく、思っているの)

 

言の戯れと言の心

「長…(時間が)長い…長居…(健在であることが)長い」「からむ…あらむ…在らむ…そばに居よう…狩らむ…めとろう…まぐあおう」「む…推量を表す…意志を表す」「黒髪…背丈ほどの女の黒髪…長い…女」「の…主語を表す…比喩を表す」「みだれて…乱れて…(黒髪が寝)乱れて…(身も心も)淫らになって」「て…そして…それから」「けさ…今朝…(君が帰った)朝…(独りになった)朝」「ものをこそ…はっきり言えないことをよ…あのことをよ」「思へ…思ふ…(もの足りなく・惜しく・愛おしく・恋しく・乞いしく)思う」。

 

歌の清げな姿は、君の去った朝、黒髪も心もみだれたまま、もの恋しい女心。

心におかしきところは、長く在ろうとおつとめになったのねえ、みだれていまも、もの思う、小好い今宵もね。

 

千載和歌集(藤原俊成撰・1188年頃成立)恋歌三 「百首歌たてまつりける時、恋の心をよめる」 待賢門院堀川(崇徳院の母の待賢門院に仕えた人)。

 現実に、後朝の歌の返歌として、このような歌を受け取ったならば、男はどう思うだろうか。たぶんそれも計算された歌だろう。今宵も訪れる確率は限りなく高まるだろう。
 古今集仮名序に、歌は「力をも入れずして目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせる」という。ならば、男心など軽いものだろう。