帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」  (六十) 小式部内侍 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-03-01 19:31:18 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義は、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、
定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観によって蘇える。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、複数の意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(六十) 小式部内侍


  (六十) 
大江山生野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立

(大江山、生野の道が・行く野の道が、遠いので まだ、踏んでもみず・文も見ず、天の橋立・母の住む丹後の地……大いなるおんなの山ば、逝く野の満ちの遠ければ、まだ、夫身も見ず・そんなめも見ず、あまの端立てて)


 言の戯れと言の心

「大江山…京より丹後の国へ行く途中の山の名…名は戯れる。大いなる江の山ば、大いなるおんなの山ば」「大…ほめ言葉では無い」「江…言の心は女…おんな」「生野の道…京より丹後の国へ通じる道の名…名は戯れる、行く野の路、逝くひら野の路、逝く野の満ち足り」「野…山ばではないところ」「ふみ…文…母よりの便り…踏み…体験…夫身…おとこ」「見…目で見る…(天橋立を)股の間から見る…吾間の端立てて見る」「ま…間…おんな」「見…覯…媾…まぐあい」「ず…打消し」「天の橋立…丹後の名所…股の間から逆さまに見れば天への懸け橋に見えるという…丹後の国は母の和泉式部の住む所…体言止めで余情がある」。

 

歌の清げな姿は、(母上から頼みの歌は届きましたかと問われたので)丹後に縁ある山・野・道・名所の名を連ねた歌で即答した。

心におかしきところは、(去ろうとした男の身と心の端を掴んで引き留め)あまの端たて、ふ身も、逝く野の満ちも、大いなる山ばも、まだ見ていないのよねえ。

 


 金葉和歌集(第五番目の勅撰集)雑部上、詞書「和泉式部、保昌(国守)に具して丹後に侍りけるころ、都に歌合侍りけるに、小式部内侍(和泉式部の娘)、歌よみ(歌人)にとられて侍けるを、定頼卿(藤原公任の子息)、局のかたにまうで来て、歌はいかがせさせ給、丹後へ人はつかはしてけんや、使まうで来ずや、いかに心もとなくおぼすらんなど戯ぶれて、立ちけるを、引きとゞめてよめる」。

 

こうして、歌の埋もれた部分を発掘して見れば、黄金色に輝く言の葉であった。決して朽ち果ててはいなかったのである。母の和泉式部にも劣らぬ小式部内侍のエロス(性愛、生の本能)の表現は、今の人々にも伝わるだろう。

公任のいう「心におかしきところ」、俊成のいう「言の戯れに顕れる深き旨」は、言わば「エロス」であり煩悩である。和歌は、それを、ものに包むようにして表現する高度な文芸であった。