帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (七十七) 崇徳院  平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-03-19 19:31:32 | 古典

             



                     「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 和歌を解くために原点に帰る。最初の勅撰集の古今和歌集仮名序の冒頭に、和歌の定義が明確に記されてある。「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞ成れりける。世の中に在る人、事、わざ、繁きものなれば、心に思ふ事を、見る物、聞くものに付けて、言いだせるなり」。「事」は出来事、「わざ」は業であるが、技法でも業務でもない、「ごう」である。何らかの報いを受ける行為とその心とすると、俊成のいう「煩悩」に相当し、公任のいう「心におかしきところ」(すこし今風に言いかえれば、エロス、性愛・生の本能)に相当するだろう。これが和歌の真髄である。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (七十七) 崇徳院


  (七十七) 
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ

(瀬の流れが早いために、岩に堰かれる滝川のように、分かれても末には、必ず合流・きっと逢う、だろうと思う……浅背が流れ早すぎるために井端にせかれる、多気女のように、もの・砕けさけても、末に・す江に、合おうと思うぞ)


 言の戯れと言の心

「瀬をはやみ…浅瀬の流れ早いので…背のおとこ早いので」「岩…言の心は女…井端…おんな」「せかるる…堰かるる…堰き止められる…せかれる…あせらされる…せっつかれる」「るる…受身の意を表す」「滝…言の心は女…多気…多情」「川…言の心は女」「の…のように…比喩を表す」「われ…分れ…割れ…砕け」「すえに…末に…あの世で…す江で」「す・江…言の心はおんな」「あはむ…合流するだろう…逢おう…合おう」「む…推量を表す…意志を表す」。

 

歌の清げな姿は、たき川のような或る女と離れ難い青年男子の恋心。

心におかしきところは、わかれても末に、逝ってもあの世で合おうと、おとこの堅い意志を井端に伝えた。

 

詞花和歌集 恋上、題不知、新院御製。

二十数歳の時に譲位して新院となられた。内裏を離れゆく女人への恋歌と思っていいだろう。

 

後の世の人は、保元の乱に敗れ讃岐に配流となった崇徳院の、京を離れる際の、最愛の女人へ再会を期した、御歌と聞いてもいい。その心根に変わりはない。歌の言葉(女の言葉)は「聞き耳異なるもの」であると清少納言は言った。また、古今集真名序に、和歌は「其の根を心地に託し 其の華を詞林に発するもの也」とあるが、言わば、和歌は心底に根を這わせ、生々しい心を、清げな言の葉にして花と咲かせたものである。歌の生の心は、たとえ時を隔てても、人の心に直に伝わるものである。