帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (七十四) 源俊頼朝臣 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-03-16 19:35:55 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 和歌を解くために原点に帰る。最初の勅撰集の古今和歌集仮名序の冒頭に、和歌の定義が明確に記されてある。「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞ成れりける。世の中に在る人、事、わざ、繁きものなれば、心に思ふ事を、見る物、聞くものに付けて、言いだせるなり」。「事」は出来事、「わざ」は業であるが、技法でも業務でもない、「ごう」である。何らかの報いを受ける行為とその心とすると、俊成のいう「煩悩」に相当し、公任のいう「心におかしきところ」(すこし今風に言いかえれば、エロス、性愛・生の本能)に相当するだろう。これが和歌の真髄である。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (七十四) 源俊頼朝臣(金葉和歌集の撰者・俊頼髄脳の著者)


  (七十四) 
うかりける人を初瀬の山おろしよ はげしかれとはいのらぬものを

(憂しと思っていた女を・得たいのに、初瀬の山の吹き下ろす風よ、激しい・厳しい、そうあれとは、観音様に我は・祈らないのになあ……浮かれ興じた女よ、初背の・初めての男の、山ばの荒い心風よ これほど・激しくあれとは、心に願わなかった・井のらなかった、のになあ)


 言の戯れと言の心

「うかりける人…憂かりける人…つれない感じだった人…気の進まなかった女…得かりける人…得たい女…妻にしたい女…浮かりける人…浮かれ興じた女」「を…対象・起点・感嘆などを表す…のになあ・だがなあ」「かり…あり…狩り…猟…めとり…まぐあい」「人…女」「初瀬…所の名…名は戯れる。長谷寺、観音さま、初背、初めての男」「山おろし…山を越えて吹き下ろす風…山ば越すときに吹き荒れる心風」「はげしかれ…激ししくあれ…厳しくあれ…激情でかれ」「いのらぬ…祈らない…観音様にお願いしない…心に願わない…井に乗らない」「ものを…のに…詠嘆を含む、のになあ」。

 

歌の清げな姿は、高嶺の花を得たいと思ったか・つれない女だったのか、仏にも祈ったが、世間の風当たり・女の心風の厳しきありさま。

心におかしきところは、山ば越えに吹きおろす激しい女の心風に、男の願っていた和合を超えてしまったありさま。


 

千載和歌集 恋歌二 源俊頼朝臣。「権中納言俊忠家に恋十首歌よみ侍りける時、いのれどもあはざる恋といへる心をよめる」。(祈れども…井乗れども)(逢えない恋…合えない乞い・和合ならぬ乞い)という心を詠んだ歌。詞書は撰者の藤原俊成が記したものに違いないので、詞書の文にも戯れの意味が複数ある。そして、歌の内容を言い得て絶妙である。

 

藤原定家の歌論書『近代秀歌』に付属していたのか「秘々抄本」という意味深な題の本に、この歌の批評がある。

この歌は「心深く、言、心まかせてまねぶとも、いいつづけ難く、まことにおよぶまじき姿なり」。(公任のいう心深いところがある。言葉と心を、ただ心任せに模倣しょうとしても、このように言い連ねることは難しい、ほんとうに、及び難い姿である・まして心におかしきところは言うまでも無い)と読める。