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七技会のひろば

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更新:毎月9日と24日が努力目標

特集「中央学園での思い出」その4

2022年12月09日 | お話サロン
     特集「中央学園での思いで」その4
 

 
 「中央学園での思い出」シリーズが好評で、その3に続いてさらに追加投稿
 がありましたので、「その4」として掲載します。
  十二分にお楽しみ下さい。
  吉田さんありがとうございました。



           
       「中央学園での思い出(小さな無謀)」

                     第七回技術科二組 吉田さん
 学園生活2年目を迎えたある日曜日、仲間6人で東京へ遊びに出掛けまし
 た。
 東京には、60年安保の余韻が色濃く残っていて、樺美智子さんの亡くな
 られた場所も廻って手を合わせました。
 それから、都内をいろいろと散策して、締めは新宿西口の飲み屋街に入り
 ました。
 ところが、6人の財布を合わせても、有り金はさみしい限りでした。
 協議の結果は、「このお金あるだけ飲もう」 帰りの電車賃はどうする?
 「学園まで歩いて帰るだけだ」と衆議一決。盛大に?飲みました。
 そして、酒席のあと酒の勢いも手伝い、勇躍新宿駅から歩き始めました。
 どの道を歩いたのか、今では思い出せませんが、時々放吟しながらひたす
 ら歩きました。 
 そして大変さよりも好きな仲間と自由な気分を味わっていた心地よい記憶
 が残っています。
 「桜上水」まで来たとき、東の空が明るくなってきて、道を間違えていな
 かったことの安堵感を鮮明に覚えています。
 帰寮して、そっとベッドに潜り込み、勿論、授業はさぼらずに出席しまし
 た。
 今考えると、常識外の事でありますが、今ではできない、その小さな無謀
 さが無性に懐かしく学園時代の一コマとして、時々思い出されます。

                            以上






特集「中央学園での思い出」その3

2022年11月28日 | お話サロン
       特集「中央学園での思い出」その3



           中央学園思い出の記

                        第七回技術科二組 松戸さん
 1,東北の旅
  夏休みを利用して、奥州へ旅に出かけ、予て行きたいと思っていた男鹿半島の
 寒風山を登りました。この時はバス旅行でした。すばらしい眺めを満喫したこと
 から、これを契機に山登りが始まりました。

 2,柔道部に在籍
  2年間柔道部に在籍しました。鈴鹿でご一緒した谷津さんなど六回生や同期の
 強豪に揉まれたおかげで黒帯で卒業を迎えることができました。

 3.クラス対抗野球の優勝
  学園で毎年行われているクラス対抗の野球試合で、我がクラスは纏まったチー
 ム力を発揮し見事優勝しました。私は、その時、マウンドに立ち、投げきった強
 い思いがあります。

 4.卒業ダンスパ-ティ
  学園卒業のダンスパーティがあるというので、参加することとし、七業のX氏
 (経験者)に案内されて、経堂駅近くのダンス教室に通いました。ある程度動く
 ことが出来るようになり、パーテティに参加しました。私の趣味の一つに社交ダ
 ンスが加わった次第です。

 5.ある飲み会の場
  経緯は分かりまぇんが、ある時、TさんとHさんと私の三人で洋風の飲み屋に
 入った時の話です。アルコールに弱い私は、飲むと辛くなることがあるので、控
 えていましたが、つい口当たりのよい、サワーを一気に飲みました。後がいけま
 せん。足腰が立ちません。
 殆ど、二人に背負われて寮にたどり着いた次第です。遠い昔の情けない思い出で
 す。

 6.早稲田大学(2理)在籍
  私は、高等部入学前に早稲田(第2理工学部)に通学していましたが、暫くし
 て、東海出身で技高六回の早川司朗さんが私と同じクラスに在籍していたことが
 分かり驚きました。まさかでしたから、それから38年の卒業まで楽しいお付き
 合いでした。
 早稲田第2理工学部は昭和39年廃部となりました。遠い昔の話です。

                                以上



            
中央学園での思い出

                        第七回技術科二組 三上さん
  昭和34年10月8日、中央学園高等部に入学。高等部としての座学、野外実
 習等瞬く間に十ヶ月が経ちました。昭和35年8月には「夏期休暇」が用意され
 ていました。
  各人、帰郷する者、旅行を楽しむ者が全国に旅立って行きました。
  田中君、松永君と小生三人は「北アルプス登山」をすることに決めました。
  登山の予定は思い出せませんが、「立山、剱岳、大日岳などを経て軽井沢」の
 ルートだった様に思います。
   
  アルプスの風景は素晴らしかったが、険しい山道を体力の無い身体で何時間も、
 何日も歩いたことを思い出します。
  二十代の体力があったので、険しい登山道を歩けたのでしょう。
  あの素晴らしい風景は六十数年経っても忘れることはありません。
                                以上




          次は、手紙で投稿下さった松原さんです。


            中央学園での想い出

                        第七回技術科一組 松原さん
 60年余茫漠とした雲海のかなたに霞んだ記憶も定かでない想い出を一つ二つ
 してみる。
 
 1 入学前
 入学直前の事・・・当時恵那電報電話局施設課機械係、入学一週間前、「出局し
 なくてよい、家で入学の準備を」と課長の話。在宅の二日目伊勢湾台風が来襲。
 出局して復旧作業を手伝ってくれとの連絡。やった仕事が恵那局から明智局(特
 定郵便局)への市外線(裸線)のバインド締め直しとか銀粉いっぱいの2コ撚り
 引き込み線を肩に担いで延々と引っ張り作業をやり、10月1日、入学のため早
 朝家を出発、中央線中津川駅から名古屋駅で東海道線に乗り換え、熱田近辺で車
 窓から見えたのは、径1メートルはあろうかと思われるラワン材の丸太が水に浸
 かった家の周りや空き地に押し合って浮いている様を見て、台風の凄さをみせつ
 けられた。この時の復旧作業の経験がのち卒業時に線路部門を選ばせたことの繫
 がっていると思う。

 2 学園で 強烈な印象の出来事はない。
 ⑴ 初めての同室者は業務の横浜からの塙さん、能登の珠洲からの本家さん、
 術の大阪からの松永さん、と小生の四人。
 始まった間が無い頃と思うが、本家さんが風邪で発熱、仙川まで行き、薬店を
 し風邪薬を買い戻り、本家さんの熱が下がったこと。

 ⑵ 郵政大学校のサッカーチームとの試合で、郵政チームに押し込まれゴール
 近で守っていた時(小生はF・B)、ペナルティーエリアの線とタッチライン
 間違えて、ペナルティーエリアの線の外へ出たボールを拾い上げてしまった。
 体を見ずにボールのみを見ていた大失策。当然相手のフリーキック。暫くの間恥
 ずかしさで顔を揚げられなかった。

 ⑶ 学園祭の運動会、入場行進で各チームの入場時そのチームを紹介すること
 なっていて、紹介役をその場で水野谷さんに頼んだ。水野谷さんものの見事に即
 席で次々と紹介してくれたのをスピーカーで聞きながら、凄い頭の回転の良い人
 だと感心したこと。

 ⑷ 2年の後半の頃だったと思うが、柿崎先生のテストのこと、何かの用事で
 員室へ入った時、柿崎先生の机の上にテスト問題の一つと思われる用紙が広げて
 あった。その時先生は見えなかった。しっかり憶えておいて、皆に話した。その
 問題が出題された。
 
 3 卒業後
 ⑴ 卒業して間もなく結婚した。新婚旅行先は長野県野尻湖のホテル。そこへ
 口のブーちゃんから祝電を貰った。卒業少し前新宿の旅行会社で宿を予約したが
 その時彼が一緒だった。これは嬉しかった。

 ⑵ 何年か後、北陸の宇野さんからTel。家内と旅行に行きたい。三河で何
処か
 宿をとの話。三河三谷の三ヶ根山にある郵政の保養所を紹介、予約してあげた。
 後日、表日本は明るくて良いですね。気持ちが晴れ晴れしますね。と沁み沁じみ
 と言われた事を思い出す。

                               以上




              風景写真事始め

                          第七回技術科二組 米田
 確か二年生の時だったかと思います。学園の文化祭か何かの写真展があり、写真
 展なるモノに初めて作品を出展しました。
 その時の作品は、あちこち探しましたがありません。確かモノクロのフイルムカ
 メラで撮影したモノでした。
 縦の構図で、真ん中に孟宗竹(モウソウチク)。それに蠅(はえ)が止まってい
 る。今再現するとこんな感じです。
    

 これが案ずるより不評ではなかった!(と自分は受け止めていました。)。
 当時は、作品の作品たる価値よりも唯々大きく引き伸ばせたことがうれしかった
 のでしょう。たかだか四つ切りでしたがね。
 それから、何年経ったのでしょうか?
 全ての仕事からリタイヤーして「毎日が日曜日に」
 確か72歳だったと思います。孟宗竹の夢が忘れられず、東京は銀座の写真学校
 の門を叩き、更に鎌倉の写真教室で教えを請いました。選んだ作品分野は「風景
 写真」
 スナップや人物写真の道もありましたが、落ち着いてノンビリと歩き回って人の
 気配の無い場所で三脚を据えて・・・。
 あぁーそれから何年経ったのでしょう。
 未だに「風景写真」に拘っています。今にして思えば、素人が人の姿が写ってい
 る写真はプライバシーを侵すと写真展等で公開出来ない世の中になっています。
 しかし、多寡が風景写真ですが
      「重いカメラバックに三脚を背負っての遠出」=体力仕事
 です。そろそろ年貢の納め時と観念しています。
 序での事です。お気に入りの作品をお見せしましょう。とは言っても「下手の横
 好きのレベルです。
 

 孟宗竹の夢に取り付かれた写真人生の物語でした。
                                 以上


 
 あとがき
 たくさんの方々が、随分いろいろな事を思い出して語って下さいました。いずれ
 も遠い遠い昔の出来事、なかなか思い出す機会がなく頭の襞に埋もれていたので
 しょう。これが、「七技会総会」として一堂に集まり語り合えたのなら、もっと
 もっと嬉しかったのでしょうに!集まれないことが残念です。コロナメの野郎、
 いつまで待てば居なくなるのでしょうか?後一年?それとも後三年?そろそろ
 「卒寿お祝い総会」ですね。それもいいか!それまで頑張りましょう。業務科の
 方にも参加していただいて元気にやりましょう!
                             あとがきおわり





2022.11.24  米田書き込み



次回更新は12月9の予定です。






                          




特集「中央学園での思い出」その2

2022年11月28日 | お話サロン

      特集「中央学園での思い出」その2



             「中央学園の思い出」
 
                                 七回技術科一組 友野さ
 1.同室4人
  高等部に受かった。よし、よし、これで2年間は住みかと飯の心配はいらなく
 なった。
  不謹慎だが合格を聞いて一番に思ったのはそれだった。入学案内に4人1部屋で
 の寮生活とあった。こりゃあ大変だ、どうやって4人仲良く過ごすかだなあ、ど
 んな奴と一緒になるのかなあ。入寮の日、部屋に入ると同室3名は既にいた。九
 州・近畿・近畿の面々。一人はすでにベットに入っていて奥からのそのそと出て
 きた。“いやぁ昨夜の送別会で少し飲みすぎてしもて・・・”と頭を掻き掻き。一
 人はどっしりしていて背が高くて眼鏡、育ちのよさそうな風体。もう一人は若そ
 うで格好よく女にもてそう。最後に参上した私を含めて4人そろっての挨拶と少し
 ばかりの話で一緒にやろうという気持ちが伝わって来た。
  こりゃ~いけそう。これが最初の出会いだった。それからは毎日毎日食堂に行
 くのも風呂に行くのも一緒。金魚のフンよろしく連れ立って行動した。
  夏には有給休暇をまとめてもらえるそうだ。どうしよう、バラバラでは勿体な
 い。修学旅行で北海道に行くと聞くが、団体旅行では面白くない。相談の結果
 「あこがれの北海道だ4人で行こう”となった。結果的にこの旅行が4人の絆を
 強くしたのか卒業後にも奥さんを含めて8人で何回か旅行した。京都、滋賀、神
 戸、大阪。果ては九州まで。この卒業後の旅行会は印象に残るものが多くある。
 順番で旅行の幹事をやり個性的な旅行プランで8人和気あいあいの楽しい旅行を
 した。
  勿論失敗談は盛り沢山だが、おぼろげな記憶による会話の一端を披露すると
  ア “あの3人は黄色いサクランボ?いいなあ。”誰かが“黄色かなあ、もうお手
   つきかもよ”
  イ あのいかした女、さっき“フ~ンファファ(パパァか?)”といって男の腕
   にしがみついていたぞ。二人の関係は何だろう。と4人で議論。
  ウ 卒業後の旅行で。固有名詞が出てこなくなりそれぞれが“アレ”“コレ”を連
   発。何かをしてやろうと気はつくが腰が重くてすぐに立てない。久しぶりに
   会っても互いに若いころの記憶しかないからそれぞれが歯がゆい。
   4人一緒に“年取ったなあ。”
   
 
 2.山歩き
  まとまった有給を利用して1年目は北海道旅行を楽しんだが、2年目はH、N
 と3人で白馬から槍までの山行きを計画した。
  テントが小屋泊まりより安かろうと神保町まで出かけ大枚をはたいてテントを
 買った。梁のない3角テントだ。体力と経済力に相談しながら長期の山歩きに耐
 える食料と装備を用意し”さあ出発”。ザックに腕を通すとズシリと重い。肩に食
 い込む。新宿にやっとたどり着いて手を見たら己が手とは思えないくらい膨らん
 でいる。“これから先大丈夫かしら。”
  山行きの詳細は別稿のリーダーH氏に任すとして、記憶を呼び戻しながら体験
 を2or3。
  白馬から槍への縦走だ。小屋泊まりであちこちの尾根歩きは経験したがテント
 をかついでの山行きは初めて。初っ端のキャンプ地天狗で雨に見舞われた。それ
 も長々と4日間、耐えて耐えての4日間。ラジオから流れる天気予報を4日間。
  後で思えばこれでスタミナの多くを失った。難関の大キレットでは危うく谷底
 真っ逆さま転落の危機を体験した。今思い出してもゾットする。これを救ったの
 は中央大学山岳部でいじめられながら伝授を受けたキスリングの収納と三点確保
 による歩行だ。もともとキスリングは横長だから意識して縦長に荷物を収納しな
 いとキレットのように狭隘な隙間を横ばいで通過するには不向きなリュックだ。
  岩角にリュックが触るたびにあの時のいじめを思い出した。谷底から吹き上げ
 る涼風が心地よい。爺岳を過ぎると低地になる。灼熱の中を黙々と槍へ向かっ
 た。のどが渇く、猛烈に乾く。右下には満々と水をたたえた黒部湖。あっ池があ
 った、種池だ。先を行く山岳パトロールが水を飲んでいるようだ。早く行って水
 を飲もう。着いたら水は茶色くおまけにボウフラが沢山泳いでいる。さすがにこ
 れは飲めなかった。行程は半ばだが相当バテてきた。針の木のキャンプ地に到着
 するのが遅くなって雪渓から溶け出す水を充分に取れない。槍を見ると遠い、
 それに連なる稜線が壁のように立ちはだかり迫って見える。なんで線が面に見え
 るんだ。リーダーは下山を決断し針の木で降りることとなった。
  まだ半分ほど残っている荷がことさら重い。下山では3人が黙々と歩く、夫々
 が夫々の思いを抱きながらもくもくと歩く。3人は無事下山し、いまでも生きて
 いる。リーダーよありがとう。
 
                  
     黒部側から湧き上がる雲。鹿島槍から五竜岳、遠く白馬を望む。
              平成4年頃の作画。

 3.卒業後
  いろいろな話を聞くと我々7回生は一番のびのびとした学園生活を送らせてい
 ただいたようだ。学園という環境に恵まれ、先生に恵まれ、部外の講師に恵まれ、
 お陰様で充実した青春を送ることができたと思っている。特に感じているのは部
 外講師だ。
  たまたま事情で学園の二年間は中央大学2部(法学部)の学生でもあった。教
 わっている身で講師の品定めをするなんてとんでもないことだが法律関係の講師
 をくらべても部外講師の素晴らしさを思う。授業内容が充実している、真剣に教
 えてくれる、試験が厳しい等々大学に行っても体験できないレベルの教育を我々
 は受けさせていただいた。感謝です。
  企業内訓練だから卒業生が企業運営に寄与するのは当然だが当時は「公社」で
 あり独占的に事業をしていたので広い視野での活躍も期待されていた。7回生は
 社外で活躍してきた人数が他の回に比べ多い。これは誇るべき事だと思う。

                                  以上



        アルプスとの出会い

                       第七回技術科二組 波多野さ
  中央学園高等部在学中、夏季休暇やGWはほとんどどこかの山に登っていた。

        
  リーダーは多くの場合、第七回業務部生の八尾さん(写真右端)である。八尾
 さんは大学山岳部にいたことのある本格的山男で、彼から技術・業務の専門分野
 の垣根を越えていろいろと山のことを学んだ。私はもともと山が好きだったが、
 それまでは丹沢や鈴鹿といった低山ばかりだった。八尾さんを通して初めてアル
 プス級高山の魅力を知り、だんだん山へのめり込んでいった。
  その他八尾さんには晩年になり、逓信同窓会の大河内賞を推薦いただくなど、
 山以外でもひとかたならぬお世話になっている。
  写真は中央学園山岳部で北アルプスを縦走したときのもので、中央は同窓の友
 野さん、その左はこれも同窓の今は亡き相原さんである。相原さんとは五十年後、
 南米コロンビアで一緒に仕事をするなど、最後まで長い付き合いが続いた。彼も
 若き日の山仲間の一人である。
  人は何故山に登るのだろうか? 私の場合、理由などない。ただ体が山の匂い
 を求めているだけだ。山が高ければ高い程、厳しい尾根縦走が続けば続くほど山
 はその匂いをますます濃くする。大学山岳部のような本格的登山経験のなかった
 私にとって、高等部時代の山は生き甲斐そのものであった。
                                 以上




        中央学園での思い出

                      第七回技術科一組 中本さん
 私は近く卒寿を迎えますが、消え去ろうとしている中央学園での思い出です。
 学園での数学の授業は、某大学の教授が講義されたのですが、私には授業時間が
 居眠りの時間となり、ついにはサボリの時間になりました。数学の試験は当然の
 結果でしたね。
 卒業後10年ほどして、中央学園の大学部へ勤務することになり、学園に出頭し
 ましたが驚いたのは、お前は数学の授業が担当と指示された事でした。
 高等部の数学の授業をサボった罰なのかと後悔しましたが、仕方がありません。
 自分なりに努力し勉強し何とかなりました。
 情けない思い出ではありますが、今となっては懐かしい出来事で、感謝していま
 す。
                                  以上
 注:中本さんはハガキで投稿してくださいました。

 

  世の中には猛者が居るものです。原稿料を払わないで投稿を呼び掛ける奴もそ
 の一人ですが、その上が居ました。
  去る日の朝、朝食を済ませた直後に珍しく固定電話が鳴りました。発信者の番
 号を見ると「0268・・・」誰だろう? 東北の? 東北の知り合いって?
 頭の中で模索しつつ、受話器を取って「ハイ!もしもし、どなた?」お相手が名
 乗るも東北の?思い出せません。
  何度か問い返していると業を煮やしたか「息子さんですか?」「いいえ、うち
 には同居する息子はいませんよ」
  そうこうするうちに、漸く栃木の近藤(繁)さんと分かりました。
  「俺さー、パソコンもプリンターも使ってないからさ!これから中央学園での
 思い出を言うからメモしてくれよ」
  確かに投稿を呼び掛けるお願いには、どんな手段でもいいから、と書きました
 が電話で来るとは想定していませんでした。
  「手書きでいいからハガキを送ってくれよ」と言いましたが、とにかくメモし
 てくれの一点張り。
  そのうち、こちらの言うことに目もくれず、お喋りが続きました。
  メモはしなかったが、大凡こんな事だったと思い出しながら、以下のようなお
 喋り投稿でした。



              中央学園での思い出

                     第七回技術科二組 近藤(繁)さん
 私は、中央学園の2年間、空手部に入り、空手をやっていた。空手部には、ばん
 ちゃんこと坂下さんや佐藤さんが一緒でした。
 その坂下さんと佐藤さんとが、卒業後間もなく相次いでお亡くなりになりました。
 そしたら「空手の三人組だったから次はお前の番だ!」とよく言われました。
 その私が、87歳になれたのも、そう言われ続けたおかげかな?と思って居ます。
 ・・・・・・・・・。
 そんな私だが、仕事は一生懸命やったよ。管内1・2番と言われたローコンキョ
 クのカンリショクも務め上げたカンネ!。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 (この後、いろいろの話が約十分間続いたが、内容は忘れました。だから・・・
 ・・・・・・です。)
                                  以上

 

 
    この先は「中央学園での思い出」その3に続きます。
           そちらもご覧下さい。
    また、その3には、松戸さん、三上さん、松原さん、
               そして、米田を掲載しています。



     
    
2022.11.24  米田書き込み





次回更新は、12月9日の予定です。














特集「中央学園での思い出」その1

2022年11月28日 | お話サロン

     特集「中央学園での思い出」その1


  皆さんに特集「中央学園での思い出」の原稿投稿を呼び掛けたところ、
 早速たくさんの方々がご応募下さいました。特に今回は、第七回業務科の
 方々にもご参加していただこうと、これまでとは異なったことを企画した
 ところ、業務の東さんが参加して下さいました。ありがとうございました。
  募集の際に申し上げました通り、当方への到着順に掲載しました。
  存分にお楽しみください。


  注:このブログには、1回3万字以下の制限があるため、やむを得ず
    その1からその3の3回に分けました。その2及び3の方も是非
    ご覧下さい。
    その1には、近藤(隆)さん、吉田さん、田中さん、業務の東さ
    ん、
    その2には、友野さん、波多野さん、中本さん、近藤(繁)
    さん
    その3には、松戸さん、三上さん、松原さん、と米田を
    それぞれ掲載しています。

 


             中央学園での思い出

                    七回技術科一組 近藤(隆)さん
  60年前の事ですから、既に記憶の主体はかなり擦り切れ、焦点もぼけ、信
 憑性の保障は無いことをご了承ください。
  入社前、大学受験を袖にされ、途方に暮れていた頃に、幾らかの欲求不満を
 補完する効果を期待しての学園入学でした。
  しかし、学園での講義は、一流大学の教授陣揃いで、私の知能レベルでは容
 易に理解を許されませんでした。
  そんな閉塞感を切り開き、癒していただいたのは、絵画クラブの活動という
 と課外ですが、絵の先生は、田村先生(芸大卒の画家)でした。一応絵の練習
 は、デッサンという作業で、4Bの濃い鉛筆で石膏像の描写に明け暮れ、偶に
 は、景勝地へスケッチ旅行を楽しむひと時でした。
  殊に印象強く覚えているのは 、田村邸は公社社宅で狭いのに、クラブ生を快
 く受け容れていただき、大勢でよくお邪魔させて頂きました。そして、ご馳走
 になり、酒宴になり、人生訓の数々を承りながらの歓談に明け暮れました。
  画家を目指していた訳でもないのに、なんで飽きもせずに通えたのか。それ
 は人生百般に亘る教養のほとばしりともいえる、数々の人生訓を承える貴重な
 時間であったからです。
  絵画に絞っても、一幅の絵を描くには、絶えず描く対象物と反対側(対角線の
 反対側)との調和をよく気遣え」という鉄則のような教えでした。これは、社会
 生活にも通用する原則でもある、と後々まで忘れずに覚えています。
  絵心は単純ではなく、色彩と構図の調和も大事で、多岐に亘る思考と理念の
 創作品とでも言えるかとも思いますが、普段展覧会などで、絵画の前に立って
 も、そんなことに考えは及ばないものです。
  私には、極めて貴重な絵画クラブ活動の一時であった、と感慨に耽ります。
                               以上
                                


            「八回生歓迎会」の裏話

                       第七回技術科一組 吉田さん
  学園生活も二年目に入って、間もない頃、大食堂で「八回生歓迎会」を実施
 することが決まりました。
  山内さんを中心に「折角だから何か奇抜なことをやろうじゃないか」という
 話になり(山内さん、間違っていたらごめん)「女装のストリップ」に決まり
 何故か私に白羽の矢が立ってしまいました。
  やるからにはと、なけなしの財布をはたいて 日劇ミュージックホールも下
 見してきましたが、一番困ったのは女性の着物を調達することでした。
  当時 絵画部の講師をお願いしていました田村先生の奥様(医務室勤務)に
 お願いしたところ、快く引き受けて頂き 着物一式とお化粧品までお借りする
 ことができました。
  当日は、ミュージック・照明の準備よろしく。食堂の一階ホールに登場、ラ
 イトを浴びながら階段を上り、二階の喫茶ホールで、ミュージックに合わせて
 着物を脱いでいきました。 最後、裸になると身体には「祝 八回生歓迎」の
 軸が垂れてーーーーーーTHE END 。(シナリオ通りでした)
  後日、田村先生のお宅で、お酒を戴きながら 先生と奥様に冷やかされたこ
 とも今は楽しい思い出です。
  絵画部は 全員が田村先生ご夫妻に親身になってよくしていただきました。
  今は、向うで相ちゃんとも一杯やっているのではないでしょうか。  合掌
                                以上



 
             「中央学園の思い出」
 
                       七回技術科二組 田中さん
  改めて学園の思い出となると少し重くなりますが、恵まれた環境の下、勉学
 をはじめ全国の皆との触れ合いが出来たこと、私にとって学園はまさに「中央
 楽園」そのものでした。
  在学2年間の思い出となると夏休みの山登りですかね。入学前九州の山はほ
 とんど登っておりましたので、この際、何か残ることは山登りがあるなあと思
 いを重ねました。
  1年目は北アルプスの縦走でした。燕岳から槍、穂高を5人のパーティで尾
 根縦走を十分楽しみました。しかし、終日に上高地に下りて来ましたが、山の
 天気は変りやすく土砂降りの雨となって交通機関も全面ストップの状況でした。
  一般の多くの登山客が各家の軒下で直立不動で雨をしのぎ一夜を過ごそうと
 している光景を目の当たりにしこれは大変だと思ったら、メンバーの一人がこ
 こには我が社の夏山テント村があるはずだ!と、その管理を帝国ホテルの現地
 関連ホテルがやっていると聞き早速ホテルに行きましたら、「管理用テント一
 張りがあるのでどうぞお使い下さい」とのこと本当に助かり皆で喜んだことを
 覚えております。
  2年目の夏休みです。この時は日本の顔である富士登山です、一度は登って
 おきたいと募ったら6人のパーティが出来上がりました。
  天の邪鬼じゃありませんが一般の登り口3合目(現在は5合目かな)からで
 は面白くない、1号目(富士吉田口)から登ることにし夕方6時頃から徹夜で
 登り始め明朝4時半頃に目的であるご来光祈願をしたことでした。
  たまたま、当日は厚い絨毯の雲海でそこからの日の出はその雄大さに気をと
 られたものでした、山頂のお鉢巡りの後は一路須走ルートを経て帰路につきま
 した。
  後述ですが上高地は40数年後に再びバスツアーで妻と訪れる機会があり河
 童橋からの奥穂、涸沢を眺め大正池など懐かしく観光に浸ることが出来ましが、
 富士山は一回で十分と思いました。
                               以上




          こんなに勉強したんだ!?

                        七回業務科二組 東さん
  お誘いにのって初めて「ひろば」に訪問させていただく七業会の東です。学
 園寮では、井口さん、飯島さん、早野さん、水野谷さんと同室でした。初訪問
 とあって、かしこまって選択した「思い出」は「勉強編」からになりました。
  その思い出を写真に撮ってみました。
  写っているのは、卒業してから今日まで数多くの転居にも失うこと無く持ち
 歩いて、今も自宅で同居している学園時代の講義受講ノート41冊です。
  ミナトコウベの一隅で電報送受にいそしんでいた一有線通信士が、希有の機
 会を得て、最高学府の碩学をはじめ多くの講師から直接教えて頂いた記録は捨
 てがたく、形ある思い出となって、いつも目の届くところに座しております。
  岩崎東大教授の哲学冒頭の言「哲学とは何か。わけのわからぬ学問である。
 その名を聞くだけではわからぬものである。」、鎮目東大講師の物理学最終講
 義の言「宇宙を支配する法則。物理学とはその法則の発見のためにある。」な
 どなど思い出満載のノートです。          
  八尾さんと一緒に編集した学園卒業アルバムの講師写真ページを併せて開く
 と、半世紀を超えて往時が鮮やかに蘇り、マイ脳内メタバースの世界でひとと
 きを過ごせます。

    

                                 以上


    この先は「中央学園での思い出」その2、その3に
                       続きます。
    その2では、友野さん、波多野さん、中本さん、
              そして、近藤(繁)さん、を、
    また、その3には、松戸さん、三上さん、松原さん、
             そして米田を、掲載しています。
    そちらも是非ご覧下さい。





 


          

「中央学園での思い出」の掲載時期延期について

2022年11月09日 | お話サロン

 「中央学園での思い出」の掲載時期を延期します

 

 標記について、以下により次回更新の11月24日まで延期します。

 理由は、以下の通りです。

 延期の理由

 「七技会のひろば」のワンオペの弱点を露呈しました。

 すなわち、オペレーターが10月30日に体調不良のため緊急入院し11月8

 日に退院しました。

 そのため、皆様からいただいた原稿を今日(11月9日)までに編集すること

 が出来ませんでした。

 原稿をお送り下さった方々、並びにご愛読者の皆様には、諸般の事情をご賢察

 のうえご了承下さいます様、お願い申し上げます。

                            以上

 

 

 

2022.11.09  米田書き込み

 

 

次回更新は11月24日の予定です。


特集「中央学園での思い出」募集

2022年10月24日 | お話サロン

     特集「中央学園での思い出」募集

       (七業の方々もどうぞ)

 

  中央学園を卒業してから60年を超えました。やっぱり遠い昔ですね。60

 年と言えば還暦ですものね。そんな時にもう一度学園での生活を思い返してみ

 るのも一興かと思います。そこで、「七技会のひろば」で「中央学園での思い

 出」を特集して卒業の還暦を祝おうとの趣向です。

  「中央学園での」と書きましたが、学園の2年間に限定しないで、入学前、

 卒業後の幾年かを含めて書いていただいて構いません。

  書いて下さった原稿は、米田に送って下さい。メールアドレスや住所は、

 会員名簿に記載の通りです。

  なお、今回は、第七回業務科の方々にも参加していただきます。

  七業の方は、原稿を八尾さん宛てに送って下さい。八尾さんから私の方へ

 転送していただける様お願いしてあります。

 

  原稿の文字数は、一話600文字以内とし、三話以内と致します。

  なお、投稿は、メール、手紙やハガキ(手書きOK)いずれでも結構です。写

 真があれば一緒にお願いします。

  締め切りは、一応11月末日ですが、「七技会のひろば」への掲載は11月

 24日に第一回目の掲載とし、続く第二回目は、12月9日です。

  以上の条件で、よろしくお願いします。

 

  広く知られている逸話の「ホントウはコウなんだよの裏話」或いは楽しかっ

 たこと、うれしかったこと、残念だったこと、等々この際ですから是非ご披露

 ください。

  よろしくお願いします。

                               以上

 

 

 

 

2022.10.24 米田書き込み

 

 

次回更新は、11月9日の予定です。

 

 

 

 

 


中央学園での思い出

2022年10月09日 | お話サロン

         中央学園での思い出

  次の更新に、何を書くかなぁ?と思案していたところへ、七業の八尾さんか

 ら「こんなのを書いてみた」とメールでいただいた。「七技会のひろば」とし

 ては、渡りに舟とばかり飛び付いて、掲載させていただくことにした。初めは、

 一話乃至二話と思って居ましたが、この種の話を特集してみれば面白いのでは

 ないか?と思い始め、四話全部を同時掲載させていただくことにしました。

  なお、特集「中央学園での思い出」の投稿要領は、次回(2022.10.24)発表

 とさせていただきます。この時に向かって今から腕と頭とキーボードを磨いて

 おいて下さい。七業の方々の投稿も受け入れる方向で考え中です。

  では、以下は、八尾さんからいただいた「中央学園での思い出」を原文のま

 まです。ただ、1行38文字を、画面サイズの関係で35文字に変更しました。

 

 

            中央学園での思い出

                         2022.9 七業会 八尾

 中央学園(正しくは中央電気通信学園第七回高等部だが)での二年間は、私の

 人生での画期的な世界への扉を開いてくれた二年間であった。

 人生の幕引きも近い昨今、当時のあれこれを諸兄と語り合いたくて、この「広

 場」をお借りする次第です。

 諸兄からも「あの頃のあれこれ」を是非この「広場」で披露して頂ければと思

 います。

 

 1 君はそんなに色が白かったのか

 卒業した翌翌年、高等部入試の監督にカクデン「角田教官」が来広された。

 歓迎会が催され出席したが、私は最下級生なので一番下座に着席していた。

 カクデンは何度も私の顔を覘くようにしていたが遂に「おい、君は八尾だろう」

 と言われたので、「はい八尾です、その節はお世話になりました」と答えた。

 「やはり八尾か君はそんなに色が白かったのか、学園始まって以来二番目に汚

 かったのに」と言われた。

 そこで一番はどなたですか尋ねたら、近畿にいる○○だと言われた。

 確かに中央学園では、登山焼けや雪焼けでゴーグルを使用した後はメガネザル

 のように目の周りが白かったから、汚かったと言われても仕方のない顔ではあ

 った。

 

 2 歌声喫茶・灯の再開

 何年か前に休業のニュースが出ていた歌声喫茶・灯が、場所を変えて再開した

 とのニュースを見た。

 時空を超えてと言っても良い位、当時の記憶が蘇った。

 西武新宿駅の近くにあり、三平食堂のとんかつ定食を食べた後によく行った。

 入場料だったかコーヒー代だったか記憶は定かではないが、お金を払ったらガ

 リ版刷りの歌詞表をくれた。

 今はピアノになっているようだが、伴奏はアコーディオンでロシア民謡が多か

 った。走れトロイカやステンカラージンの歌などは、今でもヒヨイと鼻歌に出

 て来るから不思議なものだ。

 雪山賛歌とかいつかある日などの歌はまだ公にはなっていなくて、特定の山仲

 間の間で歌い継がれていた。

 後年芹洋子がヒットさせた坊がつる賛歌の元歌は、私が二年間在学した学校の

 山岳部の部歌であった。

 追記:「何方か店の名前を教えてください。」

 当時新宿コマ劇場の近くに「シャンソン喫茶」があったと思うのですが、正確

 な名前を思い出せません。芦野宏・ビショップ節子・島崎雪子等の歌手が出演

 していました。岸洋子も音大生ということで出ていたと思います。

 

 3 初めて生の芝居を観た

 人生で初めて生の芝居(舞台)を見たのは、麻布今井町にあった俳優座である。

 そして出しものは東山千栄子主演の「桜の園」であった。

 その後も俳優座では題目は忘れたが永井智雄や滝田祐介の舞台を見たが、彼等

 は舞台での活躍よりもTBSドラマの「事件記者」で有名になった。

 その他には文学座で、我が郷土出身の杉村春子主演の舞台を見たが、そのテー

 マが差別問題であったとは当時は全く知らなかった。

 芝居へ行くきっかけは、誰かに誘われて「労演」に入ったら年に何回かチケッ

 トを貰ったからであった。

 その後舞台を見たのは、名古屋勤務時代に「御園座」で玉三郎を見た一回だけ

 だから

 労演入会を勧めてくれた誰かさんには感謝である。

 

 4 仙川寿司に感謝

 在学中はバーや居酒屋は勿論、寿司屋を訪れるような余裕は全くなかった。

 また山やスキーからの帰途、東京駅や新宿駅に着いた時に持ち金が仙川までの

 電車賃30円しかない、ということもしばしばだった。

 そんな時に困ったのが夕飯の調達だった。

 夜も10時過ぎると開いている店も殆どない。

 そこで厚かましくも仙川寿司に行き、中央学園高等部の・・・と頼み込むと、

 イヤな顔ひとつせず受け入れてくれた。

 給料日には必ずツケの支払いに出向いたが、ツケを払うとビール一本も飲まず

 に帰るのだから決して上得意ではなかったが、一度も断られたことはない。

 現在は仙川商店街から甲州街道側へ移転して営業しているとのことだが、機会

 があれば是非一度出かけてみたい、そして「大将!おまかせで」と言ってみた

 い。

                               以上

 

 

 

 

 

 

 

2022.10.09 米田書き込み

 

 

 

 

次回更新は10月24日の予定です。

 

 

 

 

 


痛みの程度

2022年09月24日 | お話サロン

           痛みの程度

 

  顔の左側に痛みを抱え込んでから約100日超え。帯状疱疹の後遺神経痛で

 今も悩まされています。ほぼ毎週ペインクリニックへ行って「神経ブロックの

 注射」と「痛み止めの薬」を処方して貰っています。

  この医師には、これまで十数回受診しているのですが、毎回開口一番「この

 一週間の痛みはどれくらい?」と聞いてはくれますので、例えば「痛みのレベ

 ルは3乃至4でした」或いは「何かに熱中すると痛みを忘れていることがあり

 ます」等と答えています。

  でも、医師はそれ以上痛みの程度については何も踏み込んで尋ねません。そ

 れで通じているのでしょう。

  もっとも最初にこのクリニックを訪れた時の問診書に、こんな設問がありま

 した。

  「どこが痛いのですか?」

  「その痛みの程度は、身体に加わる痛みでとても我慢出来ない時を10とし

 たら、それに比べてどのくらいですか?1から10の段階で答えて下さい」

 

  ですから、このクリニックでは暗黙の内に痛みの程度を10段階表示するこ

 とになっているのです。

 

  これと時期を同じくして月刊誌「文芸春秋」の記事で「痛みを計測すること

 は出来ない」と書かれているのを読みました。痛みの程度を測定する所謂レベ

 ル計は無い?!と一瞬驚きました。

 

  世の中にたくさんのペインクリニック=痛みの専門医療機関が存在するのに、

 痛みの種類やその大小は、あくまで患者の申告に頼っている、とは驚きでした。

  それを医師に言ったら苦笑いで応じてくれました。

  しかし、その日の注射はいつもより心なしか痛かった!様に思いました。

 (「・・・はいつもより心なしか痛かった!」はウソです。創作です。

 

  最近、痛み止めの薬の服用が長くなって何となくフラフラするので「もう

 ろそろ痛みを受け入れ痛み止めの薬をやめ、自然のままに任せることにして、

 痛みに関する治療を止めようと思う」と医師に話しました。

  医師は、「そう急ぐことはないですよ」と言いつつも今の痛みが我慢出来る

 のならば、それも選択肢の一つでしょう、と受け入れてくれ、痛み止めの薬の

 減量化の方法を説明してくれました。急にはゼロには出来ず、徐々に時間をか

 けて少しずつ減らすのだそうです。

  先ず、一緒に飲んでいた安定剤をやめました。その半月後に鎮痛剤の量を

 2/3にしました。

  それを1週間続けたら痛みが増えました。それだけ薬が効いていたと言うこ

 となのでしょう。それでも、もう1週間後に次の段階に進めて1/2にして我

 慢できるか?様子を見る予定です。結構遠大な行程です。

 

  話を最初に戻します。痛みの程度を測るレベル計です。

  随分医学は進歩しているのに、普通の人が患者になる前に最初に気付く痛み

 について、その「痛みの大きさを数値化出来ない医学」(これ言ったら「それ

 を言っちゃぁおしめーよぅ!とばかり注射でお返しが・・・?」)。

 

  多分、「痛みのレベル計」が無いわけではなく、安価に普及するレベルの価

 格になっていないだけなのでしょう。今、若い専門技術者がクリニックレベル

 にも「痛みのレベル計」が導入出来るモノを作り上げるべく、頑張って居て、

 近い将来のいつの日にかノーベル賞に輝くのではないでしょうか。

 

  以上は、「痛みに悩まされ続けた挙げ句の素人老人の与太話」でした。お終

 い!

 

                              以上

 

 

 

 

 

2022.09.24 米田書き込み

 

 

 

次回更新は10月9日の予定です。

 

 

 

 

 


会費免除

2022年09月09日 | お話サロン

            会費免除

 

  一寸古いお話です。

  今年の3月に以下に示す「会費免除」のお手紙を頂戴しました。

  どこのなんの会費かというと「電友会本社地方本部 日比谷同友会」の年会費

 です。

 飛び上がって喜ぶほどの金額ではありませんが、金額は、年額4,000円です。

 

   

 

  私は、電電を卒業する時、考えました。どこのどんなOB会に入ればいいの

 か?と。

  それまでのいろいろな組織で一番長く所属したところがいいな!と思い、組

 織別の勤務年数を拾ってみました。

  どうやら本社機関が一番長い様なので、また知り合いも多いことから日比谷

 同友会を選びました。入会が、昭和60年ですからもう既に36年。その間、

 写真のサークル活動を通じて、各種の催しの写真係を務めたりもしました。

 おかげで豊かな趣味を味わいました。しかし、「サークルの寿命は30年」と

 の言い伝えには逆らえず、その写真サークルも会員の高齢化のため店仕舞いす

 る事になりました(その後、新しい陣容により新しい写真サークルが誕生し活

 発に活動をしていらっしゃいます。)。

  そのお世話になった日比谷同友会から「年会費の払込を免除する」とのあり

 がたい通知をいただいた訳です。

 

  会費の払込を免除する=会費がタダ。の等式を頭に描いたら気になる「会費」

 を思い出しました。七技会の会費です。

  七技会は決まった会費を徴収していませんが、気になるのはこれまでの活動

 の結果の残金です。心配は、それを管理して下さって居る会計係の友野さんの

 ご苦労です。いつか何らかの方法で処分し無ければならないのですが、このコ

 ロナ禍中では、七技会も静かに活動自粛を強要されています。

  友野さんもキット何時までこれを預からせて置く積もりなんだろう?と心配

 なさっていることでしょう。早く決着を付けたいと願うや切です。

 

                             以上

 

 

 

2022.09.09 米田書き込み

 

 

 

次回更新は9月24日の予定です。

 

 

 

 

 

 

 


日比谷プロジェクトの概要

2022年08月24日 | お話サロン

         日比谷プロジェクトの概略

 

  NTT本社ビルの取り壊しが始まりましたが、その行く末が少しだけ気になります。

 詳しいことは分かりませんが、出来上がりを3枚の絵で見てみましょう。

  完成は2036年度だそうです。

 

 

    

 

                                以上


「NTT日比谷ビル感謝の会」開催レポート

2022年08月09日 | お話サロン

   「NTT日比谷ビル感謝の会」開催レポート

 

 我々が「電電本社内幸町ビルの思い出」などと騒いでいる一方で、今年4月

7日に持ち株会社とアーバンソリューションズの主催による「NTT日比谷ビル

感謝の会」が開催されていました。その開催概要が、日比谷同友会会報No.238

(2022.07.01)に開催されていましたので、引用掲載します。

 

 

 

    「NTT日比谷ビル感謝の会」開催レポート

 

 

                                  以上

 

 

 

 

2022.08.09米田書き込み

 

 

 

次回更新は8月24日の予定です。

 

 

 

 

 

 

 

 


特集「電電本社内幸町ビルの思い出」

2022年07月24日 | お話サロン

      特集「電電本社内幸町ビルの思い出」

 

  前回(7月9日)、八尾さんの内幸町ビル見聞録を掲載したのを機会に、同

 ビルの思い出を募集しました。

  これに対して、吉田さん、松戸さん、友野さん(最終原稿到着順)から投稿

 いただきました。ありがとうございます。

  では、早速掲載します。どうぞ、ゆっくりお読み下さい。

 

  

 

 

       電電本社内幸町ビルの思い出

                               吉田

  「七技会のひろば」いつも情報ありがとうございます。毎回楽しく読ませて

 いただいています。

  また 今回は、八尾さんの「内幸町ビル見聞録」を読ませていただき、往時

 の出来事が昨日のことのように思い出されてきました。

  八尾さんありがとうございました。

 

  私は、東海から3回本社勤務を経験しました。

  施設局・保全局・建設局で、通算12年になりました。 

  有楽町からあのガード寄りを歩いて出勤、帰りは新橋に流れることもありま

 した。ただ、当時は残業続きで、飲ミニュケーションもなかなか取りにくく、

 月何回かの「農協」の日が楽しみでした。

  東海から誰かが本社に出張に来た時は、「今日は、東海農協ですので、お先

 に」とおおいばりで、定時に退社し、ガード下や新橋で 東海の仲間と杯を傾

 けました。楽しい思い出です。

  昼休みは、もっぱら日比谷公園がホームグランドで、音楽隊もよく演奏して

 いましたね。

  また、旧帝国ホテルは、愛知県明治村に移設されましたので何回か見に行き

 ました。

  そのほか書ききれないほどのいろいろの出来事・思い出が、そして先輩や同

 輩の方たちの一人一人のお顔が脳裏をよぎります。

  中央学園並びに内幸町時代には、公私ともに多くのことを学んだと、いま

 八十路半ばでつくづくと感じている所です。

  今回は、それを思い出すきっかけを作っていただいた八尾さん、本当にあり

 がとうございました。

  いつまでも お元気で お幸せをお祈りしています。

 

 

 

 

       電電本社内幸町ビルの立地条件

                                松戸

  小学生の頃から走ることの好きだった私が、電電入社後も近隣の学校の校庭

 や周辺道路を利用してランニングを楽しんでいましたが、走ることに適さない

 道路事情もあったりして、その殆どが満足できる状況にはありませんでした。

  入社後、初めて本社勤務の辞令をいただき、電電本社内幸町ビルの本社勤務

 を経験することになった私が、そこで目にしたのは昼時など、スポーティな姿

 の社員が本社ビルを飛び出し、日比谷公園を駆け抜け、皇居に向かっている姿

 でした。皇居外苑でランニングを楽しんでおられる本社勤務社員の行動である

 ことが分かりました。先輩方のこの行動はすぐにでも、自分に結びつくものと

 直感しました。

  走ってみると、皇居を周回する道路は、距離が約5Kmのアップダウンはある

 ものの、安全かつ風景にも恵まれた、最高のジョギング環境にあることを知り

 ました。やがて、皇居周回コースは休日などには団体、個人を問わず、多くの

 ランナーが押しかけることになり、まさに健康ブームの到来を予感させるもの

 でした。

  その頃になると、多くの企業で、社員の福祉、健康の増進を狙って、皇居周

 回の駅伝競走が花盛りとなり、多くの社員が参加するなど大いに盛り上りを見

 せていました。 電電もその動きに同調したのかどうかは分かりませんが、本社

 内での皇居周回の駅伝大会が行われ、多くのチームが参加し、健脚を競ったも

 のでした。チームは5人構成で、三周(15Km)でした。参加するたのしみは

 云うまでもなく、駅伝参加などで知り合った多くの競争仲間と懇親を深めていっ

 たものでした。

  次に、私の在籍した計画局○○課では、楽しい雰囲気の延長として、学生時代

 に山岳部やワンゲル部の経験を有する健脚者が中心となって、気力、体力に自

 信のあった課長に会長をお願いして、山岳同好会を発足させました。家族中心

 のこの会は、多くの子供達が積極的に参加するところとなり、時には、朝早く

 からの登山もものともせず頑張った、子供達の行動力には驚かされたものでし

 た。昼食には山男が作る自慢の料理を味わうなど、いろいろと実りの多い同好

 会でした。そして、たくさんの、健やかな思い出と残してくれました。

  本社ビル(内幸町ビル)が近いうちに取り壊されることを知りました。

 当初、本社勤務を開始したとき、電電本社ビルが独特の設計で、今まで見てき

 た他のビルと異なり、何か変わった雰囲気を有する面白いビルだな、と思った

 こともありましたが、本社ビルとして、仕事のしやすさ、居心地の良さの両面

 で、何の違和感もなく楽しく過ごさせていただきました。

   長期間、頑張ってくれた旧ビルには頭が下がります。設計者、メンテの方々

 お世話になり有り難うございました。一社員としてお礼を申します。

  そして今一つ、電電本社ビルの生活圏に重なり合って、何かとお世話になっ

 た周辺のガード下の食堂街、勧銀、有楽町、新橋駅近辺の飲み屋にも感謝する

 次第です。

  この高層化時代にあって、再開発計画で、内幸町がどのよう変貌を遂げるの

 か、興味の尽きないところです。

 

 

 

 

         電電本社日比谷ビル雑感

                                友野

 1. 日比谷ビルにはNTT時代に5回、NTTコムの時代に1回お世話になった。コ

 ムは2010年頃の事なので退職してから30年近くが経過していた。ビルそのもの

 は変わらぬ姿であったが職場環境は大きく変わっていた。NTTの頃もビルへの

 出入りは厳しかったが30年後には輪を掛けて厳しくなっており、事務室にも食

 堂にも鍵がなければ入れず当初は戸惑いの連続だった。

  更に大きな変化は派遣社員の大幅な増である。職場により差があったようだ

 が、携わった職場では派遣社員の占める割合が90%を超え、大所帯(70人ほど)

 を切り盛りしていくのに極く少数の管理者・役職の苦労が大きいのを実感した。

  社員以外と言えばアルバイトと呼ばれる人しかいなかった昔日と派遣社員に

 実務のほとんどを担ってもらわざるを得ない現実とでは仕事のさせ方に工夫が

 いる。そんな職場の体質改善を頼まれた。仕事への動機付けをどうしていくか、

 暗中模索でいろいろ試みたが成果がみえない。当初の半年の約束が2年近くと

 なり、やっと幾分の光がほのかに見えるようになった。今は派遣が当たり前、

 労働者のほとんどが派遣社員という時代になっているが組織をどうするか、機

 能的に派遣者員をどう活躍させていくかの手法・理念は何もできていないので

 はないかと思う。新しい時代の企業文化が再開発された内幸町から生まれ出て

 くることを祈る。

 

 2.日比谷ビルは昭和36年竣工と聞く。建築学会賞に輝き各階にベランダを配

 した斬新なビルでここで働くのは凄いことだなあと感じていた。1階はコア部

 分の周りをぐるりと空きのスペースで取り囲み、その外側を太い柱でがっしり

 とビル全体を支える格好の良さは素晴らしかった。しかし住んでみると空きス

 ペースの天井、つまり2階では床が下を吹き抜ける寒風で冷やされ、冬場は住

 み心地良いものではなかった。

  建築では意匠と言うのは大変重要なことのようだが住み心地というのも大切

 ではないかと思う。

 

 3.日比谷ビルと霞が関ビルを含めた一角は電気通信設備から見たら伏魔殿の

 ようなところだ。再開発となれば当然古い設備を仮設の場所に移して再度新し

 いところに移す、移装の連続となる。これから数年かかけて工事を行うことに

 なるだろうが、相当の難工事が想定される。工事の無事完工をお祈りする。

 

                                以上

 

             

 

 

 

2022.07.24米田書き込み

 

 

次回更新は8月9日の予定です。

 

 

 

 

 

 

 


募集!「電電本社内幸町ビルの思い出」

2022年07月09日 | お話サロン

    募集!「電電本社内幸町ビルの思い出」

 

  前回(6月24日)の七業の八尾さんの「電電本社内幸町ビル&ガード下見

 聞録」をご覧になって如何でしたか?

  あの電電本社内幸町ビルに纏わる思い出をお持ち方が多いのではないでし

 うか。

 

  私があのビルに初めて入ったのは1963年(昭和38年)です。東京通信

 局保全部市内機械課でやっていたA形自動交換機のスイッチの寿命試験の中間

 データを提出する使い走りでした。行き先は6階の技術局。

  事務室に入ったとたん思ったことは「随分明るい事務室だなぁー」でした。

 眩しい位に明るい事務室でした。窓の大きな事務室の造りとビルの完成が19

 61年(昭和36年)ですから未だピカピカの新品の事務室だったのとが相俟

 っての印象だったのでしょう。

  「うわー!こんな明るくて綺麗な事務室で仕事が出来たらいいなぁー」でし

 た。

 

  その次ぎに内幸町ビルに入ったのは1964年(昭和39年)の施設局機械

 課への転勤でした。当時この課には七技の面々がたくさん居ました。

  私の席に近い順から列挙しますと、隣に木全さん、背中に六代さん、少し離

 れて上野さん、今田さん、飯島さんでした。

  小さいとは言えない課でしたが、同期が6人ともなると一大勢力です。毎日

 がまるで同窓会をやっている様な雰囲気でした。

 

  自分の思い出は、横に置いて、皆さんにお願いです。思い出を書いていただ

 けませんか?

  次回(7月24日)を、特集「電電本社内幸町ビルの思い出」にしようと思

 います。是非!書いて下さい。

  喜びに胸を膨らませて乗り込んだ話、或いはほろ苦い話、それぞれに胸にし

 まい込んでいた話がお有りだと思います。この際です。ご披露下さい。

  なお、「内幸町ビル」ではしっくりこない!俺にとっては「日比谷ビル」だ

 とおっしゃる方は「日比谷ビル」で書いて下さい。

 

  書いて下さる方は、7月20日頃までに米田宛にお送り下さい。よろしくお

 願いします。

                             以上 

 

  

 

 

 

 

 

2022.07.09米田書き込み

 

 

 

次回更新は7月24日の予定です。

 


電電本社内幸町ビル&ガード下見聞録

2022年06月24日 | お話サロン

      電電本社内幸町ビル&ガード下見聞録

 

  皆さんこのビルを憶えて居ますか?

     

 そうです。電電公社時代の本社ビル、通称「電電本社内幸町ビル」です。

 (電電本社日比谷ビルとも言いましたが、本稿では電電本社内幸町ビルを使いました。)

 

  先日、第七回高等部業務科の八尾さんが、はるばる広島から旧電電本社内幸

 町ビルをるために上京なさったと聞いたので、早速「七技会のひろば」へ掲

 載する見聞録の執筆をお願いしたところ、快く引き受けて下さり、数日後以下

 の長文の原稿を写真付きで送って下さったので、早速掲載致しました。

 

  本文に書いてありますとおり、9月にはビルの姿はなくなる様です。見るな

 ら今の内です。

  コロナ禍も少しは落ち着いて来たので、七技の皆さん誘い合わせて旧跡巡り

 の趣向は如何でしょうか?!

 

 

         電電本社内幸町ビルガード下見聞録

                          七業会 八尾

  首都圏のコロナ禍も落ち着きつつあるようなので、過日横浜に住む曾孫との

 初対面に二泊三日の駆け足で出掛けてみた。

  最終日、かねてからもう一度訪ねてみたいと思っていた思い出深い有楽町か

 ら新橋までのガード下の見分に出掛けた。序に「内幸町再開発計画」のある

 「電電本社内幸町ビル」のその後も見たい、と帝国ホテルのロビーから日比谷

 通りに出て、元の電電本社内幸町ビルの前に立ってみた。

 

  昭和40年から62年まで勤務したあの電電本社内幸町ビルは存在していた

 が、フエンスや花のない大きなフラワーポッドが人の出入りを拒んでいるよう

 だつた。

 

    

 

  内幸町ビル前の歩道には人通りもなく、かって積滞解消・全国即時化の実現

 に取り組んだ兵どもが出入りした玄関前には、落葉が堆積し舗道脇には雑草が

 伸びていた。

  NTT発足後は玄関右に大きなダイナミックループのあった辺りには一枚の

 看板もなく工事の告知ビラが貼ってあるだけであった。それによると解体工事

 を2月から8月まで行うこと、その間の4月から7月にかけて石綿除去工事を

 行うこと等が記載されていた。

  「もう俺達の時代は終わったんだ」と痛感した瞬間だった。

 

  そんな思いを共有するような人に出会った。

  ヤマトビル(旧鹿鳴館址)の広場の前で、絵を描いている人がいたので、声

 をかけてみたら「イヤーこのビル(ヤマトビル)が解体されるという話を聞い

 たので思い出に思って描いているのですよ。実はこのビルは私が設計したの

 で、特別思い入が深いのですよ」との話が返って来た。

  聞けば、その方は大手ゼネコンのK社在籍、今年80才の戦後復興期を駆

 け抜けた同世代ということで当時の話題に花が咲いた。

 

    

 

  その後勧銀(現みずほ銀行)側の通路を通ってガード下に向かった。

  途中勧銀側出入口の二階に電気が点いていたが、丁度私の課長補佐時代の席

 があった辺りで、よく泊まり込んだ当時の思い出がよみがえった。

 

     

 

  内幸町ビル裏側から道路へ出て帝国ホテル方面へ曲がると、直ぐ右側には満

 席でも予約席へ案内してくれて常に定額の焼き鳥屋と大統領いう麻雀屋があっ

 たのだが、今は洒落た多国籍料理の店になっていた。

 

  また日比谷ビルの裏から真っすぐガード下へ行くと、昔はなかった階段があ

 り直ぐ右側にはいかにもイギリスという雰囲気のパプがあった。ガード下の通

 路を左(有楽町方面)へ曲がり数軒行くと、その昔はロロという中華料理の店

 があったのだが、今は天ぷら屋になっていた。

 

     

 

  その昔のガード下は少し薄暗くて猥雑ではあったが、我々サラリーマンがい

 つでも気楽に立ち寄ることができたし、メニユーにない料理を頼んでもアイヨ

 と気楽に作ってくれる雰囲気があった。

 

     

  

   あれから50年を経過したガード下はその名も「日比谷オクロジ」と名乗り、

  照明は明るく通路や天井も明るいクリーム色に統一されてる。           

   本家には悪いが、これはロンドンのバーリントンアーケードのパクリか、と

   思ったことだ。本家と違うのは「寿司」「天ぷら」とか、ワインバーや「バル」

  が軒並み並んでいるので、インバウンド目当ての店づくりであることは間違い

  ない。

 

   50年後のガード下は、もう俺達をオヨビデナイのか!と少し僻んだことで

  ある。

 

   同期の諸兄よ、旧電電本社内幸町ビルが解体される前に一日でも早く足を運

  んで往事を思い別れを告げて欲しい。

   そしてその後、日比谷オクロジのバルでワイングラスを傾けてはどうだろう。

  首都圏在住の諸兄には、訪問後の感想を是非「七技会のひろば」で拝見したい。

 

                              以上

 

  (注)執筆者の名前をフルネームではなく姓のみに留めたのはプライバシー

     保護のためです。ご理解下さい。

 

 

 

 

 

 

 

2022.06.24八尾さんの投稿を米田が書き込み

 

 

 

次回更新は7月09日の予定です。

 


帯状疱疹にご用心

2022年06月09日 | お話サロン

          帯状疱疹にご用心

 

  七技会の皆さん!「帯状疱疹」にご用心下さい。

  老婆心ながら、アラームを発出します。

 

  「帯状疱疹=ヘルペス」についての以下は、学術的に正しいのかどうかは判

 りませんが、ともかく秘かに流行している帯状疱疹に罹らぬように最善の注意

 をお勧めします。

 

  帯状疱疹は、幼い頃に罹患した水疱瘡の残党が、体内のどこかに潜んでして、

 コロナ禍やご自分ご自身の悩み事やストレスで、残党に対して弱みを見せ

 に「帯状疱疹」として暴れ出す様です。

 

  帯状疱疹にならないためには「ワクチン」を接種するのが一番早道の様です。

 最近、掛かり付け医の待合室の壁に「帯状疱疹ワクチンのお勧め」のPRが

 しばしば掲示されています。

 

  このワクチン、コロナ感染症のワクチンと違って自費負担です。お高いです。

 2回接種して数万円から十万円弱です。でも、やっておけば暫くは安心です。

 

  一旦罹るとそれはそれは大変です。私の場合、最初の兆候が出てから今日で

 49日目、後半の半分は後遺神経痛で「喉から上の顔と頭の左半分」がちょっ

 と触ると痛い!風に吹かれると痛い!廊下を歩いて暖簾をくぐるとき暖簾に触

 れると痛い!夜寝ている時に下手に寝返りを打つと痛い!・・・痛い!何にも

 しなくても急に膨れあがった様に痛い!

 

  今は、ペインクリニックに通って治療して貰っていますが、なかなか効果が

 現れません。経験者に聞くと「或る日突然に痛みが消える」と教えてくれまし

 たが、未だ「本当ですか?」の段階です。

  ともかく、帯状疱疹に罹らぬことが一番!!!

 

  くどく重ねて言いますが、最大限のご用心をお勧めします。

 

 「一度罹った事があるから大丈夫!」は眉唾もの。

 

  どうぞどうぞ、ご注意を。

                               以上

 

 

 追伸:上記は、学術的に正しいか?どうか?の保証はありません。

 罹患経験者の老婆心です。そこのところは誤解しないで下さい。

  信ずるか、信じないか、は、あなた次第です。

 

 

 

2022.06.09米田書き込み

 

次回更新は15日の予定です。