七技会のひろば

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特集「中央学園での思い出」その2

2022年11月28日 | お話サロン

      特集「中央学園での思い出」その2



             「中央学園の思い出」
 
                                 七回技術科一組 友野さ
 1.同室4人
  高等部に受かった。よし、よし、これで2年間は住みかと飯の心配はいらなく
 なった。
  不謹慎だが合格を聞いて一番に思ったのはそれだった。入学案内に4人1部屋で
 の寮生活とあった。こりゃあ大変だ、どうやって4人仲良く過ごすかだなあ、ど
 んな奴と一緒になるのかなあ。入寮の日、部屋に入ると同室3名は既にいた。九
 州・近畿・近畿の面々。一人はすでにベットに入っていて奥からのそのそと出て
 きた。“いやぁ昨夜の送別会で少し飲みすぎてしもて・・・”と頭を掻き掻き。一
 人はどっしりしていて背が高くて眼鏡、育ちのよさそうな風体。もう一人は若そ
 うで格好よく女にもてそう。最後に参上した私を含めて4人そろっての挨拶と少し
 ばかりの話で一緒にやろうという気持ちが伝わって来た。
  こりゃ~いけそう。これが最初の出会いだった。それからは毎日毎日食堂に行
 くのも風呂に行くのも一緒。金魚のフンよろしく連れ立って行動した。
  夏には有給休暇をまとめてもらえるそうだ。どうしよう、バラバラでは勿体な
 い。修学旅行で北海道に行くと聞くが、団体旅行では面白くない。相談の結果
 「あこがれの北海道だ4人で行こう”となった。結果的にこの旅行が4人の絆を
 強くしたのか卒業後にも奥さんを含めて8人で何回か旅行した。京都、滋賀、神
 戸、大阪。果ては九州まで。この卒業後の旅行会は印象に残るものが多くある。
 順番で旅行の幹事をやり個性的な旅行プランで8人和気あいあいの楽しい旅行を
 した。
  勿論失敗談は盛り沢山だが、おぼろげな記憶による会話の一端を披露すると
  ア “あの3人は黄色いサクランボ?いいなあ。”誰かが“黄色かなあ、もうお手
   つきかもよ”
  イ あのいかした女、さっき“フ~ンファファ(パパァか?)”といって男の腕
   にしがみついていたぞ。二人の関係は何だろう。と4人で議論。
  ウ 卒業後の旅行で。固有名詞が出てこなくなりそれぞれが“アレ”“コレ”を連
   発。何かをしてやろうと気はつくが腰が重くてすぐに立てない。久しぶりに
   会っても互いに若いころの記憶しかないからそれぞれが歯がゆい。
   4人一緒に“年取ったなあ。”
   
 
 2.山歩き
  まとまった有給を利用して1年目は北海道旅行を楽しんだが、2年目はH、N
 と3人で白馬から槍までの山行きを計画した。
  テントが小屋泊まりより安かろうと神保町まで出かけ大枚をはたいてテントを
 買った。梁のない3角テントだ。体力と経済力に相談しながら長期の山歩きに耐
 える食料と装備を用意し”さあ出発”。ザックに腕を通すとズシリと重い。肩に食
 い込む。新宿にやっとたどり着いて手を見たら己が手とは思えないくらい膨らん
 でいる。“これから先大丈夫かしら。”
  山行きの詳細は別稿のリーダーH氏に任すとして、記憶を呼び戻しながら体験
 を2or3。
  白馬から槍への縦走だ。小屋泊まりであちこちの尾根歩きは経験したがテント
 をかついでの山行きは初めて。初っ端のキャンプ地天狗で雨に見舞われた。それ
 も長々と4日間、耐えて耐えての4日間。ラジオから流れる天気予報を4日間。
  後で思えばこれでスタミナの多くを失った。難関の大キレットでは危うく谷底
 真っ逆さま転落の危機を体験した。今思い出してもゾットする。これを救ったの
 は中央大学山岳部でいじめられながら伝授を受けたキスリングの収納と三点確保
 による歩行だ。もともとキスリングは横長だから意識して縦長に荷物を収納しな
 いとキレットのように狭隘な隙間を横ばいで通過するには不向きなリュックだ。
  岩角にリュックが触るたびにあの時のいじめを思い出した。谷底から吹き上げ
 る涼風が心地よい。爺岳を過ぎると低地になる。灼熱の中を黙々と槍へ向かっ
 た。のどが渇く、猛烈に乾く。右下には満々と水をたたえた黒部湖。あっ池があ
 った、種池だ。先を行く山岳パトロールが水を飲んでいるようだ。早く行って水
 を飲もう。着いたら水は茶色くおまけにボウフラが沢山泳いでいる。さすがにこ
 れは飲めなかった。行程は半ばだが相当バテてきた。針の木のキャンプ地に到着
 するのが遅くなって雪渓から溶け出す水を充分に取れない。槍を見ると遠い、
 それに連なる稜線が壁のように立ちはだかり迫って見える。なんで線が面に見え
 るんだ。リーダーは下山を決断し針の木で降りることとなった。
  まだ半分ほど残っている荷がことさら重い。下山では3人が黙々と歩く、夫々
 が夫々の思いを抱きながらもくもくと歩く。3人は無事下山し、いまでも生きて
 いる。リーダーよありがとう。
 
                  
     黒部側から湧き上がる雲。鹿島槍から五竜岳、遠く白馬を望む。
              平成4年頃の作画。

 3.卒業後
  いろいろな話を聞くと我々7回生は一番のびのびとした学園生活を送らせてい
 ただいたようだ。学園という環境に恵まれ、先生に恵まれ、部外の講師に恵まれ、
 お陰様で充実した青春を送ることができたと思っている。特に感じているのは部
 外講師だ。
  たまたま事情で学園の二年間は中央大学2部(法学部)の学生でもあった。教
 わっている身で講師の品定めをするなんてとんでもないことだが法律関係の講師
 をくらべても部外講師の素晴らしさを思う。授業内容が充実している、真剣に教
 えてくれる、試験が厳しい等々大学に行っても体験できないレベルの教育を我々
 は受けさせていただいた。感謝です。
  企業内訓練だから卒業生が企業運営に寄与するのは当然だが当時は「公社」で
 あり独占的に事業をしていたので広い視野での活躍も期待されていた。7回生は
 社外で活躍してきた人数が他の回に比べ多い。これは誇るべき事だと思う。

                                  以上



        アルプスとの出会い

                       第七回技術科二組 波多野さ
  中央学園高等部在学中、夏季休暇やGWはほとんどどこかの山に登っていた。

        
  リーダーは多くの場合、第七回業務部生の八尾さん(写真右端)である。八尾
 さんは大学山岳部にいたことのある本格的山男で、彼から技術・業務の専門分野
 の垣根を越えていろいろと山のことを学んだ。私はもともと山が好きだったが、
 それまでは丹沢や鈴鹿といった低山ばかりだった。八尾さんを通して初めてアル
 プス級高山の魅力を知り、だんだん山へのめり込んでいった。
  その他八尾さんには晩年になり、逓信同窓会の大河内賞を推薦いただくなど、
 山以外でもひとかたならぬお世話になっている。
  写真は中央学園山岳部で北アルプスを縦走したときのもので、中央は同窓の友
 野さん、その左はこれも同窓の今は亡き相原さんである。相原さんとは五十年後、
 南米コロンビアで一緒に仕事をするなど、最後まで長い付き合いが続いた。彼も
 若き日の山仲間の一人である。
  人は何故山に登るのだろうか? 私の場合、理由などない。ただ体が山の匂い
 を求めているだけだ。山が高ければ高い程、厳しい尾根縦走が続けば続くほど山
 はその匂いをますます濃くする。大学山岳部のような本格的登山経験のなかった
 私にとって、高等部時代の山は生き甲斐そのものであった。
                                 以上




        中央学園での思い出

                      第七回技術科一組 中本さん
 私は近く卒寿を迎えますが、消え去ろうとしている中央学園での思い出です。
 学園での数学の授業は、某大学の教授が講義されたのですが、私には授業時間が
 居眠りの時間となり、ついにはサボリの時間になりました。数学の試験は当然の
 結果でしたね。
 卒業後10年ほどして、中央学園の大学部へ勤務することになり、学園に出頭し
 ましたが驚いたのは、お前は数学の授業が担当と指示された事でした。
 高等部の数学の授業をサボった罰なのかと後悔しましたが、仕方がありません。
 自分なりに努力し勉強し何とかなりました。
 情けない思い出ではありますが、今となっては懐かしい出来事で、感謝していま
 す。
                                  以上
 注:中本さんはハガキで投稿してくださいました。

 

  世の中には猛者が居るものです。原稿料を払わないで投稿を呼び掛ける奴もそ
 の一人ですが、その上が居ました。
  去る日の朝、朝食を済ませた直後に珍しく固定電話が鳴りました。発信者の番
 号を見ると「0268・・・」誰だろう? 東北の? 東北の知り合いって?
 頭の中で模索しつつ、受話器を取って「ハイ!もしもし、どなた?」お相手が名
 乗るも東北の?思い出せません。
  何度か問い返していると業を煮やしたか「息子さんですか?」「いいえ、うち
 には同居する息子はいませんよ」
  そうこうするうちに、漸く栃木の近藤(繁)さんと分かりました。
  「俺さー、パソコンもプリンターも使ってないからさ!これから中央学園での
 思い出を言うからメモしてくれよ」
  確かに投稿を呼び掛けるお願いには、どんな手段でもいいから、と書きました
 が電話で来るとは想定していませんでした。
  「手書きでいいからハガキを送ってくれよ」と言いましたが、とにかくメモし
 てくれの一点張り。
  そのうち、こちらの言うことに目もくれず、お喋りが続きました。
  メモはしなかったが、大凡こんな事だったと思い出しながら、以下のようなお
 喋り投稿でした。



              中央学園での思い出

                     第七回技術科二組 近藤(繁)さん
 私は、中央学園の2年間、空手部に入り、空手をやっていた。空手部には、ばん
 ちゃんこと坂下さんや佐藤さんが一緒でした。
 その坂下さんと佐藤さんとが、卒業後間もなく相次いでお亡くなりになりました。
 そしたら「空手の三人組だったから次はお前の番だ!」とよく言われました。
 その私が、87歳になれたのも、そう言われ続けたおかげかな?と思って居ます。
 ・・・・・・・・・。
 そんな私だが、仕事は一生懸命やったよ。管内1・2番と言われたローコンキョ
 クのカンリショクも務め上げたカンネ!。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 (この後、いろいろの話が約十分間続いたが、内容は忘れました。だから・・・
 ・・・・・・です。)
                                  以上

 

 
    この先は「中央学園での思い出」その3に続きます。
           そちらもご覧下さい。
    また、その3には、松戸さん、三上さん、松原さん、
               そして、米田を掲載しています。



     
    
2022.11.24  米田書き込み





次回更新は、12月9日の予定です。














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