電電本社内幸町ビル&ガード下見聞録
皆さんこのビルを憶えて居ますか?
そうです。電電公社時代の本社ビル、通称「電電本社内幸町ビル」です。
(電電本社日比谷ビルとも言いましたが、本稿では電電本社内幸町ビルを使いました。)
先日、第七回高等部業務科の八尾さんが、はるばる広島から旧電電本社内幸
町ビルを見るために上京なさったと聞いたので、早速「七技会のひろば」へ掲
載する見聞録の執筆をお願いしたところ、快く引き受けて下さり、数日後以下
の長文の原稿を写真付きで送って下さったので、早速掲載致しました。
本文に書いてありますとおり、9月にはビルの姿はなくなる様です。見るな
ら今の内です。
コロナ禍も少しは落ち着いて来たので、七技の皆さん誘い合わせて旧跡巡り
の趣向は如何でしょうか?!
電電本社内幸町ビルガード下見聞録
七業会 八尾
首都圏のコロナ禍も落ち着きつつあるようなので、過日横浜に住む曾孫との
初対面に二泊三日の駆け足で出掛けてみた。
最終日、かねてからもう一度訪ねてみたいと思っていた思い出深い有楽町か
ら新橋までのガード下の見分に出掛けた。序に「内幸町再開発計画」のある
「電電本社内幸町ビル」のその後も見たい、と帝国ホテルのロビーから日比谷
通りに出て、元の電電本社内幸町ビルの前に立ってみた。
昭和40年から62年まで勤務したあの電電本社内幸町ビルは存在していた
が、フエンスや花のない大きなフラワーポッドが人の出入りを拒んでいるよう
だつた。
内幸町ビル前の歩道には人通りもなく、かって積滞解消・全国即時化の実現
に取り組んだ兵どもが出入りした玄関前には、落葉が堆積し舗道脇には雑草が
伸びていた。
NTT発足後は玄関右に大きなダイナミックループのあった辺りには一枚の
看板もなく工事の告知ビラが貼ってあるだけであった。それによると解体工事
を2月から8月まで行うこと、その間の4月から7月にかけて石綿除去工事を
行うこと等が記載されていた。
「もう俺達の時代は終わったんだ」と痛感した瞬間だった。
そんな思いを共有するような人に出会った。
ヤマトビル(旧鹿鳴館址)の広場の前で、絵を描いている人がいたので、声
をかけてみたら「イヤーこのビル(ヤマトビル)が解体されるという話を聞い
たので思い出にと思って描いているのですよ。実はこのビルは私が設計したの
で、特別思い入れが深いのですよ」との話が返って来た。
聞けば、その方は大手ゼネコンのK社に在籍、今年80才の戦後復興期を駆
け抜けた同世代ということで当時の話題に花が咲いた。
その後勧銀(現みずほ銀行)側の通路を通ってガード下に向かった。
途中勧銀側出入口の二階に電気が点いていたが、丁度私の課長補佐時代の席
があった辺りで、よく泊まり込んだ当時の思い出がよみがえった。
内幸町ビル裏側から道路へ出て帝国ホテル方面へ曲がると、直ぐ右側には満
席でも予約席へ案内してくれて常に定額の焼き鳥屋と大統領いう麻雀屋があっ
たのだが、今は洒落た多国籍料理の店になっていた。
また日比谷ビルの裏から真っすぐガード下へ行くと、昔はなかった階段があ
り直ぐ右側にはいかにもイギリスという雰囲気のパプがあった。ガード下の通
路を左(有楽町方面)へ曲がり数軒行くと、その昔はロロという中華料理の店
があったのだが、今は天ぷら屋になっていた。
その昔のガード下は少し薄暗くて猥雑ではあったが、我々サラリーマンがい
つでも気楽に立ち寄ることができたし、メニユーにない料理を頼んでもアイヨ
と気楽に作ってくれる雰囲気があった。
あれから50年を経過したガード下はその名も「日比谷オクロジ」と名乗り、
照明は明るく通路や天井も明るいクリーム色に統一されてる。
本家には悪いが、これはロンドンのバーリントンアーケードのパクリか、と
思ったことだ。本家と違うのは「寿司」「天ぷら」とか、ワインバーや「バル」
が軒並み並んでいるので、インバウンド目当ての店づくりであることは間違い
ない。
50年後のガード下は、もう俺達をオヨビデナイのか!と少し僻んだことで
ある。
同期の諸兄よ、旧電電本社内幸町ビルが解体される前に一日でも早く足を運
んで往事を思い別れを告げて欲しい。
そしてその後、日比谷オクロジのバルでワイングラスを傾けてはどうだろう。
首都圏在住の諸兄には、訪問後の感想を是非「七技会のひろば」で拝見したい。
以上
(注)執筆者の名前をフルネームではなく姓のみに留めたのはプライバシー
保護のためです。ご理解下さい。
2022.06.24八尾さんの投稿を米田が書き込み
次回更新は7月09日の予定です。