七技会のひろば

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特集「電電本社内幸町ビルの思い出」

2022年07月24日 | お話サロン

      特集「電電本社内幸町ビルの思い出」

 

  前回(7月9日)、八尾さんの内幸町ビル見聞録を掲載したのを機会に、同

 ビルの思い出を募集しました。

  これに対して、吉田さん、松戸さん、友野さん(最終原稿到着順)から投稿

 いただきました。ありがとうございます。

  では、早速掲載します。どうぞ、ゆっくりお読み下さい。

 

  

 

 

       電電本社内幸町ビルの思い出

                               吉田

  「七技会のひろば」いつも情報ありがとうございます。毎回楽しく読ませて

 いただいています。

  また 今回は、八尾さんの「内幸町ビル見聞録」を読ませていただき、往時

 の出来事が昨日のことのように思い出されてきました。

  八尾さんありがとうございました。

 

  私は、東海から3回本社勤務を経験しました。

  施設局・保全局・建設局で、通算12年になりました。 

  有楽町からあのガード寄りを歩いて出勤、帰りは新橋に流れることもありま

 した。ただ、当時は残業続きで、飲ミニュケーションもなかなか取りにくく、

 月何回かの「農協」の日が楽しみでした。

  東海から誰かが本社に出張に来た時は、「今日は、東海農協ですので、お先

 に」とおおいばりで、定時に退社し、ガード下や新橋で 東海の仲間と杯を傾

 けました。楽しい思い出です。

  昼休みは、もっぱら日比谷公園がホームグランドで、音楽隊もよく演奏して

 いましたね。

  また、旧帝国ホテルは、愛知県明治村に移設されましたので何回か見に行き

 ました。

  そのほか書ききれないほどのいろいろの出来事・思い出が、そして先輩や同

 輩の方たちの一人一人のお顔が脳裏をよぎります。

  中央学園並びに内幸町時代には、公私ともに多くのことを学んだと、いま

 八十路半ばでつくづくと感じている所です。

  今回は、それを思い出すきっかけを作っていただいた八尾さん、本当にあり

 がとうございました。

  いつまでも お元気で お幸せをお祈りしています。

 

 

 

 

       電電本社内幸町ビルの立地条件

                                松戸

  小学生の頃から走ることの好きだった私が、電電入社後も近隣の学校の校庭

 や周辺道路を利用してランニングを楽しんでいましたが、走ることに適さない

 道路事情もあったりして、その殆どが満足できる状況にはありませんでした。

  入社後、初めて本社勤務の辞令をいただき、電電本社内幸町ビルの本社勤務

 を経験することになった私が、そこで目にしたのは昼時など、スポーティな姿

 の社員が本社ビルを飛び出し、日比谷公園を駆け抜け、皇居に向かっている姿

 でした。皇居外苑でランニングを楽しんでおられる本社勤務社員の行動である

 ことが分かりました。先輩方のこの行動はすぐにでも、自分に結びつくものと

 直感しました。

  走ってみると、皇居を周回する道路は、距離が約5Kmのアップダウンはある

 ものの、安全かつ風景にも恵まれた、最高のジョギング環境にあることを知り

 ました。やがて、皇居周回コースは休日などには団体、個人を問わず、多くの

 ランナーが押しかけることになり、まさに健康ブームの到来を予感させるもの

 でした。

  その頃になると、多くの企業で、社員の福祉、健康の増進を狙って、皇居周

 回の駅伝競走が花盛りとなり、多くの社員が参加するなど大いに盛り上りを見

 せていました。 電電もその動きに同調したのかどうかは分かりませんが、本社

 内での皇居周回の駅伝大会が行われ、多くのチームが参加し、健脚を競ったも

 のでした。チームは5人構成で、三周(15Km)でした。参加するたのしみは

 云うまでもなく、駅伝参加などで知り合った多くの競争仲間と懇親を深めていっ

 たものでした。

  次に、私の在籍した計画局○○課では、楽しい雰囲気の延長として、学生時代

 に山岳部やワンゲル部の経験を有する健脚者が中心となって、気力、体力に自

 信のあった課長に会長をお願いして、山岳同好会を発足させました。家族中心

 のこの会は、多くの子供達が積極的に参加するところとなり、時には、朝早く

 からの登山もものともせず頑張った、子供達の行動力には驚かされたものでし

 た。昼食には山男が作る自慢の料理を味わうなど、いろいろと実りの多い同好

 会でした。そして、たくさんの、健やかな思い出と残してくれました。

  本社ビル(内幸町ビル)が近いうちに取り壊されることを知りました。

 当初、本社勤務を開始したとき、電電本社ビルが独特の設計で、今まで見てき

 た他のビルと異なり、何か変わった雰囲気を有する面白いビルだな、と思った

 こともありましたが、本社ビルとして、仕事のしやすさ、居心地の良さの両面

 で、何の違和感もなく楽しく過ごさせていただきました。

   長期間、頑張ってくれた旧ビルには頭が下がります。設計者、メンテの方々

 お世話になり有り難うございました。一社員としてお礼を申します。

  そして今一つ、電電本社ビルの生活圏に重なり合って、何かとお世話になっ

 た周辺のガード下の食堂街、勧銀、有楽町、新橋駅近辺の飲み屋にも感謝する

 次第です。

  この高層化時代にあって、再開発計画で、内幸町がどのよう変貌を遂げるの

 か、興味の尽きないところです。

 

 

 

 

         電電本社日比谷ビル雑感

                                友野

 1. 日比谷ビルにはNTT時代に5回、NTTコムの時代に1回お世話になった。コ

 ムは2010年頃の事なので退職してから30年近くが経過していた。ビルそのもの

 は変わらぬ姿であったが職場環境は大きく変わっていた。NTTの頃もビルへの

 出入りは厳しかったが30年後には輪を掛けて厳しくなっており、事務室にも食

 堂にも鍵がなければ入れず当初は戸惑いの連続だった。

  更に大きな変化は派遣社員の大幅な増である。職場により差があったようだ

 が、携わった職場では派遣社員の占める割合が90%を超え、大所帯(70人ほど)

 を切り盛りしていくのに極く少数の管理者・役職の苦労が大きいのを実感した。

  社員以外と言えばアルバイトと呼ばれる人しかいなかった昔日と派遣社員に

 実務のほとんどを担ってもらわざるを得ない現実とでは仕事のさせ方に工夫が

 いる。そんな職場の体質改善を頼まれた。仕事への動機付けをどうしていくか、

 暗中模索でいろいろ試みたが成果がみえない。当初の半年の約束が2年近くと

 なり、やっと幾分の光がほのかに見えるようになった。今は派遣が当たり前、

 労働者のほとんどが派遣社員という時代になっているが組織をどうするか、機

 能的に派遣者員をどう活躍させていくかの手法・理念は何もできていないので

 はないかと思う。新しい時代の企業文化が再開発された内幸町から生まれ出て

 くることを祈る。

 

 2.日比谷ビルは昭和36年竣工と聞く。建築学会賞に輝き各階にベランダを配

 した斬新なビルでここで働くのは凄いことだなあと感じていた。1階はコア部

 分の周りをぐるりと空きのスペースで取り囲み、その外側を太い柱でがっしり

 とビル全体を支える格好の良さは素晴らしかった。しかし住んでみると空きス

 ペースの天井、つまり2階では床が下を吹き抜ける寒風で冷やされ、冬場は住

 み心地良いものではなかった。

  建築では意匠と言うのは大変重要なことのようだが住み心地というのも大切

 ではないかと思う。

 

 3.日比谷ビルと霞が関ビルを含めた一角は電気通信設備から見たら伏魔殿の

 ようなところだ。再開発となれば当然古い設備を仮設の場所に移して再度新し

 いところに移す、移装の連続となる。これから数年かかけて工事を行うことに

 なるだろうが、相当の難工事が想定される。工事の無事完工をお祈りする。

 

                                以上

 

             

 

 

 

2022.07.24米田書き込み

 

 

次回更新は8月9日の予定です。

 

 

 

 

 

 

 


募集!「電電本社内幸町ビルの思い出」

2022年07月09日 | お話サロン

    募集!「電電本社内幸町ビルの思い出」

 

  前回(6月24日)の七業の八尾さんの「電電本社内幸町ビル&ガード下見

 聞録」をご覧になって如何でしたか?

  あの電電本社内幸町ビルに纏わる思い出をお持ち方が多いのではないでし

 うか。

 

  私があのビルに初めて入ったのは1963年(昭和38年)です。東京通信

 局保全部市内機械課でやっていたA形自動交換機のスイッチの寿命試験の中間

 データを提出する使い走りでした。行き先は6階の技術局。

  事務室に入ったとたん思ったことは「随分明るい事務室だなぁー」でした。

 眩しい位に明るい事務室でした。窓の大きな事務室の造りとビルの完成が19

 61年(昭和36年)ですから未だピカピカの新品の事務室だったのとが相俟

 っての印象だったのでしょう。

  「うわー!こんな明るくて綺麗な事務室で仕事が出来たらいいなぁー」でし

 た。

 

  その次ぎに内幸町ビルに入ったのは1964年(昭和39年)の施設局機械

 課への転勤でした。当時この課には七技の面々がたくさん居ました。

  私の席に近い順から列挙しますと、隣に木全さん、背中に六代さん、少し離

 れて上野さん、今田さん、飯島さんでした。

  小さいとは言えない課でしたが、同期が6人ともなると一大勢力です。毎日

 がまるで同窓会をやっている様な雰囲気でした。

 

  自分の思い出は、横に置いて、皆さんにお願いです。思い出を書いていただ

 けませんか?

  次回(7月24日)を、特集「電電本社内幸町ビルの思い出」にしようと思

 います。是非!書いて下さい。

  喜びに胸を膨らませて乗り込んだ話、或いはほろ苦い話、それぞれに胸にし

 まい込んでいた話がお有りだと思います。この際です。ご披露下さい。

  なお、「内幸町ビル」ではしっくりこない!俺にとっては「日比谷ビル」だ

 とおっしゃる方は「日比谷ビル」で書いて下さい。

 

  書いて下さる方は、7月20日頃までに米田宛にお送り下さい。よろしくお

 願いします。

                             以上 

 

  

 

 

 

 

 

2022.07.09米田書き込み

 

 

 

次回更新は7月24日の予定です。