七技会のひろば

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更新:毎月9日と24日が努力目標

相原さんを悼む

2015年01月24日 | お話サロン
   先に亡くなられた相原さんへの追悼文を波多野さんと七業の八尾さんからいただきました。
   謹んで掲載致します。


       相原不二雄君を悼む

                                      波多野 謙一

 わたしは1963年、10年近く在職したNTTを辞め、海外電気通信コンサルタ
ント会社NTCへ入社しました。その翌年、初めての外国メキシコへ出張しま
したが、そのとき羽田空港まで見送りにきてくれた友人の一人が相原君で、彼
も間もなく同じNTCへ入社し、以来30年以上公私にわたる付き合いが始まり
ます。
 NTC時代、相原君には、わたしが仕事で苦しいときいろいろ助けてもらい
ました。なかでも忘れられないのは1969年、NTCに労働組合が結成され、わ
たしが初代組合委員長に選ばれたときのことです。
 当時NTCの社長は、元郵政官僚(故人)でしたが、その労務政策に反発し
た組合が無期限ストを打つなどして、闘争が泥沼化しつつありました。
 どんな組織でもそうですが、トップというのはみな孤独です。無期限ストを
最終的にどう収束するのか、いきりたつ組合執行部との相談も難しく、わたし
も悩みました。そんなときただ一人頼りになったのが相原君です。とかく突っ
走りがちなわたしに対して、あくまでも冷静なレアリストである彼は、深夜に
いたるまで真剣に争議の落としどころを考えてくれ、結局それが決め手になり
長い労働争議が解決しました。

 当時、相原君と前後してNTCへ入社した黒野さんとともにわたしたちは
「NTC三羽カラス」と社内で噂されていました。
 専門分野が相原君とわたしはそれぞれ線路、無線と違っていたので、直接仕
事で一緒になることはほとんどありませんでしたが、二人とも根が酒好きなの
で、仕事が終わると毎晩のように渋谷の街で飲み、会社経営や人事について口
角泡を飛ばしたものです。

 晩年になって経営人事のしがらみで、わたしが東南アジア支配人なる肩書で
インドネシアへ赴任する羽目になったとき、彼の地に詳しい相原君はわたしの
処遇を心配して、現地業務についていろいろと具体的なアドバイスをしてくれ、
これが後にたいへん役立ちました。

 労働争議のときもそうでしたが、彼には生来、優秀な参謀“官兵衛”としての
才能があったのだと思います。
 その後わたしはNTCを辞めパンテルへ、相原君はI商事へそれぞれ入社し、
まもなく私の赴任先、南米コロンビアで再会します。
 ちょうどその時期、友野夫妻とわたしの家内がコロンビア訪問中で、相原君
とともに楽しんだ、首都ボゴタのダイアモンドを散りばめたような夜景を見な
がらのひと時は、末永く忘れられないでしょう。

 若いころからテニスや、岩登りが得意なスポーツマンだった相原君が、わた
しより早く逝くとは思いもよりませんでした。
 今は好漢の冥福を祈るばかりです。合掌。
                           以上


           コロンビヤ人の仲間と共に

   
        (一番左端が相原さん、右から4人目が筆者)





       山の仲間「相原君の思い出」

                                  七業 八尾 康司

 相原君の訃報を「七技会のひろば」で知った。
 彼の人となりは「七技のひろば」で既に記されているのでここではふれない。
 彼との思い出を述べたい。

1 「帰るか」「帰ろう」
 彼は福岡でのモールス通信士を振り出しに電信施設所から中央学園に入学、
福岡でも山に登っていたということで、同じモールス通信士出身の私とは山登
りの考え方についても共通する価値観があった。
 昭和36年の4月に南アルプスの赤石岳(3,210m)から荒川岳の縦走に二人で出
掛けた。初日に赤石岳稜線の岩陰に幕営したが、その夜から物凄い風と雪まじ
りの雨に三日間叩かれた。四日目の明け方風は止み朝焼けの富士はそれそれは
絶景だったが山は一面の雪景色、寝袋もバリバリに凍結している。
 私は「帰るか」と相原君に言ったら、彼は即座に「帰ろう」と言った。
 私達二人のこの会話には「命は一つしかないが山はいつでもある、また出直
そう」という価値観の一致があったからだと思う。

2 「真っ黒い顔をした人が風呂に入らせてと来ている」
 季節は定かでないが東京オリンピックの年に、中国通信局に在籍していた私
に妻から電話がかかってきた。
 「アイハラさんという真っ黒い顔をした方が来られて、風呂に入れて欲しい、
刺身が食べたい」と仰っているのですが、と結婚して二年目の妻が心配そうに
電話口で言っている。
 「山の仲間で、仕事で行っていた南米からの帰りだと思うから、風呂に入れ
て出来るだけ日本の味を食べさせてやって欲しい、今日は早く帰るから」とい
うようなやり取りがあった。
 その夜相原君と酒を酌み交わしながら、「英語もロクに喋れないのにスペイ
ン語で半年もよくもったな」と失礼なことを言ったら「人間一緒に居たら気持
ちは通じ合うものだよ」と彼が言った思い出がある。

3 「このワイン甘くないぞ」
 昭和40年の初め、相原君の結婚式がありその披露宴に七技の人達4~5人と
一緒に呼ばれた。披露宴は新宿の大きな式場で、式場の入り口には和洋の花嫁
衣装を着た新婦がズラリと並んでいた。こんなに大勢いると相手を間違えない
のかな、と皆で無責任なことを言い合ったものだ。
 披露宴の乾杯には、当時としてはまだ珍しかったワインが供された。隣にい
たY.O君が着席するなり「おいこのワインは甘くないぞ」と言った。
 確かに当時の我々としては、ワインといえば赤玉ポートワインだったから無
理もない発言だった。
 南米での生活をした相原君だから日本酒ではなくワインだったのかも知れな
いが、日本でワインが一般的になったのはそれから20年も過ぎてからだった。

4 「あの世でやり残した赤石岳に登ろう」
 その後相原君はイランとかインドネシャに赴任したし、私も日比谷を出たり
入ったりでこの結婚式で会ったのが最後だった。
 私も今ならば、相原君とワインを飲みながらアメリカやヨーロッパの話がで
きるのだが、残念だ。
 相原君 私もそのうちそちらへ行くから、その時にはまた一緒にやり残した
赤石岳に登ろう。

                            以上


              1961年9月 奥穂高にて
             右側が相原さん、左側が筆者。




               1960年早春 大菩薩峠にて
               右側が相原さん、左側が筆者

        



以下は、七技会の意思とは無関係に入って来るコマーシャルです。

田崎さん ご逝去

2015年01月09日 | 訃報
       田崎さん ご逝去

田崎さんが昨年12月14日お亡くなりになられました。78歳でした。
知らせは、奥様から電話をいただきました。
七技会としては、以下に掲載する訃報を会員全員に送付しました。
詳細については、訃報ハガキ記載以上のことは把握していません。
なお、葬儀等は身内の方々で終わっているのだそうです。
田崎さんのご冥福を心からお祈り致します。






田崎さんの「やまいのしまつ記」の中で我々に対して次の言葉を残していらっ
しゃいます。


御同輩、医者からなんらかの忠告なり診断が出たら何の症状がなくても重々心
する必要がある。ここに実例が居るのだから。大平楽な人間だったがこの度は
まいった。
「身体障害者2級」 これが一連のことの「勲章」である。


皆さん、田崎さんの残した言葉を熟読玩味して、充分に気を付けましょう。


                           以上




2015.01.09 米田書き込み





次回更新は24日の予定です。





以下は、七技会の意思とは無関係に入って来るコマーシャルです。



明けましておめでとうございます

2015年01月01日 | お話サロン
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。








なお、七技会のいろいろを投稿ください。
投稿は、コメント欄への書き込み、メール、手書きの郵便、いずれでも結構です。
楽しい「七技会のひろば」にするためにお願いします。





2015.01.01 米田書き込み





次回更新は9日の予定です。






以下は、七技会の意思とは無関係に入って来るコマーシャルです。