七技会のひろば

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更新:毎月9日と24日が努力目標

忘れ得ぬ思い出

2012年06月24日 | お話サロン
七業会の八尾さんがご寄稿くださいました。
さっそく掲載させていただきます。
八尾さん、ありがとうございました。

なお、八尾さんへの連絡は、メールアドレス「 7gikai@mail.goo.ne.jp 」にいただけば取り次ぎます。
コメントとして書き込んでいただいても結構です。
また、直接の連絡先を知りたい方は、個別にご本人のご了解を得た上で取り次ぎます。



    「忘れ得ぬ思い出」
                                    七業会 八尾

 霊峰富士を朝な夕なに仰ぐ武蔵野の一画の学び舎に寝食を共にし、同じ企業に在職しながら、七技と七業は職場でもそれ以外でもあまり出会う機会がありませんでした。

 先般、逓信同窓会会誌の同一号に「卒業五十年総会模様」が掲載されたことを契機に、七技会のブログ「七技会のひろば」・七業会ホームページ「七業会の歩み」の取り持つ縁で、今は細いものですが絆の糸が紡がれようとしています。

 私は七業の八尾ですが、「七技会のひろば」をお借りして武蔵野の学び舎での思い出を記し、絆を紡ぐ一助にしたいと思います。

 「君はそんなに色が白かったのか」
 卒業して二年目の夏、角田教官が入学試験の監督として広島に来られた時の話です。歓迎会の末席にいた私に「八尾、君はそんなに色が白かったのか、学園始まって以来二番目に汚かったのに」と言われました。
確かに高等部在学中は、山登りやスキーばかりやっていました。山での夏焼に比べて、スキー焼は顔の皮膚が剥がれてマダラになります。顔は白と黒のまだら模様で目の周りはゴーグルの跡が白く残るというメガネザルですから、二番目に汚かったと言われても当然でしょう。

 在学中に一人で登った山は別として、グループとしての山登りはなぜか全て技術科の人達で、彼らは協調性豊かな我慢強い良き人達でした。

 最初は1960年5月、六技2名・七技3名・七業1名の計6名で中央アルプス駒ケ岳に登りましたが、四日間も吹雪かれて縦走を諦め下山しました。

 二回目のグループ登山は、1960年7月の富山から登り上高地へ降る一週間の縦走計画でしたが、五日目位に台風に叩かれ高山へ下山して、名古屋経由で帰京しました。この時は七技4名・七業1名の計5名でした。

 三回目は1961年7月でしたが、これも台風で途中下山しました。
 しかし、どうしても槍が岳には登りたいとの執念から、1961年9月の卒業前に槍が岳~穂高岳の縦走を試みてやっと宿願を達成しました。この時は七技4名・七業1名・高専2名の計7名でした。

 当時の写真を眺めながら、二年間という短い期間ではあったけれども本当に良き仲間に恵まれて幸せだったな、という思いで一杯です。
 その時の写真を以下に披露します。


1960年5月 中央アルプス駒ヶ岳にて撮影

左から 大理さん、大矢さん(六技)、相原さん、波多野さん、八尾さん。



1960年7月 太郎兵衛平にて撮影(上高地への途中)

左から 水野谷さん、大理さん、波多野さん、八尾さん、中埜さん。



1961年9月 上高地河童橋にて撮影

左から 高専Aさん、中埜さん、相原さん、友野さん、波多野さん、高専Bさん、八尾さん。


                                以上




「七業の八尾さん」と言ってもすぐにイメージ出来ないかも知れません。
ご本人にお願いして写真を提供していただきました。
左側が入学時、右側が現在だそうです。





2012.06.24 八尾さんから原稿等の提供を受けて米田が書き込みました。




喜寿

2012年06月09日 | お話サロン
喜寿

いただきました、喜寿の祝いを。

これは「祝詞」です。大きさはA4版。



それから「記念品」直径10センチのクリスタルガラスのペーパーウエイトです。



6月4日、NTTのOB組織である日比谷同友会の年次総会に出席しました。
例年ですと「写真係」として下働きしているのですが、今年は違います。
招待客としての参加です。
と言うのも「賀寿をお迎えになった方への祝詞および記念品贈呈」対象者として招待を受けたからです。
自分としてはまだまだのつもりでしたが、
賀寿とやらは数え年でやるのだそうで「お前も対象」と呼び出しが掛かった次第です。

「喜寿」だと言うのです。
今年は昭和11年1月1日から同年12月31日までの生まれが対象でした。

可なりの昔、「古来希なり」のハードルを跳び越え、
また、つい先頃「後期高齢者」のレッテルをペタンと押されてどぎまぎしたショックが未だ醒めやらぬ間に、
今度は顎にパンチを喰らった感じです。

嫌ですねー。
もう歳を云々するカテゴリー分けや行事を止めたらどうでしょう。

思い起こすと、「老若幼による区分」で最初に受けたショックは、19歳の時です。
キャッチボールをしていた男の子に「オジサン、ボール取って!」と声を掛けられました。
「ガーァン!」
このショックは大きかった。今でもその場所や情景を鮮明に覚えています。

次が「古希」です。
「KOKI」と書いて誤魔化していましたから相当気にしていたのでしょう。

そのまた次は、敬老精神なんてどこ吹く風の情け容赦ない「後期高齢者」の語感に負けました。

ところで七技会の喜寿超えはどうなっているのだろうと、名簿をめくってみましたが、
年齢は記録されていません。
多分今年がピークで、来年に持ち越す人を思い付くまま書き連ねると、
松澤さん、柚木さん、吉田さん、江口さん、大久保さん、八木さん、かな?
記憶が頼りのため抜けがあったらごめんなさい。
思い出しました、相原さんもです。

いずれにしても、この先、病気や怪我・事故・災害等に負けないで過ごせば皆平等に
「傘寿」「米寿」「卒寿」「白寿」「百寿」「茶寿」・・・
とお祝いが続きます。

ついつい自分が属する昭和11年生まれを中心に書いてしまいましたが、
先輩たる昭和の10年及び昭和一桁生まれの方も、もうここまで来れば歳の差は誤差の内です。
一緒に力強く生き延びましょう。

賀寿を考え出した昔の人は、
お金持ちもそうでない人も、
有名な人もそうでない人も、
等しく訪れ寿げる行事として智慧を絞ったのでしょう。

素直に祝いを受け入れ喜ぶ事にします。
ありがとうございました。


2012.06.10 米田書き込み
2012.06.16 一部訂正

続:塩田良平先生

2012年06月08日 | お話サロン
吉田さんから今日(2012.06.08)投稿いただきました。
さっそく掲載いたします。




続:塩田良平先生

前回 投稿のあと いろいろと 塩田先生について思い出しました。

・ 先生は、当時62歳、立教大学の日本文学科長をされていました。

・ 先生の講義は、佐藤春夫著「晶子曼荼羅」(現 講談社文芸文庫)に沿ったものでした。

・ 佐藤春夫は、18歳の時、堀口大学と与謝野鉄幹・晶子が主宰する新詩社に入門していますので、
  鉄幹・晶子・登美子のことをよく知っているところです。
  そして鉄幹の葬儀では、佐藤春夫が弔辞を読んでいます。

・ 佐藤春夫は、塩田先生より7歳年上ですが、共に和服愛好家として知られ、
  また共に医者の家に生まれるという共通点もあり、
  恐らく当時親交があったのではないかと思われます。
  (佐藤春夫は、昭和39年に急逝しています。)

・ 先生の講義には、そういうことを思わせる迫真性と説得力があったことを覚えています。

 若き日の歌二首
・ やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君      晶 子
・ 髪ながき少女とうまれしろ百合に額は伏せつつ君をこそ思へ      登美子

                                       吉 田



2012.06.08 吉田さん投稿