七技会のひろば

投稿、ご意見及び情報は米田へどうぞ
更新:毎月9日と24日が努力目標

(訂正)七業高のお亡くなりになった方々

2012年05月25日 | 訃報
昨日(5月24日)、七業高(七業会)のお亡くなりになった方々のお名前等を掲載しましたが、
一人の漏れがあるとの指摘を受けました。
お亡くなりになった方の数を「13人」と記載しましたが、正しくは「14人」でした。
訂正すると同時に写真を追加して、お詫び申し上げます。
すみませんでした。
なお、先の記事も訂正いたしました。






2012.05.25 米田書き込み

東京スカイツリーに登ります

2012年05月25日 | お話サロン
丸山さんから投稿をいただきました。




東京スカイツリーに登ります

「7技会のひろば」はある種の郷愁をもって興味深く拝見しています。

多くの方が他界しておりご冥福を祈るのみです。

元気なうちに何でも見てやろうと6月14日のスカイツリー入場券を獲得しました。

いまからワクワクしています。



2012.05.24 丸山さん投稿




丸山さんへ
スカイツリー登頂記を書いてください。


塩田良平先生

2012年05月24日 | お話サロン
吉田さんから投稿をいただきました。 
 
この投稿は5月10日に書き込まれたものですが、
不手際により受信メールボックスの底に滞っていました。
吉田さん、申し訳けありませんでした。
以後、気を付けます。
2012.05.24 米田


塩田良平先生


米田さんの「文学」を読んで、学園当時の記憶が 甦ってきました。

実は、私は 不謹慎ながら 技術科の講義に優先させて 

塩田先生の講義は、すべて 拝聴した一人です。

いつも和服で 教壇に立ち  「鉄幹・晶子・登美子」の三人の

心模様と歌の世界を シリーズで 情熱を込めて語られ

その温和な語り口とともに、三人三様の想いとその才能が 当時の自分に

殊更 強烈な印象を与えたことを憶えています。

「妻をめとらば 才長けてーーー」 当時 放吟した歌とも 重なってーーー
 

その後も この三人に関連する本には 必ず目が止まり、長年の愛読書の一つになっています。
  


2012.05.10 吉田さん投稿

七業高のお亡くなりになった方々のお名前

2012年05月24日 | 訃報
この記事の掲載後、内容に一部誤りがあることが分かったため、その部分を訂正しました。
悪しからずご了承ください。
誤りの内容は、今日(2012.05.25)現在お亡くなりになった方の数を「13人」と記載していましたが、
正しくは「14人」でした。
該当の部分を訂正し写真を差し替えました。
なお、ご指摘くださったのは七業会の野口さんです。ありがとうございました。
2012.05.25 米田



究極の情報

業高七回(七業会)の卒業50周年の総会模様報告と私たちのそれが
逓信同窓会会誌「WIND」に同時掲載されたことを機会に
「七技会」と「七業会」との間に細い糸が繋がり始める感触があります。

現在の糸は私たちのブログ「七技会のひろば」と七業会のホームページ「七業会の歩み」とが
相互にリンクを取り合っているのみですが、
そこは2年間、同じ釜の飯を食い、同じ湯船に浸かった仲ですから、
なんとなく「彼はどうしているだろうか?」と、
今の今まで没交渉であったあの人この人のことが気になり始めました。

とは言っても今更「どうしていらっしゃいますか?」と正面切って尋ねる程でもありません。

双方のブログ、ホームページを眺めて、
「あゝあの人は元気そう」「いやーこの人はちょっと見違えるね」とぶつぶつ独り言っ。

しかし、情報のない人が気になります。
気になり出したら一層気になります。

「便りのないのがいゝ便り」の諺、
それは若いときの筆無精を取り繕うには便利でしたが、今の我々の年齢には通用しません。
情報の途切れが「何を意味するか」をよく理解していますから、口には出しません。
それぞ「究極の消息」情報。

思い切って七業会の方に尋ねてみました。
そうです、「お亡くなりになった方のお名前を」と。

お亡くなりになったのは14人だそうです。
その時そのときに風の便りを耳にした方もいらっしゃいますが、大半は初耳でした。
名前と卒業アルバムの顔とを見比べながら想いは半世紀前に漂いました。

七業会の14人の方々のご冥福をお祈りし、顔写真とお名前を掲載します。
なお、お名前は七業高の八尾さんに教えていただきました。
八尾さん、ありがとうございました。
また、顔写真は卒業アルバムからコピーしました。


(並びの順番は情報をいただいた時の並びであって特別な意図はありません。)






2012.05.24 米田書き込み
2012.05.25 一部訂正

文学

2012年05月09日 | お話サロン
文学

教科書や図書館以外の自分で買った本や雑誌で「純文学」というジャンルに初めて接したのが、
月刊誌「文芸春秋」昭和31年3月号であった。
この号は人気爆発の芥川賞受賞作品が掲載されたための売り切れだった。
やや遅れて増刷版を購入して石原慎太郎の「太陽の季節」を読んだ。
ふーん、これが純文学? ふーぅうーん。

それからいっときして、守随先生の「文学」の講義を聴く身になった。

先生のお話で頭に残っているのは、近松門左衛門とその作品を身近な物語として語っていただいたことである。
当時の教科書もノートも残っていないが、不思議と声色混じりの講義の様子を覚えている。
作品では「曾根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」。
その主人公は「お初と醤油屋の手代徳兵衛」「紙屋治兵衛と遊女小春」「河内屋与兵衛と馴染み女郎小菊」。
語りでは「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」、
道行最後の結び「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」等など。
不思議と記憶の底に残っている。

先生のインターネット情報には、次のように記されていた。
お名前は「守随憲治」
当時50歳代の半ば
(東大教授を退官して)実践女子大教授(後に学長)
昭和58年にご逝去
「浄瑠璃、歌舞伎など近世劇文学の研究で有名、特に『役者論語』の注解で高い評価を受けた」


では「役者論語」とは?
「やくしゃばなし」また「やくしゃろんご」とも。
八文字屋自笑の著作で1776年(安永5年)に書かれ、
元禄期の名女形芳沢あやめ、和事師の祖とされる初代坂田藤十郎など、名人上手と称せられた歌舞伎役者たちの語った心得や逸話を集めた芸談集らしい。例えば「(歌舞伎の舞台で)傾城買いの舞台に脱ぎ捨てる草履が大きくては見物は興醒めである。」などと。

今にして思えば、仙川界隈の外には大きな世界が広がっていたのだった。
当時、自分の頭の中では「文学=余技」の等式が鎮座していて、
業務科に来て居られた「塩田良平」先生の授業に潜入する才覚が働かなかった。
それをやっていれば違う世界の空気を吸っていたかも知れないと残念に思うが後の祭りではある。



2012.05.09 米田書き込み