畔柳さんの思い出
昨年(2022年)12月24日に90歳でご逝去なさった畔柳さん、その訃
報を七技会に連絡して下さったのが、奥様から山内さんへ、でした。
さて、「畔柳さんの思い出」とタイトルを書き込んだのですが、畔柳さんと
は、余り接触がありませんでした。むしろ一番遠い存在だった、かも知れませ
ん。
彼の思い出の糸口を求めて卒業アルバムを引っ張り出してみました。引っ掛
かったのは「剣道」と「社研」。
彼は、ちょっと小柄でやや取っ付き難い印象がありました。が、そうであり
ながら、ニコッとした笑顔がかわいらしかった、と思い出しています。
そんな彼が、学園生活の中で、ご自身の初心とは異なることを承知の上で、
彼の義侠心からお引き受けになったお役目が一つあったのでは?と思っていま
す。
私達の学園生活での特徴の一つは「60年安保」の大騒ぎの真っ最中であっ
たことでしょう。
安保闘争は、学園といえども圏外ではなく、デモへの動員・参加がたびたび
ありました。
ノンポリの私は「せっかく学園=楽園に来たのだから組合なんかに目を向け
ないで、安穏に過ごせばいいや」と思っていました。
そんな考えでありながらも、幾度かデモに参加しました。
国会議事堂へ、銀座へ、また或い時は渋谷の南平台へ、と。
デモは、都心へ出掛けるお楽しみの一つでもありました。
しかし、女子大学生の樺美智子さんが死亡する事件の後は緊張しました。
そんな安保闘争の最中の組合の役員をお引き受けて下さったお一人が確か畔
柳さんだったと思います。
学園生活の中にあって、畔柳さんが組合とどんな関わりだったのか?知りま
せんが、今になって思えば「誰もやり手がいないから」と背中を押されてお引
き受けになったのでしょうか。
ちょっと小柄な彼が、講堂の演壇に立ち、堂々と演説する姿は立派でした。
どこにそんなエネルギーが詰まっているのだ!と驚きでした。
学園を卒業して、彼は東海へ、私は東京へ。
それ以来「便りのないのがいい便り」とばかり、彼との接触がほとんど無い
六十数年間を過ごしましたが、今日は確からしさに疑問を持ちつつ、資料のな
いまま畔柳さんの思い出を求めて、この文を書いています。
昔、「人は二度死ぬ、一度目は生物学的な死、
二度目は誰もからも忘れ去られた時」と教えられました。だから、
「思い出すのが彼への供養である」と信じて
思い出しました。
畔柳さん、心地よい風になって見守ってください。
以上
写真は、いずれも卒業アルバムから引用しました。
2023.06.09 米田書き込み
次回の更新努力目標は、6月24日です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます