七技会のひろば

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特集「中央学園での思い出」その3

2022年11月28日 | お話サロン
       特集「中央学園での思い出」その3



           中央学園思い出の記

                        第七回技術科二組 松戸さん
 1,東北の旅
  夏休みを利用して、奥州へ旅に出かけ、予て行きたいと思っていた男鹿半島の
 寒風山を登りました。この時はバス旅行でした。すばらしい眺めを満喫したこと
 から、これを契機に山登りが始まりました。

 2,柔道部に在籍
  2年間柔道部に在籍しました。鈴鹿でご一緒した谷津さんなど六回生や同期の
 強豪に揉まれたおかげで黒帯で卒業を迎えることができました。

 3.クラス対抗野球の優勝
  学園で毎年行われているクラス対抗の野球試合で、我がクラスは纏まったチー
 ム力を発揮し見事優勝しました。私は、その時、マウンドに立ち、投げきった強
 い思いがあります。

 4.卒業ダンスパ-ティ
  学園卒業のダンスパーティがあるというので、参加することとし、七業のX氏
 (経験者)に案内されて、経堂駅近くのダンス教室に通いました。ある程度動く
 ことが出来るようになり、パーテティに参加しました。私の趣味の一つに社交ダ
 ンスが加わった次第です。

 5.ある飲み会の場
  経緯は分かりまぇんが、ある時、TさんとHさんと私の三人で洋風の飲み屋に
 入った時の話です。アルコールに弱い私は、飲むと辛くなることがあるので、控
 えていましたが、つい口当たりのよい、サワーを一気に飲みました。後がいけま
 せん。足腰が立ちません。
 殆ど、二人に背負われて寮にたどり着いた次第です。遠い昔の情けない思い出で
 す。

 6.早稲田大学(2理)在籍
  私は、高等部入学前に早稲田(第2理工学部)に通学していましたが、暫くし
 て、東海出身で技高六回の早川司朗さんが私と同じクラスに在籍していたことが
 分かり驚きました。まさかでしたから、それから38年の卒業まで楽しいお付き
 合いでした。
 早稲田第2理工学部は昭和39年廃部となりました。遠い昔の話です。

                                以上



            
中央学園での思い出

                        第七回技術科二組 三上さん
  昭和34年10月8日、中央学園高等部に入学。高等部としての座学、野外実
 習等瞬く間に十ヶ月が経ちました。昭和35年8月には「夏期休暇」が用意され
 ていました。
  各人、帰郷する者、旅行を楽しむ者が全国に旅立って行きました。
  田中君、松永君と小生三人は「北アルプス登山」をすることに決めました。
  登山の予定は思い出せませんが、「立山、剱岳、大日岳などを経て軽井沢」の
 ルートだった様に思います。
   
  アルプスの風景は素晴らしかったが、険しい山道を体力の無い身体で何時間も、
 何日も歩いたことを思い出します。
  二十代の体力があったので、険しい登山道を歩けたのでしょう。
  あの素晴らしい風景は六十数年経っても忘れることはありません。
                                以上




          次は、手紙で投稿下さった松原さんです。


            中央学園での想い出

                        第七回技術科一組 松原さん
 60年余茫漠とした雲海のかなたに霞んだ記憶も定かでない想い出を一つ二つ
 してみる。
 
 1 入学前
 入学直前の事・・・当時恵那電報電話局施設課機械係、入学一週間前、「出局し
 なくてよい、家で入学の準備を」と課長の話。在宅の二日目伊勢湾台風が来襲。
 出局して復旧作業を手伝ってくれとの連絡。やった仕事が恵那局から明智局(特
 定郵便局)への市外線(裸線)のバインド締め直しとか銀粉いっぱいの2コ撚り
 引き込み線を肩に担いで延々と引っ張り作業をやり、10月1日、入学のため早
 朝家を出発、中央線中津川駅から名古屋駅で東海道線に乗り換え、熱田近辺で車
 窓から見えたのは、径1メートルはあろうかと思われるラワン材の丸太が水に浸
 かった家の周りや空き地に押し合って浮いている様を見て、台風の凄さをみせつ
 けられた。この時の復旧作業の経験がのち卒業時に線路部門を選ばせたことの繫
 がっていると思う。

 2 学園で 強烈な印象の出来事はない。
 ⑴ 初めての同室者は業務の横浜からの塙さん、能登の珠洲からの本家さん、
 術の大阪からの松永さん、と小生の四人。
 始まった間が無い頃と思うが、本家さんが風邪で発熱、仙川まで行き、薬店を
 し風邪薬を買い戻り、本家さんの熱が下がったこと。

 ⑵ 郵政大学校のサッカーチームとの試合で、郵政チームに押し込まれゴール
 近で守っていた時(小生はF・B)、ペナルティーエリアの線とタッチライン
 間違えて、ペナルティーエリアの線の外へ出たボールを拾い上げてしまった。
 体を見ずにボールのみを見ていた大失策。当然相手のフリーキック。暫くの間恥
 ずかしさで顔を揚げられなかった。

 ⑶ 学園祭の運動会、入場行進で各チームの入場時そのチームを紹介すること
 なっていて、紹介役をその場で水野谷さんに頼んだ。水野谷さんものの見事に即
 席で次々と紹介してくれたのをスピーカーで聞きながら、凄い頭の回転の良い人
 だと感心したこと。

 ⑷ 2年の後半の頃だったと思うが、柿崎先生のテストのこと、何かの用事で
 員室へ入った時、柿崎先生の机の上にテスト問題の一つと思われる用紙が広げて
 あった。その時先生は見えなかった。しっかり憶えておいて、皆に話した。その
 問題が出題された。
 
 3 卒業後
 ⑴ 卒業して間もなく結婚した。新婚旅行先は長野県野尻湖のホテル。そこへ
 口のブーちゃんから祝電を貰った。卒業少し前新宿の旅行会社で宿を予約したが
 その時彼が一緒だった。これは嬉しかった。

 ⑵ 何年か後、北陸の宇野さんからTel。家内と旅行に行きたい。三河で何
処か
 宿をとの話。三河三谷の三ヶ根山にある郵政の保養所を紹介、予約してあげた。
 後日、表日本は明るくて良いですね。気持ちが晴れ晴れしますね。と沁み沁じみ
 と言われた事を思い出す。

                               以上




              風景写真事始め

                          第七回技術科二組 米田
 確か二年生の時だったかと思います。学園の文化祭か何かの写真展があり、写真
 展なるモノに初めて作品を出展しました。
 その時の作品は、あちこち探しましたがありません。確かモノクロのフイルムカ
 メラで撮影したモノでした。
 縦の構図で、真ん中に孟宗竹(モウソウチク)。それに蠅(はえ)が止まってい
 る。今再現するとこんな感じです。
    

 これが案ずるより不評ではなかった!(と自分は受け止めていました。)。
 当時は、作品の作品たる価値よりも唯々大きく引き伸ばせたことがうれしかった
 のでしょう。たかだか四つ切りでしたがね。
 それから、何年経ったのでしょうか?
 全ての仕事からリタイヤーして「毎日が日曜日に」
 確か72歳だったと思います。孟宗竹の夢が忘れられず、東京は銀座の写真学校
 の門を叩き、更に鎌倉の写真教室で教えを請いました。選んだ作品分野は「風景
 写真」
 スナップや人物写真の道もありましたが、落ち着いてノンビリと歩き回って人の
 気配の無い場所で三脚を据えて・・・。
 あぁーそれから何年経ったのでしょう。
 未だに「風景写真」に拘っています。今にして思えば、素人が人の姿が写ってい
 る写真はプライバシーを侵すと写真展等で公開出来ない世の中になっています。
 しかし、多寡が風景写真ですが
      「重いカメラバックに三脚を背負っての遠出」=体力仕事
 です。そろそろ年貢の納め時と観念しています。
 序での事です。お気に入りの作品をお見せしましょう。とは言っても「下手の横
 好きのレベルです。
 

 孟宗竹の夢に取り付かれた写真人生の物語でした。
                                 以上


 
 あとがき
 たくさんの方々が、随分いろいろな事を思い出して語って下さいました。いずれ
 も遠い遠い昔の出来事、なかなか思い出す機会がなく頭の襞に埋もれていたので
 しょう。これが、「七技会総会」として一堂に集まり語り合えたのなら、もっと
 もっと嬉しかったのでしょうに!集まれないことが残念です。コロナメの野郎、
 いつまで待てば居なくなるのでしょうか?後一年?それとも後三年?そろそろ
 「卒寿お祝い総会」ですね。それもいいか!それまで頑張りましょう。業務科の
 方にも参加していただいて元気にやりましょう!
                             あとがきおわり





2022.11.24  米田書き込み



次回更新は12月9の予定です。






                          




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