七技会のひろば

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更新:毎月9日と24日が努力目標

バンコク旅行記

2013年08月24日 | お話サロン
      バンコク旅行記
                                         平成25年8月21日
                                            友野

 7技会の皆様お元気ですか。今年は全国的に「猛(酷、激)暑」ですね。お互いに身体に気を付けて自然流に頑張りましょう。

 小生、最近バンコクに行ってきました。タイのバンコクなどは別に珍しいところでもないし、そこに旅行したって別にどうという事でもないけど、とにかく行ってきたのでその旅行記を「7技会ひろば」に投稿することにします。

 過去において東京には○○会というのが沢山ありました。所属していた組織のOBどもの集まりです。現役の連中に事務局を担当させて名簿を作ったり会の準備をさせたり。小は内々の5,6人程度のものから大は500人を超える出席者でにぎにぎしく開催してわが軍団の勢力を誇示したりするものまで。時移り、組織見直し体制整備などでその会が頼みとしていた組織そのものが消滅したり他の組織に吸収されたりして、事務局を担うところがなくなりほとんどすべての会が消滅している現状です。

 ところが呑兵衛はそんなものにはめげずに頑張ります。“酒を酌み交わす”ことのみに専念する会を立ち上げたのです。6月第4火曜日に新橋の居酒屋に集まる。それだけを約束に毎年20人近くが集まってきます。事務局はなし。そこの集まりで何のことがきっかけかわからなかったけど ”タイにゴルフに行こう”ということが決まりました。メンバーの中にタイで3年ばかり仕事をした経験のある人がいて盛んに宣伝するものだから酒の勢いで“そうしよう。そうしよう。”となってしまったのです。気候の良い11月頃。ゴルフ、果物、その他表向き書けない諸々・・・などなど。興味を誘うものばかり羅列されてウキウキの気分でした。でも話はそんなにうまくいきません。その男が急にコロンビアに仕事で行くことになり、“タイに行くのは8月しかない”ということになってしまったのです。酔いが覚めた翌日に調べてみたら8月のバンコクは気温33℃、湿度80%、雨季、スコール。今更やめたというわけにはいかず観念しました。

   酒の勢い この時だけ 若さ十分

 総勢6名。Y(1)、Y(2)、M(1)、M(2)、O、Tの各氏です。8月4日~8日の4泊5日。初日と最終日ゴルフ、その間は観光というスケジュールです。
まず、過去において真夏のゴルフでダウンした体験をもつTが“おれゴルフ遠慮する”と言い出して4人のゴルフ組と2人の観光組に分かれての行動になりました。宿泊場所はWホテル(ホテルのあるところはバンコクの歌舞伎町のようなところ)。
                      
ホテル ウオールストリートイン

 初日4日。宿についてから一息入れて夕食をとりに街歩き。お目当てのお店が満席で断られ、よしそれではとスコッチを買い求めタイ料理の店に。持ち込んで飲もうという算段。M(2)氏が折衝役。アルコール度の高い“象印”のついた労働者ビール(勝手に我々が付けた名前ですが)がとてもうまく、持ち込みのスコッチを少っし(スコッチ)ずつ何回ものんでいい気分。それから街へ繰り出したという次第です。パッポン地域。ニューハーフバー、風俗店各種。一夜にして出現する200m近く連担する露店街(扱うものは食い物とコピー商品)など。ここでのメンバーの活躍状況は別途。露天商の立ち並ぶ街は過去に何回も徘徊したけどどうしてもあの露店の飲み物、食い物には怖気づく。
 タイ料理の後遺症で宿についても口の中が火のようになっていてほかのものを食べても味がさっぱりわからない。今日はお疲れ、コンビニで買ってきた350ccの労働者ビールを睡眠薬にしてお休み。

 5日、朝の散歩でパッポンを訪れたら露店街は跡形も無くなっていてビックリ。二組に分かれてホテルを出発。ゴルフ組に異変。Y(1)が4ホール目でダウン。勿論猛暑の影響もあるがどうも原因はゴルフ場に向かう車の中でのネット株取引(ではないかとT氏の診断)。本人はクラブハウスに帰ってしばらくしたら元気モリモリ。草履のような大きさのステーキを食して皆さんをお待ち申し上げていたとか。
 観光組は王宮やエメラルド寺院を日本語のできるガイド(女性)Pさんについて観光。彼女は行く先々のお寺でお賽銭を上げていた。タイの人は信仰心が強いんだなあと思いながら彼女に聞いてみたら、”息子の入学金が不足して困り、仏様にお祈りしたうえでヤミの宝くじを買ったら丁度入学金相当の10万バーツ(30万円位)が当たった。そのお礼とこれからもよいことがありますようとの祈りを込めて必ずお賽銭を上げることにしているんだ“とのこと。どこかの国とあまり変わりはないみたい。彼女が心に憂いていることは現在のタイの人たちが「タクシン派」と「王室派(といっても王様を担いでいる影の派閥)」との争いで国が二分していることだといっていました。貧富の差は相当あるようです。

    神仏 貧富の差なく お恵みを

王宮・エメラルド宮殿

 ホテルに帰って二組が合流してタイ古式マッサージ。これはよく効きます。120分1,000円。(東京の料金は高すぎ)マサージは病み付きになり連日お世話になった次第です。(ホテルのすぐ近くに「有馬温泉」という名のタイ式マサージをするところがあったのにはビックリ。相当有名で繁盛しているそうです。)

 夕食は昨日行き損ねたタイ料理店。M(2)氏行きつけのところでここでも持ち込みのワインで乾杯。ビールがうまい。ここは日本人好みの味付け。一般的なタイ料理は激辛で口の中がいつも“火事”。そのあとカラオケの会場をもとめて歌舞伎町(のようなところ)へ。“なんでまあタイまで来て「カラオケ」とは”という吾人もおられると思いますが、それはその要するに「カラオケ」なのです、ガラス窓のある。ここでの仔細も別途の場ということにいたしましょう。

 6日はM(2)氏の友人のDr.S氏の運転する1BoxCarでアユタヤ(古都、鎌倉みたいなところ)観光。そこにつくまでは昨夜の「カラオケ」の余韻を楽しむ。
 昼食はチャオプラヤー川にかかる桟敷席でタイ料理。ビールをのんでワインをのんで。川風に吹かれてとてもいい気分。本当にタイのビールはうまい。ここでサプライズ。Y(1)氏の株がストップ高になるくらいにUPし、それを話題にみんなで持ち上げてDrも含めて相当な盛り上がり。飲めるだけ飲んで食えるだけ食ってY(1)氏の奢りということになり皆さんハッピー。以降Y(1)氏はリッチマンの愛称をいただく。本当にタイはいいところだ。
                        
    リッチマン いつまでも続け リッチマン

アユタヤ・ワットジャーナプラナ

 バンコクへの帰途M(2)氏がタイで担当したプロジェクトを見学。通信インフラを無線で構築する目的のODAで、まずバンコクで試験的な施設を作り実証実験をしたうえで本チャンのタイ東北部に設置するというもので、現在商用に供しているそうです。バンコクの試験的な施設の見学となったわけですが担当している若者は6人。ここでリモートの保守をしているそうです。大学を出たばかりのチャキチャキの若者に接し頼もしく思うし自分自身もなにか若々しい気分に久しぶりにひたることができました。M(2)さん有り難う。この地域はバンコクのITがらみの企業や研究機関が集中して設置されている地域だそうです。 
 夕食はバンコクに帰ってチャオプラヤー川でのクルージング。隅田川の屋形船みたいに川岸のライトアップされた寺院などを見ながらバイキング形式の食事をするものですが、仲間が仲間。すぐにピチャーでビール。ワインを続々。それをボーイがとめどなく注ぐものだから益々メートルが上がる。ステージでは歌に踊り。我々の席にもお見舞いの顔見せ。絶好調のころに今度は客のギャルたち(修学旅行生みたい)が声を張り上げて歌い、踊る。我々も歳を忘れて立ち上がって同調。延々と歌い踊る。まさに“狂うじんぐ”。

   よくもまあ 喜寿を過ぎても お変わりなく


 7日はゴルフ組でまたハプニング。昼食にO氏が激辛のカレーをうまいうまいと食したら宿に帰ったころ青い顔して下痢症状。すわコレラかなどと脅かしたがこれも2、3時間経過したら回復。コレラでなくてよかった。観光組はガイド(男性)B氏について歴史的なタイ寺院を移築した東武ワールドスクエアのようなところを観光。このB氏は全く気が利かない。先日の女性Pさんはよかった。夕食はM(1)氏行きつけのしゃれたレストランでタイ料理。しめくくりとしてふさわしい高貴な感じのところ、ここで上品に食事。昨夜の狂うじんぐで皆さんお疲れ。その夜遅くの便で成田へ。

   弥次喜多を 思い起こせよ 旅の空


 とんだバタバタ行状記をご披露してしまいましたがこれも同窓なるが故。すべてのことを御内密に。        
                                    以上


遙かなる青春譜 -Tさんへの手紙-

2013年08月02日 | お話サロン
今日、波多野さんから投稿いただきました。
吉田さんの投稿文の掲載から間もなくですがせっかくの投稿ですから早速掲載しました。。
波多野さん、ありがとうございました。
2013.08.02 米田






    「遥かなる青春譜」―Tさんへの手紙―

                                  波多野

梅雨明けの暑い日々が続いていますが、Tさんお元気ですか?この時期になると50余年前あなたとNさんと三人で縦走した、北アルプス後立山連峰のことが思いだされます。あれから40年後、あなたはあの時の縦走をイメージした壮大な絵画「青春譜」を描き、私の転居祝いに贈ってくれましたが、あの絵はいまでも我が家の家宝として居間に飾ってあります。絵には次の一文が添えられていましたね。

     風が渡る! 雲が飛ぶ! 雲海が広がる! 
     あの尾根をとぼとぼ歩く三人は誰?
     彼らは何を目指したのだろう?
     それはわが青春のモニュメント、
     それは遥かなるわが青春譜!
     ・・・・・・・・・・・・・・

あの頃われわれ若者は日々の糧のことなど考えもせず、学園の休暇を利用してはひたすら山に登っていました。今にして思えばあの時期、われわれはこれまでの人生の中で一番輝いていましたね。どんなにつらい縦走でも、帰りの汽車の中では次の山行に思いをはせていました。あれから50年余。その大半を海外各地で過ごしてきた私は、その後あれほど情熱を傾けて登った山とすっかり縁が遠くなっていましたが、先日思いがけない用で我が青春のモニュメントであり、あなたの「青春譜」の舞台となった北アルプス後立山連峰山麓の町、信濃大町を訪れる機会がありました。どうしてそんなところへ一人で行ったかと言うと、私の甥が長らく務めた東京のIT関連企業を脱サラし、信濃大町にあるリンゴ農園で働くことになったので、その様子を見たかったからです。

新宿から信濃大町まで「特急あずさ」で三時間余り。列車が松本から単線の大糸線に入り、左手の車窓から残雪をいただいた北アルプスの峰々が見え出すと、もう50余年前、恋人に会いに行った時のように胸が高鳴りました。信濃大町駅には甥が出迎えにでていて、その足で彼のリンゴ農園を視察した後、早速かねてからどうしても一度は行ってみたいと思っていた、後立山連峰が仰ぎ見られる黒四ダムへ案内してもらいました。昔は途中まで山道を歩くしかなかった扇沢までの道も、今は大町アルペンラインが開通していて、30分ほどの林間を縫う快適なドライブで、関電トロリーバス扇沢駅へ着きます。駅近くからはあの時、悪天候と体力消耗から道半ばで挫折した、テント泊による北アルプス全山縦走計画(白馬岳→穂高岳全行程約120Km)の下山路に使った針の木岳大雪渓が垣間見られ、50年ぶりの再会にこみ上げてくるものがありました。あの縦走で、白馬岳から後立山縦走路最後の難関赤沢岳まで二週間かけてたどり着いた頃には私の体力は限界に達し、水筒には一滴の水もなく、止む無くあなた方には先行してもらい、リーダーであった私は尾根上に一人残りました。岩陰の高山植物に宿るわずかばかりの水滴で舌を湿らしながら這うようにして針の木岳に向かい、尾根上から夕闇迫る雪渓の傍らにテント設営中の豆粒のようなあなた方の姿を見出した時、私はこれで助かったと思いました。あの時もし30分遅かったら・・・・。

現在ではその赤沢岳のどてっ腹を貫通したトンネルを通り、トロリーバスが15分で富山県側にある黒部ダムまで運んでくれます。黒部ダムから更にケーブルカーを乗り継いだ黒部平(標高1,828m)からは、三人が悪戦苦闘した後立山主峰の五竜岳、鹿島槍岳、爺ケ岳等が遠望できました。今から思えばよくもあんな険しい山々を、40Kgを超す重装備で踏破した青春時代の無限とも思えるエネルギーに我ながら感嘆するとともに、そろそろ人生縦走路の下山点が見えてきた今日この頃、50余年の歳月がもたらす「青春譜」との残酷とも言える落差を痛感しないわけにはいきませんでした。私も、かって川端康成やコロンビアのノーベル賞作家ガルシア・マルケスが描いた、余命短い老人の過ぎ去った青春への限りない寂寞が理解できる歳になったようです。余談になりますが、ガルシア・マルケスがこの年末に大学関係者の招きで日本を訪問することになったようで、先日、師事しているスペイン語のペルー人先生からセニョール波多野、あなたはガルシア・マルケス作品にたいへん関心があるようなので、訪日中に一度会ったらどうなのと冷やかされました。もちろん世界的大文豪に日本の一読者が会えるはずがないのを承知の上での冗談ですがね。

黒部平からはロープウエイ、トロリーバスを乗り継いで雲上の別世界室堂を経由して、これも学園時代盛んに登った立山にたどり着くことができますが、当日は時間と体力の関係で黒部平までで引返しました。帰途の扇沢から信濃大町までのちょうど中間点に位置する日向山高原(標高893m)には北欧風の瀟洒なリゾートホテルがありその日はそこに宿泊しました。露天風呂、ゴルフコースを備え、日本料理屋吉兆も入っているなかなか快適なホテルで、50年前の原生林が見事に近代的なリゾート地に変身していました。あなたが見たらきっと目を回しますよ。その夜は甥たちと近くの渓流で取れた岩魚の塩焼をつつきながら、これも地元産のリンゴ酒でほろ酔い気分になりましたが、山の聖地へ来てこんな年寄趣向にうつつを抜かしていて良いのかとの思いが常に付きまとい、落ち着きませんでした。やはり妙なところにまだ自称元山男の矜持(こだわり?)が残っているのでしょうかね。

学園卒業後間もなく私はN社を離れ世界各地が仕事場になり、今日まであなたとは余暇を利用して中南米、東南アジア各地を旅するなど家族ともどもお付き合いをしていただいてきましたが、あなたと言う生涯の友を得る契機となった50余年前の後立山連峰縦走は私の誇れる「青春譜」であり、その山行の思い出は生涯消え去ることはないでしょう。

ともあれ今回の信濃大町行きは甥の転職、都落ちと言うハップニングがきっかけで、50年前の遥かなる青春譜にタイムトリップした、私にとって忘れられない旅となりました。

以上がわれわれの「青春譜」の足跡を訪ねた私の小さな旅の報告です。それではTさん、また近く新橋で一杯やりながら昔の山談議でもしましょう。それまでお元気で。奥さんによろしく。

                              以上