七技会のひろば

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更新:毎月9日と24日が努力目標

「月」雑感

2012年09月24日 | お話サロン
吉田さんから9月15日投稿いただきました。


         「月」雑感


長く暑い残暑でしたが、季節は確実に秋、あと一週間で仲秋の名月(9月30日)です。
私は、俳句はあまりやりませんが、「歳時記」は日本が生んだ名著中の名著だと思っています。

  月一つとっても、月の出が毎日30分程度づつ遅くなることだけの変化をも
  先人たちは みずみずしい感性で受け止めていることがわかります。

  ・ 十五夜ーーーー 「名月」「望月」「今日の月」「月今宵」「芋名月」などなど
            名前が付けられています。

  ・ 十六夜ーーーー 「いざよい」といい
            月の出が 少し遅くなるので
            それを いまかいまかと待つ人の気持ちを現した言葉です。

  ・ 十七夜ーーーー 「立待月」といい
            門辺で 逍遥をしつつ待つ人と 月の風情。

  ・ 十八夜ーーーー 「居待月」といい
            月の出は、更に遅くなり縁側に坐って月を待つ風情。

  ・ 十九夜ーーーー 「寝待月」といい
            少し疲れて 横になりながら月の出を待つ。

  ・ 二十夜ーーーー 「更待月」といい
            月の出は、21時頃となり、当時の田園では
            寝静まった家が多い時刻となります。

  ・ 二十三夜ーーー 「真夜中の月」といい
            月の出は、23時を 過ぎるので この名で呼ばれました。


秋は もうすぐ 目の前です。  
長い暑さの反動 お互いに体調管理に気を付けましょう。


                               吉田英一





塩田良平先生の思い出-付録編

2012年09月09日 | お話サロン
七業会の八尾さんから投稿をいただきました。
吉田さんの投稿への反響の一つとしてありがたく掲載させていただきます。
八尾さん、ありがとうございました。




「塩田良平先生の思い出 --- 付録編」
                            七業 八尾康司

「七技のひろば」に、吉田さんが「塩田良平先生の思い出」を寄稿されている。
私は吉田さんのような学問的な思い出ではないが、
講義のなかで先生がお話になったことがらとか、
私が先生に抱いていた大学教授というイメージが全く異なっていたこと、
等の思い出を記してみたい。

その1
昭和30年代の初頭に、東京の文化放送(JOQR)の深夜番組に「ラジオ大学受験講座」
という番組が放送されていた。
地元広島では放送がなかったので、
自分でスーパーヘテロダインとかいう受信機を組み上げて、その放送を聞いていた。

その番組のなかに「国語の傾向と対策」という講座があり、塩田先生が担当されていた。
中央学園に入って、その偉い先生の謦咳に接することができるということで期待していた。
実際の講義を受けて驚いたことは、私が描いていた大学教授像とは正反対の姿であった。
江戸っ子らしい洒脱な語り口で、研究にまつわるウラ話や自身のことを直截に話された。

その2
先生曰く
「私は官練(逓信官吏練習所)には、一方ならぬ恩義があるから
呼ばれたらどのようなことがあっても万難を排して馳せ参ずる」と。
「私は戦前憲兵隊に睨まれて、全ての職から追放され困窮していた」
「しかし官練だけは、学校がなくなるまで私を使ってくれた」と。
(これは後で述べたいが、先生の与謝野晶子研究と深い関わりがあると思っている)

その3
先生は蔵前(現在の東京工業大学)の応用化学を卒業して、
資生堂で化粧品の香料の調合をしていたとのことであった。
ある時一緒に住んでいた女性(先生は同棲していた女と言われた)と口論になり、
その女性に「そんな偉そうなことは帝大を出てから言いなさい」と言われた。
「そこでよーしと思い、俺でも入れそうな東京帝大文科(文学部)へ入った。」

先生曰く
「諸君に言っておくが、香料というものはいくらいい香りのもの同士を調合しても
必ずしもいい香りにはならず、時には物凄い悪臭になることもある」と。
(私はこのお話を教訓に、整髪料は全て同じメーカーのものに統一している。)

その4
「過日堺の与謝野晶子の実家から、
晶子にまつわる手紙とか歌の原稿等の資料が出たという連絡を受けたので、
出掛けて行き、買い取らせてもらった」
「研究上大変貴重な資料が大量に入手出来て喜んでいる」

その5
「与謝野晶子は、堺の和菓子屋の娘で短歌を通じて鉄幹と知り合い、
鉄幹には女房がいたのを押しのけて(先生は晶子が鉄幹をゴウチンして、と言われた)
女房に収まった」


与謝野晶子は旧姓を「鳳晶子」といい、鉄幹と結婚して11人の子供をもうけた。


鉄幹も大変情熱的な男性で、山口県徳山の女学校教師時代、教え子の浅田信子と関係をもち、
後に同じ教え子で短歌の弟子であった山川登美子と結婚する。
先生は三人の女性を押しのけて、と言われていたから晶子のライバルはもう一人居た筈である。


与謝野晶子の代表作とでもいうのか
「君、死にたまふことなかれ」は、
単なる反戦歌だけではなく体制批判とも受け取れる節があるが、
時の明治政府はそれを発表禁止にしなかった。

それが前の戦争では、その研究をするということだけで
憲兵隊がブラックリストに載せて公職から追放するということをやった。

電電公社時代、労働組合との間でヤミ協約を結んだ人はオトガメなしで、
それを順守した人がオトガメを受ける、という理に合わないことがあったが、
時代が変わっても世の中から不合理なことはなくならないのだろうな。

                       以上