七技会のひろば

投稿、ご意見及び情報は米田へどうぞ
更新:毎月9日と24日が努力目標

中央学園の今!

2013年09月24日 | お話サロン
NTTのOB組織「日比谷同友会会報」の2013年7月号に「あのNTT中央研修センターの今!」と題する
レポートが掲載されていました。

一昨年の第18回総会で工事中の中央学園を我々自身の目で見たのですが、工事完了後の様子が書かれてい
ますので、この場に転載し紹介します。
ちなみに会報表紙の写真は私の作品「花火」です。
2013.09.24 米田











スペイン語と私

2013年09月09日 | お話サロン
         スペイン語と私

                                  波多野

 私は70代の後半に入った現在も毎週横浜のスペイン語学校へ通い、同年代の仲間4人と共にペルー人先生の指導でラテンアメリカ文学の購読をしています。当然のことながら加齢とともに記憶力は衰える一方ですが、いまだにスペイン語への興味は衰えておらず、毎週学校へ行くのを楽しみにしています。どうもスペイン語には他の外国語にはない、人を惹きつける魅力と言うか、一度取りつかれるとなかなか逃れられない、一種の魔力みたいなものがあるのではないかと仲間内で話し合っています。

 私がそんなスペイン語の魅力に取りつかれたきっかけは、今から50年近く前にさかのぼります。当時中央学園高等部を卒業し、NTT本社近くの霞が関電話中継所に勤務していた私は或る日、本社の「海外連絡室」がスペイン語講座(定員6人程)の受講生を募集していることを知り応募したところ、簡単な英語テストを受けた結果受講がきまりました。私がスペイン語講座を受講する気になったのは、当時読んだインカ帝国に関する本に載っていたアンデス高原の神秘の湖、チチカカ湖に魅せられ、なんとしても南米へ行きたく、そのためにスペイン語を勉強しておけば将来チャンスが巡ってくるかも知れないと考えたからです。まだ海外渡航が自由化されていない当時、アンデス旅行など世間知らずの若者の途方もない夢でしたが、この夢はそれから遥か35年後、私が長年にわたり携わってきた海外業務からのリタイアーを記念した「修学旅行」となり実現することになります。

 週3日6か月間の講座で基礎文法を学習した後、当時日本におけるスペイン語教育の第一人者であり、NHKラジオ・スペイン語講座講師でもあった瓜谷良平先生が池袋の立教大学近くのご自宅に開設した、「東京スペイン語学院」の門を叩きました。この学校は小規模ながら、東京外語大学教授、NHKスペイン語国際放送アナウンサーなど講師陣がデラックスで、また生徒の方もそれぞれ目的を持ち勉学姿勢が真摯だったので、瓜谷学院長を始め先生方も大学の第二外国語授業でやる気のない学生を教えるよりはるかに教え甲斐があると言って、熱心に指導してくれました。授業時間帯は土日と平日の夜間でしたが、時には教室を離れて先生方や来日中のスペイン語圏の人々と一緒にハイキングへ行くなど、とても家庭的な雰囲気の居心地の良い学校で、私はここへ二年近く通いました。

 そんな私の噂が、当時日本の電気通信技術海外進出を目的に設立されたばかりの日本通信協力株式会社(NTC)幹部の耳に入り、そんなに南米に行きたければNTCへ来れば行かせてやると誘われ、渡りに船と即座に了承しました。当時NTC取締役の一人S氏は、われわれの中央学園高等部在籍以前の高等部技術部長で、雲の上の存在のような同氏に後になって私の結婚媒酌人になっていただくことになるとは、その時は夢にも思いませんでした。ましてや20年後、私がS氏の後塵を拝し同じ役職に就くことになるなど神のみぞ知るでした。

 NTC入社直後の1964年春、大手通信機メーカーの仕事でインカの国ペルーと共に夢にまで見たアステカの国メキシコへ出張することになりました。海外渡航自由化前の当時、外国へ行けるのはごく一部の人に限られていたので、在学中の「東京スペイン語学院」の生徒たちにはたいへん羨ましがられ、学院長の瓜谷良平先生にも必要渡航書類作成等でたいへんお世話になりました。出発当日は高等部の同級生や友人・親族が羽田空港で万歳三唱して見送ってくれ感激しました。同じ機内に、その年の秋開催の東京オリンピックへ備えてメキシコでの高地トレーニングへ向かう、マラソンの君原健二選手が乗っていたのを覚えています。

 メキシコでの仕事はマイクロ無線の置局調査でしたが、生まれて初めての海外渡航は見るもの聞くもの全てが新鮮で、週末を利用しては一人で遠距離バスに乗りメキシコ各地を旅行しました。私のスペイン語がなんとか通じたのが嬉しくてたまらず、予定の2か月が過ぎても全く日本に帰る気はしませんでした。ただその当時の私のスペイン語は、日常生活がなんとか送れる程度で、読み書き、特に書く方は全く自信がありませんでした。
メキシコから帰国後、再度のメキシコ、ベネズエラ、トミニカ等、足掛け10年に亘りスペイン語圏で仕事をしましたが、いずれも短期間の現地調査業務が中心だったので、会話はほとんど不自由しませんでしたが、読み書き能力は相変わらずでした。

 そのころから日本のODA(政府開発援助)に電気通信分野が大きく取り上げられ、日本近隣の東南アジア諸国、更に遠くアフリカ諸国へと援助が拡大されて行きましたが、アメリカの裏庭中南米諸国には及ばず長い間NTCの出番はなく、したがって私のスペイン語が役立つこともありませんでした。それに私の仕事もいつしか本社管理業務が多くなり次第に現場から離れ、仕事上ではスペイン語とはほとんど縁が切れた状態が15年近く続きました。

 その後1996年、久しぶりに現場に戻りタイのバンコックで大手商社が受注したCATV網建設工事の前線指揮をとっていた時、現在私が非常勤役員をやっている会社の当時の社長から、しばらく南米コロンビアの電話会社の仕事をする気はないかとの国際電話がありました。その頃のNTCは社長方針で海外コンサル業務から撤退していたので、もともと海外志向でNTTから転職した私はちょうど良い潮時と思い二つ返事で引き受けました。バンコックでの仕事の区切りも良かったので久しぶりのスペイン語圏の仕事に胸を躍らせ、即座に30年余り世話になったNTCに辞表を提出し、タイから日本帰国の一週間後にコロンビアの首都ボゴタへ向けて飛び立ちました。


 コロンビアでの私の仕事は、同国電気通信公社と日本の大手商社が合弁で設立した電話会社の技術顧問、具体的には同社が日本企業や現地業者に発注した、内陸部のB州とカリブ海に面したC市の電話回線建設プロジェクトの技術責任者でした。この会社ではコロンビア人副社長を除いて英語が通用せず、日常会話はもちろんのこと社内外の文書のやりとりは全てスペイン語でした。社長は東京外語大出身の格調の高いスペイン語を話す人で、彼とは当初プロジェクト実施法を廻って意見が対立し激論となりましたが、そのことがきっかけでかえって相互理解が深まり、私に運転手付の新車や、一度は社長宅にしようと考えた高級マンションを提供してくれた上、専任の秘書までつけてくれました。特に秘書は私が直接面接し、気に入った人間を採用してかまわないとまで言ってくれるなど実質的な副社長級の処遇でした。

 秘書の採用にあたって私はコロンビア人には数少ない英文作成力を重視し、みずから英語試験問題を作成し応募者数人と面接した結果、幸いコロンビア国立教育大学卒の若い優秀な女性を採用することができました。彼女の主な仕事は、私がドラフトする英文のコレポンやレポート類を西訳、編集することです。ところがしばらくして仕事に慣れてくると、コレポンやレポートは内容が定型的で、この程度の文章なら私が直接スペイン語で原稿を書き、それを秘書に添削させた方が、より正確に私の意図が伝わるのではないかと気づき秘書に相談したところ、彼女もその方が早くて良いと言うのです。この方法は正にスペイン語の家庭教師が一日中私の隣にいるようなもので、私にはまたとない作文力を身に着けるチャンスとなりました。

 更に幸いだったのは同じオフイスにスペインのマドリード大学に留学し、かって日本の外務省の嘱託として、来日したメキシコ大統領の通訳をしたことのある、スペイン語に天才肌のU氏がいたことで、彼には仕事を離れてスペイン語の下世話や、教科書にはないかなりきわどい話などを教えてもらいました。釣りの名人でもあったU氏とは、仕事を離れてもコロンビア人部下たちと共にアンデスの渓流にしばしば鱒釣りにでかけるなどして、それは今でも忘れられない想い出になっています。

 その他のスペイン語勉強法としてコロンビア滞在中の3年余り、毎日必ず現地有力紙を読み主要記事をスクラップすると同時に、コレポンの参考になる表現をメモしました。また小中学生向きに易しく書かれたコロンビアの神話・民話などの本を何冊も読んで、長文に慣れるように努めました。これらのことは当時コロンビアが内戦状態で、夜間外出自粛などで余暇を持て余していたからこそできたことで、日本にいては飲み会など誘惑が多くとてもそんな時間は作れなかったと思います。世の中何が幸いするかわかりません。

 私のコロンビア滞在中、仕事の関係者が何人も日本からやってきましたが、彼らの多くは英語がほとんど通じないコロンビアになじめず、短期間で仕事から去って行くのを見て、なんともったいないことをすると思ったものです。せっかく自然は美しく、人々は親切で、日本人好みの美人が多いコロンビアで働けるチャンスに恵まれたと言うのに、と。私の場合、あまり居心地が良かったので当初2年の契約が3年半近くに迄延びてしまいました。

 ただ後年コロンビアから帰国し反省したことは、滞在中にもう少し文学関連の本を読んでおけば良かったと言うことです。新聞などをある程度読んでニュース記事に慣れてくると、なんだかそれでスペイン語が分かったような錯覚に陥り、自分の語彙不足に気付かなくなってしまうからです。帰国後スペイン語学校でラテンアメリカ文学をやり始めて気付いたのは決定的な語彙不足です。

 新聞記事はコロンビアに限らずどこの国でも平均的な読者層を対象にした政治・経済・社会などに関する報道が主なので、使用する語彙もある程度限られていますが、人間の心の問題を扱う文学には抽象表現が多く、そのため使われる単語にも非日常的なものが多々あり、勢い辞書と首っ引きになってしまいます。この歳になって電子辞書とは言え、頻繁な辞書引きは正直なところシンドイのですが、少しはボケ防止に役立つのではと同年代が多いクラスメートと励まし合っています。

 現在通っているスペイン語学校の総生徒数は300人余、総クラス数は32で、その90%余りが初級・中級クラスです。上級クラスの数はわずかに2クラスのみで、私の所属するクラスの生徒数は私を含めてわずか5名。上級クラスほど60代、70代の熱心な生徒が多く、以前は中南米諸国やスペインを舞台に活躍した大手商社、石油会社、電機メーカー等のOBで、仕事を通してスペイン語の魅力にとりつかれた人々がほとんどです。中には本場仕込みのフラメンコダンサーや、スペインワインの女性輸入商等の変わり種もいます。

 よく「芸は身を助ける」と言います。外国語が「芸」にあたるかどうか分かりませんが、私の場合、若いころ南米への憧れで始めたスペイン語が、晩年になって身を助けてくれたのは事実です。もし私にスペイン語と言う「芸」がなければ、60歳を過ぎて長期間、単身で南米に住む気にはとてもなれなかったでしょうし、したがってコロンビア在住中の余暇を利用して、若い頃からの夢であった天空の湖チチカカやインカの空中都市マチュピチュなどを訪れるチャンスもなかったでしょう。

 また、ほとんど仕事を離れた現在でも毎週学校へ通い、先生や同年代の仲間とスペイン語圏諸国の自然、歴史、地理、文化について語り合うなどして、スペイン語が私の晩年の生きる支えになっていることも事実です。私がスペイン語に関心が無くなる時は、生きることにも関心が無くなる時でしようか?
                                        以上