『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

人生のバネ

2009年05月31日 16時13分36秒 | 航海日誌
もう、20年数年前、取材で大分県杵築にあるミュージシャンの南こうせつさんのお宅へお邪魔したときのこと。音楽の話ではなく、畑づくりをしながらのライフスタイルについてのリポートだった。夕方まで取材にお付き合いくださったうえ、夕食までご馳走になった。上海蟹以外は、自宅で取れた野菜で、本当に美味しかった。地酒まで出してもらって上機嫌になっていると、さらに意外なお誘いを受けた。後で近所に住む禅宗のお坊さんが訪ねて来るので、会ってみますかと。修行を積んだ高僧で、話を聞くだけでもいい機会だといわれ、即座にお願いした。

現れたのはお歳が80に近い、柔和な風貌のお坊さんだった。一緒にいたカメラマンのI君に、あなたはお酒が飲めないねと言い、胃腸が少し弱いようだからこうしたらいい、後は何も心配はいらないとアドバイスした。彼は目を丸くして、そうですかと。次いで、私の番。「う~ん、君は、仕事のことで悩んでいるな。上司に反発して押し返そうとしているね」

びっくり驚きの、ぴったしカンカン。ずばり悩みを言い当てられ、その通りなんですと答えた。当時、27歳の私は直属の上司に編集方針のことで反発していて、これ以上もう我慢ならんというピークに達していた。どうすればいいのか悩んでいた。すると、高僧はこうおっしゃった。
「あのな、クルマにバネというものがあるね。バネのようにグーンと押されなさい。君はまだ途中で押し返そうとしているよ。最後まで押されれば、それだけ力も出る」

その短い言葉が、すーっと腑に落ちた。そのときの私にとって実に的確なアドバイスだった。高僧というのは、相手に必要なことを伝わり易く語るものだと感じ入ったものだ。その言葉を肝に銘じ、さらに興味は尽きず、質問をした。どうして、それが、わかるのですか? すると、高僧は笑って、君の身体から出ているエネルギーを読んだのだと言われた。大きく出ているが、左に偏っているから、そのバランスが良くなれば大丈夫、しっかりやんなさいと。

東京へ戻り、本気で押され切ろうと思った。3年務めていた編集部に、さらに3年いた。その3年が残りのバネだった。編集チーフを任されるようになり、取り組みたかったエコロジーというテーマをとことんやらせてもらえた。よく、若造のヘコたれバネにお付き合いくださったものだと、そのときの上司に今でも感謝している。あのときのカメラマンI君は、今も同じ会社で働いている。彼のバネは強く太いのだろう。とにかく、人生のバネというものがあり、自分は精一杯と思っていても、まだまだ、びよ~んと伸びているものなのです(笑)


真似る大切さ

2009年05月30日 15時05分10秒 | 合氣道のすすめ
合気道の稽古は、まず師範が道場中央で技の手本を見せる。取り(師範)が、受け(黒帯の上段者)に技を掛けるところを、生徒たちは黙って観る。その際、言葉による解説は余りおこなわれない。間合い、身体のさばき、技のかけ方といった一連の展開を、生徒は観ることに徹する。これを「見取り稽古」と呼ぶ。どの武道でも、見習うことの大切さを教えるが、合気道は、これを徹底させ、毎回、その形式でもって稽古をしている。

職人が、弟子に「観て覚えろ」ということと同じである。いきなり初心者に理屈を解いても理解に至らないからだ。たとえば鮨職人でいえば、親方が握る姿を丁稚(でっち)が見続けて、何年かすると、おい、握ってみろとなる。丁稚は、親方の姿を見て、全体から細部までの動作を頭に焼き付けていて、何となく格好ができる。鮨は指先だけで握っているのではない。身体全体でとるリズムもある。指先をこうしてああしてと教えたところで、旨い鮨は握れない。

習う(学ぶ)ということは、真似るのである。初心者を「見習い」と呼ぶ意味はそれだ。師範の、親方の、その技を徹底して見習うのである。「技は観て盗め」とも言う。つい、言葉で教わりたがることへの注意であるが、言葉でわかったつもりでも、できるものではない。むしろ言葉が邪魔をする場合が多い。

現代人は、とくに若者は情報入手が当たり前となっている。聞けばすぐに教えてくれるものと思っているから、すぐ質問する。脳科学の養老孟さんが、自著『バカの壁』で「今の生徒はすぐ答えを求める」と述べていた。答えがすぐに出ると信じ込んでいると。ABCは、答えではない。記号だ。なぜ、Bという解なのかの理解に至ることが学びなのだが、即席に慣れてしまってBと知って満足してしまっている。

まあ、批判してもなんぼのものかだが、とにかく、現代は見習うことが難しくなっているのではないか。言葉情報なしで、何年も観て覚えるなどといった面倒なことをやりたがらない。基礎を作らないで、オリジナルを先走って求める風潮が出来上がってしまったのが昨今だ。だが、世界に冠たる一流の若者もいる。野球のイチロー、ゴルフなら石川遼、スキーなら佐藤愛と、凄い選手が出ている。彼らはいきなりそうなったのではないだろう。才能がちがうと人は言うが、才能を開花させるまでの努力の積み重ねがちがうとはなかなか思わない。自分が手本とする選手の基本を何年も見取り稽古しつつ、淡々と滋味な練習を重ねて、その結果が凄いのだ。

合気道の話に戻ろう。合気道の稽古は地味である。師範の技を見取り、それを真似て稽古を繰り返す。派手さもない。試合もなく、勝った負けたの結果もない。しかし、「見習う」という、稽古の大基本をマスターして技を習得していくので、心身の鍛えられ方が格別なのだ。石の上にも三年で、見取るという習慣を身に付ければ、観察力が鍛えられている。これは凄い。言葉に頼らないから、吸収力が早く、理解力も高まり、超人になれる。ただし、地味な稽古をコツコツ30年も続けられればの話。超人はさておき、それぞれの人生を歩むうえで、善いものを「見習う」感覚を身に付けておけば、終生素直な生き方ができよう。合気道を薦めるゆえんである。


思わぬ展開5

2009年05月29日 17時01分17秒 | 未知への扉
山々に囲まれた高野山という聖地は、母体(子宮)だと、昨日の記事で書きました。そういう超自然的な空間を、空海さんは創ったのだと。そして、開山の20年後、承和2年(835)3月21日、62歳のときに即身成仏されました。後世、人々を救済せんがため、この世にとどまると約束されて。

私は、女人道のろくろ峠から高野山を見下ろしたあと、金剛峰寺に戻り、そこから参道を歩いて弘法大師御廟へ向かいました。500m程進むと、奥の院参道へ渡る一の橋があり、杉の巨木並木の中に延びる参道に沿って、供養塔が並んでいます。その約2キロ進んだ最奥に、弘法大師御廟があり、次いで皇室や貴族、法然や親鸞など各宗派の開祖、それから上杉、武田、織田、伊達、豊臣、徳川家といった名だたる戦国武将と一族、また後の諸大名家、文人、庶民などの供養塔が累々と建ち並び、荘厳な世界を創っています。

さて、一の橋を入ってわりとすぐ、鎌倉時代の曽我兄弟の供養塔がありました。源頼朝の世で、親の敵討ちで悲運をとげた兄弟の物語は歌舞伎の演目でも知られています。私からすれば、これもまた源氏の因縁に思え、ここから感謝供養が始まりました。その後は手を合わせながら、参道を歩きました。弘法大師御廟までは、約2キロの道程です。途中の中の橋まで来ると、もう夕刻で時間がありませんでした。御廟は朝のうちにお参りを済ませていましたから、途中で引き返しました。帰路もまた、「生かして頂いて ありがとう御座います」と唱えながら歩き、そこでふと気づいたことがありました。

皇室から武家、庶民に至るまで、ひとつの場で供養されている所がほかにあるだろうか。この供養塔の並ぶ参道は、母体の中心であり、どんな人間も一切の苦難から解放されて和合しているのだと。高野山にのぼる前日、金沢の倶利伽羅峠で源平和合を祈ったばかりでしたから、心底、奥の院に感応しました。ああ、自分はここへ導いていただけたのだと、言葉で尽くせぬ感謝の念が湧き上がりました。人は母体から産まれ、また、母体へ帰ってゆくのです。その道程で、高野山を体験するということは、忘れているなにかを思い出すことなのかも知れません。「生きているうちに気づいたら幸い」と、そのための道場なのだと思いました。

高野山では、なにも奇異なことは起こりませんでした。なぜなら、ここは和合浄化されている聖地だからです。ふしぎ奇異は、サインです。知らせです。奇異に、それ以上の意味はありません。往々にして、奇異を求めるものですが、そこから導き出されることに気づかなければ意味がないのです。高野山で何事もなく、気持ちがスッキリ静まるということそのものが、ふしぎなのです。あれほどの戦いをした、諸大名が仲良くいっしょに供養されているのですからね。それこそが、奇跡をみたのだと思えるのです。
(おわり)


思わぬ展開4

2009年05月28日 10時05分10秒 | 未知への扉
もう7年ほど前のことですが、ある雑誌の取材で、単独で四国八十八ヶ所を回ったことがあります。お遍路さんの話を聞きながら、初めと途中と最後のお寺へ寄っただけの一週間でしたが、私も金剛杖も持ち、気持ちだけはお遍路さんでした(笑)。

そのときのエピソードで、四国入りした当日の夜のことでした。安ホテルの部屋に入り、金剛杖を入り口脇に置き、缶ビールを飲んでそろそろ寝ようとしたら、パタンと、杖が倒れました?・・・! 流儀を忘れていました。一日の終わりに突いた杖の先を洗うのです。金剛杖には同行二人と書かれ、空海さんの化身なのです。無礼を詫びて、すぐに杖を洗い、窓辺に立てかけて寝ようとしたそのとき、7階の窓に人影が映ったのは、編み笠をかぶり袈裟を着た人でした。あれ?と思ったら、またチラリと見えました(笑)。それから夢をみて、般若心経の一節の意味を語り聞かされました。夢の中では、あの難解な言葉の意味がハッキリわかったのですが、起きたら忘れていました。凡夫はそんなもんですね。そのとき忘れてはならじと書き取ったノートを探したのですが、見当たりません。色即是空の部分ではなく、どこだったか・・・感触だけが残っています。

まあ、そういった個人的な体験というか、ふしぎもありながらの、今回の初めての高野山参詣でした。どうも、ふしぎを道標に歩いてここまで辿り着かせてもらえたなという。またしても、毎度の有り難う御座いますです。

さて、高野にての話でした。泉鏡花が「高野聖」を書いていますが、誰か、聖(ひじり)は。私なんですね。ということは、ゆく者のすべてが、そうであるように。俗世の言動も何も関係なくあり、そうなんです。極悪も非道も善行も正道も何もかもが仏道であり、生きている生かされていることのよすが。現世の縁(えにし)というものと、解かれる。難しい言葉の羅列ですが、かんたんにすれば、いいのよ、そのまま、思い切り、みたいな話です。ただ、そのあんたの人生に悔いを残すなみたいな。何かのせいにするなら、自分のせいにして、そうならそうで思い切り好きに生きよ、です。

なぜ、そう言えるのか。今回、高野山のデザインを見たからです。凄い! もの凄いと。そのキーワードは、女人道にありました。かつて女の性の方々は、寺院領内への入場が許されなかった。だから、女人堂まで行って、そこから高野山を周遊する山中の女人道を歩き、外側からぐるっと高野山を眺めまわったのです。それが凄いと思うことの第一でした。なぜなら、高野山は菩提であり、母体であり、その中に空海さんがおわして活きることができ、その周辺を女人が囲むのです。空海さんは、そういう空間を創った。

女人道の一部を歩いて、女人道の轆轤(ろくろ)峠に暫く座り、そう感応しました。ああ、ここに母体あるいは子宮と呼べる空間を創ったのだと。今流に言えば、マザーアース、母なる地球のミニチュア版ですね。寺院領内は母体ですから、女性が入る必要がないのだと。女性差別などという次元ではない。空海さんは1000年後の世界を見据えて、それを創ったのだと感じたのでした。それではなぜ、そのようなものを生む必要があったのか。それについては、また、次回に述べさせて頂きたいと思います。


思わぬ展開3

2009年05月27日 11時30分22秒 | 未知への扉
金沢から大阪へ出ますと、さすがにマスク姿が増えました。先週からの豚インフルエンザ騒動で皆さん大変でしたからね。我々、取材チームもマスクを着用して南海電鉄に乗り、和歌山の高野山へ向かいました。高野山は2004年に世界遺産登録されてから外国人が増え、車内も半分は海外からの旅行者でした。

さて、起点の橋本駅から、各駅電車に乗り換えて山間の路線を楽しみながら、高野山を目指しました。どんどん急坂になり、谷間を見下ろしながら杉木立の中を走ります。その昔は、麓の九度山にある「慈尊院」から、町石道を歩いてのぼったそうです。この参道は空海が開いた道で、180町(約20キロ)。1町ごとに道標の五輪塔が建てられています。歩きたいという気持ちはありましたが、今回は電車の旅がテーマ。極楽橋駅から、さらにケーブルカーに乗り換えて、高野山駅に着きました。

高野山は標高1000mほどの山上の盆地に、金剛峰寺を中心に寺院町が展開しています。天空の宗教都市とも呼ばれ、幼稚園から大学まである約3000人が住む町です。話には聞いていましたが、こんな山の中によく造ったものだと、感心するばかり。空海さんが開山した弘仁7年(816)からは想像もつかない風景で、約1200年の歳月をかけて今があるわけです。

当日はすでに夕方となり、すぐに宿坊へ向かいました。狩野派の見事な襖絵がある部屋で精進料理をいただき、般若湯(お酒)も舐めて就寝しました。さて、どんな夢をみることやら・・・明け方、何か夢をみていたはずですが、よく覚えていませんでした。5時起床、6時から勧行で本堂へ参ります。僧侶が唱和する真言宗の声明(しょうみよう)が堂に響き渡り、心地よいものです。弘法大師空海は、即身成仏した後も、この世にとどまり人々を救済するとされました。奥の院の霊廟へ毎日、僧侶が食事を運んでお世話しているということです。ですから、高野山では、空海さんは活きているのです。ここでは、空海さんが浸み渡っている、そんな気分がしました。まさしく「生かして頂いて ありがとう御座います」の気持ちでした。


思わぬ展開2

2009年05月26日 13時24分47秒 | 未知への扉
昨日の記事で、石川と富山県境の倶利伽羅峠の話を書きました。そこは「くりから古戦場」で、源氏の木曽義仲が平家を討った「火牛の計」の地でした。では、なぜ私が、その地で源平和合の祈りなどをしたのか。少しご説明しますと、郷里広島の石内村に先祖代々住む我が本家は、源氏とゆかりのある家だからです。

源範頼(頼朝の弟)は、平家追討の大将として義経と共に戦い、最終決戦を壇ノ浦で迎えました。その出陣の手前で本家に陣を張ったと伝承が残っています。陣を張るとは、戦いの前に休息を取り作戦を練り、武具などを修繕し、物資を調達する期間のことです。本家でそれらをおこなったということは、まあ、源氏方ということになります。明治時代、地域の八幡宮に合祀されるまで屋敷地に「範頼神社」を祀っていたと聞いています。

そういう謂われのある家ですから、源氏方の末裔として、平家供養・源平和合を祈るのは、当然の事と思っています。日本の歴史の中で源平の時代ほど戦火が絶えなかった期間はなく、また、その因縁は各地に及んでいます。千年も昔の話ですが、やはり浄化の「感謝供養」は必要なことというのが私の考えです。私はシャーマンではないので、ご神託が降りるということはありませんが、それでも昨日書いたように、不思議な導きはあります。縁あって旅する地には、そういう場所があり、そういう場合は素直に供養させていただいております。

私はどこかの宗教組織に所属する者ではないので、シンプルに「感謝供養」をおこなうだけです。この供養は、今、自分が生きておられるのは、敵味方に関わらず、すべて先人の方々のお陰あってのことと、「生かして頂いて ありがとう御座います」と感謝の念を送るのです。この感謝想起の祝詞(のりと)は、伊勢白山道という方がブログで紹介しておられ、それに感応して以来、使わせて頂いております。シンプルですが、とても深い祝詞で、唱えるとスッキリします。ですから、ある意味、自分がスッキリするために奏上しているような節もあります(笑)。また、生きている者どうしでも、心底から「ありがとう」を言う方に出会うと、とても嬉しい気持ちになりますね。自分もそうありたいと思いながら旅をしているということにもなります。さて、明日は、高野山で感じた話をさせて頂くことにしたいと思います。


思わぬ展開1

2009年05月25日 23時37分17秒 | 未知への扉
雑誌の取材で、上野駅から夜行急行「能登」に乗車して新潟経由で金沢へ出て、そこから今度は大阪経由で、和歌山の高野山へという4泊5日(車中1泊)の旅をしてきました。久々の旅らしい? 旅でした! また、初めて高野山へのぼるというスペシャルな内容でしたから、どんな展開になるかと、まあ、期待しすぎることなく、成るように成るだろうといつもの感じで出かけました。

上野駅を夜11時33分発、金沢には6時29分に到着です。この列車「能登」は昭和40年代製造の懐かしいボンネットタイプでした。昭和という過ぎ去った時代が蘇って、時間旅行の気分に浸りました。金沢で1泊して翌朝は、4時起きで北陸本線(倶利伽羅~石動間)の撮影ポイントへ行き、今度は、その「能登」の雄姿を写真におさめることになっていました。

さて、金沢に着いた当日、撮影現場へロケハンに行ったときのことです。レンタカーで倶利伽羅峠に向かっていると、「くりから古戦場」という観光看板が目に入りました。編集者のOさんが、なんの戦いでしたっけ?と言うものですから、この辺は戦国時代の柴田だったかなと適当なことを答えていましたが、真剣に記憶をまさぐり、くりから・・・聞いた覚えがある・・・ふと、木曽義仲の名が浮かび、源氏の戦いだったと思いますと答えましたが、不確かでした。

倶利伽羅トンネル前でカメラマンのMさんが、明日の早朝「能登」の姿を撮るための撮影テストを終え、さて帰ろうとなって、クルマに乗り込みました。すると私の運動靴の底から変な匂いが漂っていました。見ると、右片方の底にべっとりと何かの固まりがついていました。ワラが混じった牛のクソです。トンネル周辺は稲を植え終わったばかりの水田です。今は農耕牛など見当たりません。なんでこんな所に牛のクソが? 踏んだ覚えも全くありません。小石でこそいでもガムのように取れなくて、コレなんなんだあ!です。

ホテルに帰り、ひと風呂浴びて、ふと「くりから古戦場」が気になり、ホテルの無料インターネットで調べることにしました。すると古戦場は、やはり木曽義仲の戦いで、源平の合戦場でした。しかもです。義仲が牛500頭を平家の陣に追い立てて大混乱させ、地獄谷に18000騎を追い落とした「火牛の計」と呼ばれる合戦だとありました。それを読み知って「!」でした。なぜ、靴底に牛にクソがついていたのか・・・偶然にしては、余りに不思議でした。私はよほど牛に縁が深いのか、要所要所に牛が出てきます。また、今回も・・・

翌朝、4時に起きて、倶利伽羅トンネルに向かいました。カメラマンは撮影に余念がなく、私はその横で、源平合戦の供養をさせてもらうことにしました。田んぼの脇に、昨夜飲まずに我慢したお酒の小瓶を二つのミニカップに別けて供え、線香代わりの煙草を二本立てて、源平和合を祈り、感謝供養をしました。大まじめにそんな供養をしている私を、横目でみながらも許してくれた編集者とカメラマンさんは、度量の大きな人たちだなと思いました。

あとで二人に、「今回は何かあると思っていたのですが、まさか牛のクソから知らされた源平合戦、火牛の計だったとは、自分でも驚いているんですが、ね、訳わからないでしょ?」と話すと、私と初仕事となる今回のスタッフは、「そういうことってあるんですね」と、あっさり理解してくれたのでした。むしろ、とても興味をもって話を聞いてくれる方々で、うれしくなりながら、その翌日はいよいよ初の高野山へ向かったのでした。


宮古島のシャーマン7

2009年05月20日 14時38分23秒 | 宮古島のシャーマン
ここからは、宮古島のシャーマン1まで、
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1997年春に初めて宮古島を訪れて、カンカカリャNさんに会って以来、これまでの12年間で10回ほど島へ足を運んだ。毎回、相談をしに行ったのかといえば、そうでもない。宮古島がすっかり気に入って、毎年のように行きたくなるのだ。行けば、挨拶がてらNさんの家に顔を出して、最近では雑談まじりの話を聞いて来るといった感じである。

とはいえ、当初は先祖事で相談して、それを自分なりに実行してうまくいったか、次ぎに何をするべきかのアドバイスをもらっていたものだ。そのすべてが出来たわけではないが、努力はしてきた。Nさんからは、いつ行っても「こうしろ、ああしろ」といった強制的な物言いはなく、あくまでも自分次第が原則となっている。だからいつも、分からないことを聞くといった姿勢である。ご神託を得て、安心するといった感覚とは違うのだ。

かつて、Nさんは私にこう言った。
「道というのは、前にはないんだよ。自分で歩く道が、人生の道になっていくんさね。だけど、生まれる前に選んだ、自分のほんとうの道をいうのがあるんだよ。その道を歩いてね」

その言葉が、すべてのアドバイスを集約しているのだと思う。どんな道を歩くのも自由だ。しかし、歩く道をたがえるなと。その道は、自分の道かと、しっかり自分に問えば、自ずと答えは出るものだ。ただ、邪念・雑念が入り交じるから道が見えにくくなる。そんなときにヒント・アドバイスをもらいにNさんに会う。そんな感覚だが、戒めがある。「頼るな」ということだ。Nさんが答えを出してくれるのではない。頼ると、自分のほんとうの答えが霞む。また、遠回りの道を歩むことにもなる。

道はひとつではない。さまざまな道があって、でも、誠心誠意で一生懸命に歩いていれば、辿り着くところは同じなのだろう。どの道が正しいというものでもない。迷えば、立ち止まればいい。引き返してもいい。ただ、歩んでいる自分をつまらないと思わないことだ。歩んでいることを楽しめれば最高だと思う。人ぞれぞれに、人には語りきれない思い、悩みが星の数もあるだろう。それを幸多かれとするには、感謝の念が最大の道しるべだ。自分の親、兄弟、親類、縁者、友人知人たちのすべてに向けて、感謝の気持ちを捧げ、先祖に対して「生かして頂いて ありがとう御座います」と心底思うようになれば、道は必ず開けてくる。宮古島で私は、そういうことを学ばさせてもらい、いまがあると思っている。振り返れば、そういう道が自分のうしろに続いている。目の前に、まだ道はない。
(おわり)


本日、5月20日から、旅に出ます。日本海側へ出て、新潟、富山、石川を通り、金沢から和歌山の高野山へ向かいます。ルートはそうなっていますが、私としては、白山へ赴き、そこから高野山へ向かうと感じています。もう何年も前に、四国お遍路で一周したことがあり、弘法大師空海を観じるという経験をしましたが、まだ、高野山へは行けていませんでした。遍路の納めは、高野山へのぼることで満願となると聞いておりましたから、この時期に行かせていただけるということを好機と感謝しております。この旅は、いつものように表向きは取材名目です(笑)。帰りましたら、また、旅の話をさせていただきたいと思います。


宮古島のシャーマン6

2009年05月19日 14時25分28秒 | 宮古島のシャーマン
実はNさんは、20年ほど前に、NHKのスペシャル番組「養老孟の脳の宇宙」で、取り上げられていた。なぜ、シャーマンは特殊な能力を持つのか、脳科学の立場から検証しようという内容だった。その番組でも結論はない。ただ、ご神託を述べる御声(うくい)の最中の脳波が通常と異なるといったデータ結果だけが示された。

その番組で紹介されて以来、本土からの相談が増えたようだ。カンカカリャNさんのところへ相談に来る者たちは、やはり相応の問題を抱えている。島内の人なら、ちょっとした相談もあるだろうが、私たちのように本土から訪ねる者の場合、長年にわたって悩み続けている大問題を抱えている者も多い。その悩みは人によって様々で、霊的な影響などで身体に痛みが出る人もいれば、ノイローゼ状態の人もいる。そのような人は病院通いや、ほかの霊能者を巡って、それでも原因が取り除けず、ついに宮古島までやって来たというケースもある。「ここに座っておっても、忙しいんさね。悩みを抱えた人が毎日のように来るからね」と言って、Nさんが笑みをこぼした。

本土からの相談者の場合、悩みが重いこともあり、相談時間は数時間にわたることが多い。大抵が午後2時から始まり、夕方までかかる。だから、一日の相談は、1組か2組だ。相談料という決まったものはない。村の人なら、御声だけを聞いて、はい、わかりましたと納得して、線香代として気持ち程度の謝礼を置いて帰る。一時代前は、魚や野菜の場合もあったようだ。本土からの者は、何時間もの相談だから、自分で判断して、それなりのものを包む。だが、決してNさんから、幾らだとは言わない。

カンカカリャは、金の事を口にしない。そういった神との約束があるようだ。金儲けにすると、道を外すことになるからだ。正神が離れ、その与えられた能力が消えていくことになる。カンカカリャといえども、人の子である。中には欲に負ける者もいるかも知れない。そこが正に厳しい分かれ道となるのだ。

世間には、料金看板を掲げる霊能者も多い。時間で何万円と明示する所もざらだ。儲ける気になれば、旨い商売である。心底、困った者は金で済むならと払う。だが、金を喜ぶ邪神に寄りつかれ、目前の問題は一応、解決したようでも、後で何倍返しの請求書が来ることになる。最後は身ぐるみ剥がれる結果を招く人も世の中にはいるようである。また、そういう事に手を貸した霊能者も悲惨な末路を歩むことになる。

ただし、誠心誠意で祈り願い、その感謝の顕しとして、当人に無理のない金あるいは供物を捧げるのは礼儀である。御嶽や墓でおこなわれる沖縄式の祈りでは、沖縄線香(板状の大きな線香)や、焼き紙(紙幣の代わり)を燃やして、その煙を捧げる。その煙が立ちのぼり、祈る者の心を伝える。あの世で煙がお金に替わって、先祖や縁者の霊が使うのだと、Nさんは語る。
「私もね、線香代といってお礼をもらうと、いっぱい線香を買って燃やすさね」。渡された金を自分のことに使うのが躊躇われるからだと言う。お礼は、稼ぎとは言えない。それでも生活がある。生きていくためには使わねばならない。そのギリギリの選択を常に問われているのだ。

長々と金のことを書いたのは、カンカカリャ(シャーマン)の立場というものが、どういうことなのかという一面を理解してもらいたいからである。シャーマンについて書かれたもので、金銭についての解説は少ない。それに触れてはいけないといった感覚があるのだろう。どこか、タブーにさえなっている気がする。

恐らく、有料霊能者との一線もあって、金の話に触らないとしているのかも知れない。だが、ここであえてそれを書く意味は、相談者と霊能者との接点に金が絡み、それが陰で問題となっているという事実も知っておいてもらいたいからだ。どこかの霊能者の所へ相談に行って、相手から金銭を、それも常識外な額で要求されたら「怪しい」と考えたほうがいい。市中の手相・占いの類は別として、古来のシャーマンとしての立場を堅持する者は、自分から金を要求することはないだろう。ほんものの道を歩く者は、質素な暮らしをしているものである。
(つづく)


宮古島のシャーマン5

2009年05月18日 10時38分28秒 | 宮古島のシャーマン
この私も、父と先祖や墓の事を話し合うようになったのは、自分が結婚して後のことだった。それ以前は、仕事の事で精一杯で、自分が一人前になることしか考えていなかった。しかし、家族を持つようになって、妻の実家もあり、家と家どうしの付き合いの中から、改めて家系・先祖を考えるようになった。すると、止まっていたものが動き始めたのか、不思議なことが起こり始めたのだ。

フリーライターの私に、出版社から沖縄での取材依頼が入った。沖縄の自然と風水がテーマだった。カメラマンと二人で沖縄本島へ行き、風水研究グループのフィールドワークに参加させてもらった。その中にいた1人が宮古島から来ているシャーマン研究者で、N さんの話を聞かされた。それが宮古島へ行くきっかけになったのだ。

そのシャーマン研究者は、Nさんにこう言われたそうだ。「2月25日に那覇に行きなさい。そこに導く人べき人と会うはずだから」。そう言われた研究者は、雲を掴むような気分だったという。だが、その人はNさんについてシャーマン研究をしている立場から否定はせず、言われた通りに行動し、琉球大学の研究グループと合流して、その中に私がいたというわけだ。その頃、私はそんなことはつゆ知らず。それを後で聞き、なんとも神妙な気分になった。そもそもが、私の守護霊が宮古島へ飛んで、私を導き、助けてほしいとNさんに頼んだというのだ。また、その後で私自身の霊も飛んできて、Nさんの前に現れていたという。

こういった話は、大抵がまゆつばで聞くものだ。そんな事ありえないと誰しも思うだろう。先祖探しの犬の話もそうだが、宮古島への始まりが、そんな奇異な展開からだったのである。そして、その後も、ぴるます(宮古言葉で不思議の意)体験が幾つも続いている。体験だから、細部にわたって覚えているし、時系列で並べても何の矛盾も起こらない。全部が意味的に繋がっているからだ。あるミステリ作家に、本にするための原稿を読んでもらったら、「物語の展開に矛盾はないが、これは小説なのか?」と問われたものだ。私は、その自分の体験を物語として『ソウルボート/魂の舟』(平凡社)という本にまとめたが、それはほんのさわり部分だ。だから続編があるし、生きている限り、それは今も続いている。人生とは、自分で読む気にならなければ、バラバラで意味のよくわからない物語なのである。
(つづく)


宮古島のシャーマン4

2009年05月17日 18時29分30秒 | 宮古島のシャーマン
父は広島から、私は東京からそれぞれ飛行機で宮古島へ飛び、空港で落ち合った。翌日、昼間の2時に宮古島市内にあるNさんの家へ伺った。牛買いの先祖の件もあるが、山上にある代々の墓問題を抱えていた。その山はすでに開発業者に譲渡していたから、墓を移転する問題が残っていた。これをどうしたらいいものか、その相談だった。

「墓は簡単じゃないんだよ。動かすと、みんなを起こすことになる。古い墓なら、いったい何人の先祖が眠っているかわからんでしょ」とNさん。
「土地はもう人手にわたっているから、下ろさないわけにもいかんし」と父。
「これは困った問題を抱えたもんだね」
買い戻す方法はないか考えるべきだという結論だが、何千万円もの金もない。とにかく先祖に詫びをして、何とか努力するからと祈る。先祖のことは、その子孫がやらねばならない。

私の一家が抱えた墓問題は、Nさんに祈ってもらってどうかなるといった話ではないのである。Nさんからは、アドバイスをもらうだけで、それをどうするかは自分たちに掛かっている。代々の墓は、かなり古くからのもので、墓石だけを移転して済ませるわけにはいかないようだった。適当なことでやれば、村全体へも影響が出ると言われ、頭を抱えるしかなかった。

カンカカリャへの相談は、大抵が先祖事に関わってくる。最近では、「先祖ってなんですか?」と真顔で聞き返す本土からの若者もいるとNさん。核家族化がすすみ、祖父母や親族とも余り交流がない家に育てば、そうなっても仕方がない。また、自分がどういう家系から生まれたか、その親もほとんど話すことがないのだろう。家庭内に不和がうまれ、親子関係がうまくいかないのは、そうした根っ子の繋がり感覚が途絶えているからだと思える。先祖とは、今生きている自分たちの親のまた親であり、そのひと連なりの生命の流れなのだ。世界中のどんな民族でも、宗教以前に、先祖崇拝が基本になっていることを、私たちは忘れがちではないだろうか。
(つづく)


宮古島のシャーマン3

2009年05月16日 13時00分53秒 | 宮古島のシャーマン
「あなたには、あなたが生まれてきた大きな意味があるのよ。約束した使命がある。その道を歩きなさいね」
「僕の使命、ですか?」
「そう、それを忘れているのよ」
「忘れている?」
「まず、その牛を買いに行ってゆくへ知れずとなった先祖の供養をすることから始まるさね。その先祖と約束をしてあんたが生まれて来たんだからね。その先祖の供養はあんたにしか出来んから。それをしなさい。そうしたら忘れていることも思い出すさあ」

その先祖のことは、祖母から聞かされていた。何代か前に、広島から島根へ牛を買い付けに出たまま行方不明になったという。確かに、私はその先祖が子どもの頃から気になっていて、頭にこびりついていた。だから、その話が出て、驚いたのだ。Nさんには、その先祖の姿が見えるようだった。大金を持っていたから、山賊のような者に狙われ、県北のどこかの山中で殺され、埋められていると語った。時代は江戸末期だろうか。しかし、どうやってその場所を突きとめ、供養できるというのか。途方に暮れる話だった。

「ずっと気になっていた先祖なんです。供養したいと思いますが、どうやって探せるのか・・・」
「あんたは、犬に導かれるよ」
「犬が?」
「犬が現れて、その場所を教えてくれる」

Nさんが、確かなことのように、そう言った。それを聞いた私は、ハテナと思うばかりだ。だが、事実は小説より奇なり。2年後、私は本当に山に現れた犬に導かれて、山中へ案内され、その犬が鼻で土を掘り、その場所を示したのである。そんな話、信じられますか? 体験した者でさえ、まさかの連続で、しかし、事実なのだからどうしようもない。その山へは父も同行していたから、一人の体験でもないし、写真も撮ったが、父と犬がまるで旧知の仲にように並んで写り、しかも光り輝いていた。もう、映画か漫画である。

さて、その犬が掘った土中からは、のど仏ほどの小石が出た。それを骨として80キロ離れた実家の墓へ持ち帰り、無事に供養することとなったのである。そういうことを全く信じない父も、このときばかりは流石に腰を抜かさぬばかりに驚いていたものだ。そういう体験があって、父も信じるようになり、自分も後に宮古島へ赴いて、Nさんに会って礼を述べたのであった。
(つづく)


宮古島のシャーマン2

2009年05月15日 12時19分31秒 | 宮古島のシャーマン
「私らが偉いんじゃない。神さまのおっしゃることを伝えているだけだからね」とカンカカリャのNさんが言った。私らというのは、島にいるカンカカリャのことだ。さらに沖縄諸島全体では、ユタと呼ばれるシャーマンが、数のほどは定かではないが大勢いる。また、日本各地をみても、いわゆる霊能者と呼ばれる人々も数多くいるだろう。私ら、という物言いは、そのすべてを指しているとも思えた。

とにかく、私らが偉いのではないとNさんは言う。しかし、目の前で述べられるご神託は、当事者の心中を見透かしたような内容で、恐れ入るのだ。なぜ、それが判るのだろう? どうすればいいのかと。では、どのように、そのご神託が降ろされるのか、筆者の体験から実況を解説してみたい。

畳敷きの部屋に、祭壇がしつらえられている。Nさんの場合は洋タンスを改造した手作りの祭壇だ。Nさんは50代女性で、ふくよかな笑顔だ。少し雑談を交えながら名前と住所、生年月日を聞かれる。祭壇に線香を供え、宮古方言での祈りが始まる。どこどこのなにがしが訪ねて参りましたので、と、Nさんが繋がる神へ伝えているのだ。その後、十数分も祈りが続き、それから声の調子が変わった。同じく宮古方言で、旋律にのせた民謡のようなものだ。これは「御声(うくい)」と呼ばれ、神からの言葉を受け止めて、リズムにのせて伝え聞かせている。島民ならば、その御声を聞けば神託の意味が解るが、島外の者にはさっぱりである。島民はそれを聞いて納得して帰るという。

私の場合は、この御声が45分も続いた(取材用テープ録音で記録)。長い部類のようだ。声が止まり、「事故で亡くなった友人がいるでしょ。どこか暗闇に突っ込んでいくのが見えるけど」と言われた。まさしく、青年時代の無二の親友が夜中に造成地に止めてあったダンプに車で突っ込んで亡くなっていた。その彼が寂しがって会って話したがっているという。それから、「先祖で行方不明で亡くなった方がいらっしゃるでしょ?」と。これもまさしく、何代か前にそういう先祖がいて、祖母から話を聞いて気になっていた先祖だった。そのほかにも、あれこれと心中を貫かれるような話が出て、それらが、ひとつの物語のように繋がっていった。戸惑いから、これは冗談話ではないと思い至った。

実は私は、子どもの頃から不思議な体験があり、そういう話を聞いても余り驚かないのだ。妹の事故を予知したり、誰だか知らない声が聞こえたり、自分も霊媒体質があるのか、そういう事がたまにある。ゆえに、かえって用心深いところがあり、心眼を問うのだ。また、長年の雑誌記者経験から、言われるままを鵜呑みにはしない。Nさんへの眼差しもそうだった。しかし、このときは違った。ちょっと明かせない個人情報も多々あったのだ。とにかく驚くばかりだった。これは本物だぞ、というのが私の実感だった。約4時間にわたって、私の個人相談が続いたのである。
(つづく)


宮古島のシャーマン1

2009年05月14日 20時58分14秒 | 宮古島のシャーマン
宮古島は沖縄本島から南西へ約300キロ離れた離島だ。飛行機から眺めると、平たい皿を伏せたような感じの珊瑚礁の島である。ダイビングの好きな人なら馴染みのある島だろう。島民は約5万5千人。中心市街地は宮古島市(旧平良市)で、ちょっとした賑わいがあるが、港前の観光ホテルを除けば、ビルらしい高い建物は少ない。

街の中心地に、ガジュマルの大木が茂った場所があり、コンクリート製の鳥居が立っている。島の創世神、クイツノ(男神)・クイタマ(女神)を祀る「漲水(はりみず)御嶽(うたき)」と呼ばれる島の重要な聖地である。その中央にコンクリート造りの瀟洒なお社があるが、本土の神社の様相とは異なり、中には畳一枚ほどの四角い香炉台が置かれている。時折、その前に座って一心不乱に拝む女の姿がみられ、線香の煙がもくもくと立ちこめている。島内の村々にも大小さまざまな御嶽があり、部外者の立ち入りを禁ずる聖地も多い。

その御嶽が、島でカンカカリャと呼ばれるシャーマンたちの拝みの場だ。カンカカリャというのは、大和言葉に直せば、「神がかる人」といった意味である。多くは女性だが、生まれ持っての能力が備わった人が、ある時期がくると神がかる。だが、カンカカリャになるには前段階がある。ある日、いきなり高熱が出て動けない状態となったり、また、夢遊病者のようにもなって、平常の自由を奪われるという。その度合いや期間は人により異なるが、数ヶ月から数年も続く。民俗学では、これを巫女病(ふびょう)というが、その苦しさは想像を絶するといわれる。それがカンカカリャとなる扉で、「神の道を開く」と表現される。神の道を開き、カンカカリャとなり、神の使いとして生きるようになるのだ。

いつの時代からカンカカリャが誕生したのか、歴史には記録がない。島に人が住み始めたときからと考えるのが妥当だろう。幾たびとなく研究者らも訪れ、民俗学や宗教学の研究をしている。学術的には原始宗教とされるが、実際を知ると宗教と呼ぶには違和感を覚える。島の村内になくてはならない存在だが、宗教団体のような組織化された何かがあるわけではない。島内の祭りは、司(つかさ)と呼ばれる祭主と神女(しんにょ)らがおこない、カンカカリャの役とは一線を画している。

では、カンカカリャの役とは、なにか。筆者が12年前に出会った50代女性のカンカカリャNさんの言葉を借りれば、「神との通信役」だという。自宅の祭壇や御嶽に座して、神の声を聞き、それを伝える役目である。なにを伝えるのか。聞くべきことがある、縁のある人へ、その人がその時点で最も必要とされる話だ。それが、ほんの二言三言で終わる場合もあれば、延々と数時間にわたることもある。そして、それを初めて聞く者は、大方の場合、なぜ、それがわかるのだろうかと不思議な気持ちになるところから、体験が始まるのだ。
(つづく)


海の幸

2009年05月13日 19時26分10秒 | 航海日誌
沖縄・宮古島の友人が天然もずくを送ってくれた。彼は雑誌カメラマンで、12年前に私と一緒に宮古島を訪れ、宮古の強烈な魅力の虜になり、その数年後に移住した。もともと水中写真もやっていたから、陸での写真に終止符を打って、海専門で行こうと移り住んだ。当初は、鰹漁の船で漁師の見習いをして、海を覚えた。今では自分の漁船(和剛丸)の船長をしている。

宮古島の離島、池間島に住んでいる彼は兼業漁師だ。ダイビング客のあるときは、八重干瀬(やびじ)という広大な珊瑚礁帯へ案内して愉しませ、客のないときは、もずくを採ったり、グルクン(沖縄の県魚)を釣ったりして生活している。私も年に1度、宮古島を訪れて、彼に遊んでもらっているが、一週間など、あっという間に過ぎて、帰りたくない病にかかっているのが毎度の事だ。

宮古島は、神高い島、あるいは癒しの島と呼ばれている。私は、1997年に宮古島でふしぎな体験をし、『ソウルボート』という本を書いたが、その中に登場する相棒が、彼である。御嶽(うたき)という島の聖地で私とシャーマンとのやり取りを部外者といった立場で傍観していた彼だったが、その不思議な時間の渦に巻き込まれ、強烈な神秘体験をしたのだった。相当にショックを受けたようで、その体験が彼に人生転換をさせ、島に移住させたのだ。

やはり、体験というものは、100万巻の書物を超えるのである。なのに私は、そういうことがあるのだと伝えんが為に、本を書いたのだから何と申せばいいのか。体験への扉になればとの思いだった。わたしたちが何となく思う神というのは、自然の結晶のような存在で、目には見えない存在だろう。また、神にもいろいろあって、世間で誤解を招いている事例もあまたある。金が絡んでどうだこうだの問題もいとまなしだ。ところが、ああいう島の素朴な信仰に触れると、身を洗われたような気持ちになって、なんだか、いろんなことがさっぱりするのだった。

それを知っているひとりが、彼だ。友よ、もずくをありがとう! 今夜は泡盛飲んで、感謝の宴をいっちょ、やるかのう。