「崖」
作・遊田玉彦
ストンと切れた、断崖絶壁。
遥か崖下の谷底の村で、畑に出た農夫が、鍬を手に土をほっくり返しているのが、崖の上から蟻よりも小さいくらいに見えている。
土埃を巻上げながら、サクサクと小気味よいリズムで動かしていた鍬を止めたかと思うと、ふいに腰を上げ、そっくり返るようにして崖を見上げ、腰をとんとん二度叩くが、それは農夫の一種のくせである。腰を伸ばしたついでに、つい崖を見上げてしまうのだ。農夫は今朝からもう何度か崖を眺めている。
崖っぷちに立っている男の姿は、むろん農夫には見えない。痩せぎすの、腹だけが妙にせり出た男で、薄手のジャンパーに縞模様のスラックス、安物のスニーカーという出で立ちだ。どう見てもハイカーという趣ではない。
今起きたばかりのような、とろんとした目で崖下を眺めている。谷から吹き上げてくる風に何かの匂いを嗅ぐ仕草をし、ひとつ深呼吸をしたかと思いきや、おもむろに背を向けて縁に膝まづき、崖下に片方の足を降ろし始めた。
崖を正面から見れば、垂直ではあるが、壁から突き出た岩と岩の連結に若干の隙間があり、手足が掛けられそうである。崖の途中に丁度畳一枚ほどの岩棚が見え、ヤマユリが一輪咲いている。
男はその花を採ろうというのか、どういう了見か知らないが、眼下の岩棚に降りようと節くれた指に力をこめ、右の足、左の足と岩の隙間に爪先を喰い込ませながら、じわり、じわり、降下していく。
途中、崖に突き出した岩に腹がつっかえるたび、身体が空中に押し戻されそうになり、四肢がいっせいに硬直して動かなくなる。指を、トカゲのように押し開き、爪先を岩の角に突き立て、額からぼとぼと汗が吹き流れる。うぅ、と声を漏らし、またじりじり下へ下へと降りていく。
男が岩棚に降り立った。飛び降りた拍子に白い花を踏み、足の下でひしゃげてしまったが、男は少しも気にする様子がなかった。
岩棚は、村のキノコ採りの秘密の場所で、見事なイワタケがひと抱えも採れるのである。イワタケというのは、岩にこびりついているのを見れば黒いボロ布の切れっぱしにしか思えない。けれども、そのボロ切れを何時間もかけて丁寧に洗い、いったん日に干したものを水にもどし、鍋でぐつぐつ煮れば全く別物に生まれ変わる。この菌類独特の滋味とでもいうのか、それが鍋の中でえもいわれぬ風味に変化して、一度口にしたやいなや、我先に競って食べることとなる。キノコの中でもとくに珍重され、町では高価な値で取り引きされる。料亭にでも売りに行けば、ひと晩は豪遊できる代物である。
村いちばんのキノコ採りは先年、老衰で亡くなった。誰もここがイワタケの宝庫だということなど知らない。キノコ採りの名人ともなれば、絶対に場所を明かさず、末期のときでも口を割らない。他人に採られることがそれほどまでに惜しいからか、あるいはもっとちがう理由があるのか、とにかく場所を明かないのは昔からのキノコ採りしきたりである。
男もこの岩棚にイワタケがあることなど知らない。また、かりに知っていたとして、今はキノコの時季ではない。わざわざキノコのない春先に崖を降りる馬鹿者などありはしないだろう。
男にはこれといった理由がない。ならば男は阿呆か何かかといえば、そうだとは決めつけられない。高等数学の演算もできるし、ひちめんどうな帳簿もこなすことができるのである。歳のころは五十そこそこのこの男、眼下の村の者ではなく、バスで一時間離れた海沿いの町に住んでいる。立派とはいえないが、従業員が五人ほどいる小さな部品加工の工場を経営している。順風満帆とまではいかないまでも、何とか潰さずやっている。去年の秋には住みかを少々改築したばかりである。
男の歩んだ人生をふかんすれば、どこかに理由は探せそうだと考えられないこともない。
五つのときに肺炎をこじらせて死にかかったことがあり、そのころ父親は女に入り浸たりで滅多に家に帰ってこなかったのだが、母親は離婚を考えつつも、子どもがまだ小さいうちは家を出るわけにもいかず、ずっと耐えていたという幼少時代がある。
あるいは、先祖代々の土地が売れ、思わぬ大金が転がり込んで、それがもとで父親の女ぐせが再発し、最後は住んでいた家までも借金のかたとなり、一家離散となった青年時代がある。
さらには、飲み屋で行き会った女に、男が貯えていた金を持ち逃げされたこともある。高々百万そこそこの金で、それで男は無一文になったが、そんな金よりも、一度は信じた女に騙された自分が許せなかった。
世間でそう珍しい話でもあるまいが、男のこころに影をつくっているものの主だった要因はそれらだと断定してもよさそうである。だからこそ、男は独立心を柱として、三十を堺に一心不乱に仕事に打ち込み、煙草は吸うが酒はやらず、博打は最も毛嫌いして宝くじですら買ったことがない。これといった趣味もなく、工場で機械をいじっているのが趣味のような男だ。女房と娘とそれから年老いた母親との四人で暮らし、従業員の面倒もみて、それなりに頼りにされている。借金が多少はあるが、それほど苦にする額でもない。毎月、コツコツと利子を払い続け、この十年間返済が滞ったことはない。新しい機械を購入すれば仕事を拡げられそうだが、現状での融資は難しい。銀行屋が昨日きて、慰めめいた適当な話をして帰っていった。
男には三十半ばで生まれたひとり娘がいる。いまは家にひきこもって賑やかな音楽ばかり聴いているが、来年は町を出て専門学校に行くと、今朝話したばかりだ。
「ねえ、お願いなんだけど、ちょっとお金足りないんだ」
「またか、この前やっただろ」
「この前って、先月じゃない。もうないよ」
「幾らだ」
「二万円」
「何に使うんだ」
「あれ、あれよ、いろいろあって、友達との付き合いもあってさ」
「月末に近いから、持ち合わせがない。父さんもいろいろあるんだ」
娘は父親と目を合わせようとしないで、斜を向いたまま軽いため息をついた。今、男の財布には五千円も入っていない。
「タバコやめたら? ママに言われてやめるっていってるじゃない?」
「ああ」
「いつもそう、口ばっかり」母親そっくりの言い草を娘がした。
「わかってるよ」
「わたし、来年は家を出ていくから」
「だから、おまえの好きにすりゃいい」
「そっちも、好きにしたら?」
「おれだって、たまにはカラオケくらい行ってる」
「あれ、ハハハッ」
「いいだろ、おれが何を歌っても」
先週、珍しく従業員と街のカラオケボックスに出かけ、ウーロン茶で二、三曲やったのだ。一曲は娘の好きなアイドルグループの歌だった。その曲を娘と歌ったのはもう一年前のことである。
「たまにはママと三人で歌いにいくか」
「お金ないんでしょ。それに、遠慮しとくわ」
「おれの歌、耳がってか」
久しぶりに娘がケラケラ笑うのを見た。大きな口を開けて笑う娘の犬歯がやけに白く男の目に映った。
○○○
――――崖を降りてみたかっただけだ。
と、男が誰に言うでもなく、ポツリとつぶやいた。
岩棚に腰を降ろした男は、宙空に向かってまたつぶやいた。
――岩棚がおれを呼んだんだ。
まるで馬の背でも叩くかのように、岩棚を手のひらでぱんぱんと叩いた。
目の前をトビがすーっと飛んで、ぴーひょろろろーと鳴いた。鳴き声が谷間に吸い込まれるように消えていった。
男は胸のポケットから煙草を出し、マッチをすって火を着けが、風ですぐ消えてしまった。二度目は手で囲い、火を着けた。マッチ棒を空に投げると、白い煙の糸を引きながら谷底に、ふわり、ふわり落ちていった。
煙草の煙を肺いっぱいに吸い込んで空を見上げた。旨かった。久しく感じたことのない旨さだった。娘が産まれた冬の朝の病院ロビーや、工場を立ち上げた日のことが目に浮かんだ。つづけて二本ほど吸い、崖に背中をもたれかけ目を閉じた。
陽光が降り注ぎ、春の風がここちよく頬を撫でた。先ほどのトビも、もうどこかへ飛んでゆき、風もやんで、無音となった。
男は浅い眠りに落ちた。
うとうと舟を漕ぎ、トビになって空を舞っているような気分にひたり、それが夢なのかそうでないのか、どこからどこという境目のない白い宙に浮いていた。
谷から巻上げる風が岩棚に当たって、ひゅるひゅると寂しげな音を鳴らせた。目を覚ました男は岩棚にじっと座ったまま動こうとしなかった。とろんとした目で宙空を見つめ、することといえば煙草を吸うばかり。煙が背にした壁に沿って白い龍の姿に変じて空に立ち昇っていった。やがて煙草もなくなり、男はうしろ手に岩壁を押さえてゆっくり立ち上がった。
――――降りるとするか。
と、つぶやいた。
日が西の空に傾いていた。オレンジ色に染まったまん丸い天球が目線よりも低く浮かんでいた。もう半時もすれば向こうの山陰に隠れるだろう。ゆるやかに闇が男を包みはじめていた。
膝をつき、岩棚から首を突き出して谷底を覗き見た。
壁は垂直どころか、谷に向かってえぐれていた。どこにも降りられそうな場所がなかった。さらに身を乗り出せば、昼間、農夫が仕事をしていた畑にまっさかさまに落ちるしかない。
――――落ちてもいいか。
一瞬、思った。
崖下を眺めていると、地上に吸い込まれそうな気分になった。
――――落ちてやるか。
誘惑とも何ともつかない情動が胸の中でもぞもぞ沸き起こる。そのまま任せておけば、胸のものが身体に伝わって手足が動いてもいいくらいになった。
ぴー ひょろろろー
トビの声が谷底に落ちていった。
男は、壁に向いて両手を伸ばし、上を見上げて指が引っかかるところはないかと探った。だが、降りるときはあったはずの突き出た岩がひとつもなくなっていて、のっぺりとした壁になっていた。壁から、すぐにでも岩棚が引っ込んでしまうかもしれなかった。岩棚は畳一枚ぶんを残し、動かなかった。
そうか、と言って大きく息を吐き、また岩棚に座り直し、空になった煙草ケースを投げ捨て、それから男はなにも言わなくなった。黙ったきり目をとじ、息をしているのかもわからないくらいに静かになった。
夜空に星が瞬いていた。ひとつがすーっと斜めに走って消えた。
月が、つい、ついっと天に昇っていった。
やがて日が昇った。雲が横を流れていった。
トビがひとつ、またひとつ、鳴いた。
パリパリになった飴色の皮に骨を包み、微塵もなく、男は黒い節穴の目で宙空を見つめている。崖遥か下では、あの頃まだ赤児だった農夫の子が、太い腕で土に鍬を打ち込み、ふと、反っくり返るようにして崖を見上げ、伸ばした腰をとんとん二度叩き、それからまた小気味よくサクサク土を掘っくり返している。崖下の畑が土ぼこりをたてているのを見つめている岩棚に座った男のすぐ脇に白いヤマユリが一輪咲いている。
作・遊田玉彦
ストンと切れた、断崖絶壁。
遥か崖下の谷底の村で、畑に出た農夫が、鍬を手に土をほっくり返しているのが、崖の上から蟻よりも小さいくらいに見えている。
土埃を巻上げながら、サクサクと小気味よいリズムで動かしていた鍬を止めたかと思うと、ふいに腰を上げ、そっくり返るようにして崖を見上げ、腰をとんとん二度叩くが、それは農夫の一種のくせである。腰を伸ばしたついでに、つい崖を見上げてしまうのだ。農夫は今朝からもう何度か崖を眺めている。
崖っぷちに立っている男の姿は、むろん農夫には見えない。痩せぎすの、腹だけが妙にせり出た男で、薄手のジャンパーに縞模様のスラックス、安物のスニーカーという出で立ちだ。どう見てもハイカーという趣ではない。
今起きたばかりのような、とろんとした目で崖下を眺めている。谷から吹き上げてくる風に何かの匂いを嗅ぐ仕草をし、ひとつ深呼吸をしたかと思いきや、おもむろに背を向けて縁に膝まづき、崖下に片方の足を降ろし始めた。
崖を正面から見れば、垂直ではあるが、壁から突き出た岩と岩の連結に若干の隙間があり、手足が掛けられそうである。崖の途中に丁度畳一枚ほどの岩棚が見え、ヤマユリが一輪咲いている。
男はその花を採ろうというのか、どういう了見か知らないが、眼下の岩棚に降りようと節くれた指に力をこめ、右の足、左の足と岩の隙間に爪先を喰い込ませながら、じわり、じわり、降下していく。
途中、崖に突き出した岩に腹がつっかえるたび、身体が空中に押し戻されそうになり、四肢がいっせいに硬直して動かなくなる。指を、トカゲのように押し開き、爪先を岩の角に突き立て、額からぼとぼと汗が吹き流れる。うぅ、と声を漏らし、またじりじり下へ下へと降りていく。
男が岩棚に降り立った。飛び降りた拍子に白い花を踏み、足の下でひしゃげてしまったが、男は少しも気にする様子がなかった。
岩棚は、村のキノコ採りの秘密の場所で、見事なイワタケがひと抱えも採れるのである。イワタケというのは、岩にこびりついているのを見れば黒いボロ布の切れっぱしにしか思えない。けれども、そのボロ切れを何時間もかけて丁寧に洗い、いったん日に干したものを水にもどし、鍋でぐつぐつ煮れば全く別物に生まれ変わる。この菌類独特の滋味とでもいうのか、それが鍋の中でえもいわれぬ風味に変化して、一度口にしたやいなや、我先に競って食べることとなる。キノコの中でもとくに珍重され、町では高価な値で取り引きされる。料亭にでも売りに行けば、ひと晩は豪遊できる代物である。
村いちばんのキノコ採りは先年、老衰で亡くなった。誰もここがイワタケの宝庫だということなど知らない。キノコ採りの名人ともなれば、絶対に場所を明かさず、末期のときでも口を割らない。他人に採られることがそれほどまでに惜しいからか、あるいはもっとちがう理由があるのか、とにかく場所を明かないのは昔からのキノコ採りしきたりである。
男もこの岩棚にイワタケがあることなど知らない。また、かりに知っていたとして、今はキノコの時季ではない。わざわざキノコのない春先に崖を降りる馬鹿者などありはしないだろう。
男にはこれといった理由がない。ならば男は阿呆か何かかといえば、そうだとは決めつけられない。高等数学の演算もできるし、ひちめんどうな帳簿もこなすことができるのである。歳のころは五十そこそこのこの男、眼下の村の者ではなく、バスで一時間離れた海沿いの町に住んでいる。立派とはいえないが、従業員が五人ほどいる小さな部品加工の工場を経営している。順風満帆とまではいかないまでも、何とか潰さずやっている。去年の秋には住みかを少々改築したばかりである。
男の歩んだ人生をふかんすれば、どこかに理由は探せそうだと考えられないこともない。
五つのときに肺炎をこじらせて死にかかったことがあり、そのころ父親は女に入り浸たりで滅多に家に帰ってこなかったのだが、母親は離婚を考えつつも、子どもがまだ小さいうちは家を出るわけにもいかず、ずっと耐えていたという幼少時代がある。
あるいは、先祖代々の土地が売れ、思わぬ大金が転がり込んで、それがもとで父親の女ぐせが再発し、最後は住んでいた家までも借金のかたとなり、一家離散となった青年時代がある。
さらには、飲み屋で行き会った女に、男が貯えていた金を持ち逃げされたこともある。高々百万そこそこの金で、それで男は無一文になったが、そんな金よりも、一度は信じた女に騙された自分が許せなかった。
世間でそう珍しい話でもあるまいが、男のこころに影をつくっているものの主だった要因はそれらだと断定してもよさそうである。だからこそ、男は独立心を柱として、三十を堺に一心不乱に仕事に打ち込み、煙草は吸うが酒はやらず、博打は最も毛嫌いして宝くじですら買ったことがない。これといった趣味もなく、工場で機械をいじっているのが趣味のような男だ。女房と娘とそれから年老いた母親との四人で暮らし、従業員の面倒もみて、それなりに頼りにされている。借金が多少はあるが、それほど苦にする額でもない。毎月、コツコツと利子を払い続け、この十年間返済が滞ったことはない。新しい機械を購入すれば仕事を拡げられそうだが、現状での融資は難しい。銀行屋が昨日きて、慰めめいた適当な話をして帰っていった。
男には三十半ばで生まれたひとり娘がいる。いまは家にひきこもって賑やかな音楽ばかり聴いているが、来年は町を出て専門学校に行くと、今朝話したばかりだ。
「ねえ、お願いなんだけど、ちょっとお金足りないんだ」
「またか、この前やっただろ」
「この前って、先月じゃない。もうないよ」
「幾らだ」
「二万円」
「何に使うんだ」
「あれ、あれよ、いろいろあって、友達との付き合いもあってさ」
「月末に近いから、持ち合わせがない。父さんもいろいろあるんだ」
娘は父親と目を合わせようとしないで、斜を向いたまま軽いため息をついた。今、男の財布には五千円も入っていない。
「タバコやめたら? ママに言われてやめるっていってるじゃない?」
「ああ」
「いつもそう、口ばっかり」母親そっくりの言い草を娘がした。
「わかってるよ」
「わたし、来年は家を出ていくから」
「だから、おまえの好きにすりゃいい」
「そっちも、好きにしたら?」
「おれだって、たまにはカラオケくらい行ってる」
「あれ、ハハハッ」
「いいだろ、おれが何を歌っても」
先週、珍しく従業員と街のカラオケボックスに出かけ、ウーロン茶で二、三曲やったのだ。一曲は娘の好きなアイドルグループの歌だった。その曲を娘と歌ったのはもう一年前のことである。
「たまにはママと三人で歌いにいくか」
「お金ないんでしょ。それに、遠慮しとくわ」
「おれの歌、耳がってか」
久しぶりに娘がケラケラ笑うのを見た。大きな口を開けて笑う娘の犬歯がやけに白く男の目に映った。
○○○
――――崖を降りてみたかっただけだ。
と、男が誰に言うでもなく、ポツリとつぶやいた。
岩棚に腰を降ろした男は、宙空に向かってまたつぶやいた。
――岩棚がおれを呼んだんだ。
まるで馬の背でも叩くかのように、岩棚を手のひらでぱんぱんと叩いた。
目の前をトビがすーっと飛んで、ぴーひょろろろーと鳴いた。鳴き声が谷間に吸い込まれるように消えていった。
男は胸のポケットから煙草を出し、マッチをすって火を着けが、風ですぐ消えてしまった。二度目は手で囲い、火を着けた。マッチ棒を空に投げると、白い煙の糸を引きながら谷底に、ふわり、ふわり落ちていった。
煙草の煙を肺いっぱいに吸い込んで空を見上げた。旨かった。久しく感じたことのない旨さだった。娘が産まれた冬の朝の病院ロビーや、工場を立ち上げた日のことが目に浮かんだ。つづけて二本ほど吸い、崖に背中をもたれかけ目を閉じた。
陽光が降り注ぎ、春の風がここちよく頬を撫でた。先ほどのトビも、もうどこかへ飛んでゆき、風もやんで、無音となった。
男は浅い眠りに落ちた。
うとうと舟を漕ぎ、トビになって空を舞っているような気分にひたり、それが夢なのかそうでないのか、どこからどこという境目のない白い宙に浮いていた。
谷から巻上げる風が岩棚に当たって、ひゅるひゅると寂しげな音を鳴らせた。目を覚ました男は岩棚にじっと座ったまま動こうとしなかった。とろんとした目で宙空を見つめ、することといえば煙草を吸うばかり。煙が背にした壁に沿って白い龍の姿に変じて空に立ち昇っていった。やがて煙草もなくなり、男はうしろ手に岩壁を押さえてゆっくり立ち上がった。
――――降りるとするか。
と、つぶやいた。
日が西の空に傾いていた。オレンジ色に染まったまん丸い天球が目線よりも低く浮かんでいた。もう半時もすれば向こうの山陰に隠れるだろう。ゆるやかに闇が男を包みはじめていた。
膝をつき、岩棚から首を突き出して谷底を覗き見た。
壁は垂直どころか、谷に向かってえぐれていた。どこにも降りられそうな場所がなかった。さらに身を乗り出せば、昼間、農夫が仕事をしていた畑にまっさかさまに落ちるしかない。
――――落ちてもいいか。
一瞬、思った。
崖下を眺めていると、地上に吸い込まれそうな気分になった。
――――落ちてやるか。
誘惑とも何ともつかない情動が胸の中でもぞもぞ沸き起こる。そのまま任せておけば、胸のものが身体に伝わって手足が動いてもいいくらいになった。
ぴー ひょろろろー
トビの声が谷底に落ちていった。
男は、壁に向いて両手を伸ばし、上を見上げて指が引っかかるところはないかと探った。だが、降りるときはあったはずの突き出た岩がひとつもなくなっていて、のっぺりとした壁になっていた。壁から、すぐにでも岩棚が引っ込んでしまうかもしれなかった。岩棚は畳一枚ぶんを残し、動かなかった。
そうか、と言って大きく息を吐き、また岩棚に座り直し、空になった煙草ケースを投げ捨て、それから男はなにも言わなくなった。黙ったきり目をとじ、息をしているのかもわからないくらいに静かになった。
夜空に星が瞬いていた。ひとつがすーっと斜めに走って消えた。
月が、つい、ついっと天に昇っていった。
やがて日が昇った。雲が横を流れていった。
トビがひとつ、またひとつ、鳴いた。
パリパリになった飴色の皮に骨を包み、微塵もなく、男は黒い節穴の目で宙空を見つめている。崖遥か下では、あの頃まだ赤児だった農夫の子が、太い腕で土に鍬を打ち込み、ふと、反っくり返るようにして崖を見上げ、伸ばした腰をとんとん二度叩き、それからまた小気味よくサクサク土を掘っくり返している。崖下の畑が土ぼこりをたてているのを見つめている岩棚に座った男のすぐ脇に白いヤマユリが一輪咲いている。
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