『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

姉川の合戦地

2010年07月25日 17時20分36秒 | 航海日誌
       茜色に染まる姉川

滋賀県長浜の歴史旅から帰りました。遡ること今から400年余り前、近江国姉川で合戦がありました。織田信長の妹、お市と政略結婚した浅井長政が、反旗をひるがえした戦いです。長政は信長から朝倉氏を打てと命じられます。しかし朝倉氏と同盟関係にあった長政は命に従わず、信長・家康連合軍と戦いました。これが4年にも及んだ姉川合戦です。この歴史について詳しくは月刊誌「男の隠れ家」に書きますが、姉川の合戦でもし浅井・朝倉軍が勝っていたら、のちの日本史は大きく変わっていただろうと言われています。「たら・れば」がないのが歴史ですが。

さて、この姉川を歩いてみました。伊吹山山麓から流れ出る河川です。夕刻、茜色に染まる姉川は、まさしくつわものどもの夢の跡。血原・千人斬りの丘といった場所に立ち、累々と折り重なる屍が目に浮かぶようでした。供養塚がありますので、お線香を手向けて祈りました。その祈りはいつものように、歴史に眠る多くの方々のお陰でわれわれがここに生かされているということに感謝を捧げることです。そう言ってもなかなか意味が解らないと思います。これは理屈で解ることとはかなり違った思念です。いえ、本来は誰しもが漠然とわかっていることなのですが。

とにかく私はこの姉川に縁があって来させてもらったのだから、祈りました。祈りが終わり、川辺で休んでいると気が抜けたような感覚になり、昼間の猛暑のせいかとも思いましたが、なにかが身体から抜けていったことを感じました。この感覚を一語で云えば「浄化」です。しばらくするとスッキリしてその夜は美味しい地酒「七本鎗」をいただきました。こういうのを精進落としというのでしょう。まずは、この姉川で「感謝想起の供養」をし、翌日は北へ数キロの浅井の山城「小谷城」へ上ったのでした。その話はまた書きます。


命の巡り

2010年07月19日 12時54分34秒 | 航海日誌

私は幼い頃からの犬好きで、昔は捨て犬が多かったので路上でひょこひょこ歩いている子犬を拾って帰り、母を困らせたものです。どうしても犬と一緒にいたかったので、タンスの中に入れていて夜に鳴いて大騒ぎになったこともありました。そんな私が中学生になり、全教科の成績が上がったらという条件でその約束をほぼ果たし、シェパード犬を飼えることになりました。本当はオールAならセントバーナードでしたが、にわか猛勉強ではさすがに無理でした(笑)

大型犬が好きでした。名犬ラッシーに憧れ、頼りになる大きな犬と旅をするのが夢でした。だったらコリー犬でしょうが、ペット店に行くとシェパードが気に入り、一匹と目が合って決まりました。メスのシェパードにレオという名前を付けたのは、ちょうどダ・ビンチのモナリザが日本で初展示されて話題になっていたからでした。ですから、私の犬の正式名称は、レオナルド・ダ・ビンチでした。親にその説明をしましたが、好きにしなさいと笑っていたと思います。

それから中高の4年半をレオと過ごしました。その後、私が東京の大学へ行ってからは、飼い手がいないため父の友人の家に引き取られていました。初めての夏休みで郷里に帰り、レオに会いに行くともう何年も会っていなかったような気持ちになり、またの別れが辛くなりました。その場を立ち去ると、レオは塀に手を掛けて首を向けたまま私の姿を見送っていました。50メートル離れてまた振り返ると、まだこちらを見ていました。涙が流れ、別れを惜しみました。それから三月が経って父から電話があり、レオが死んだと伝えられました。私は、やはりそうかと思いました。その時が別れの日だったと感じていたからです。犬であっても、物言わずとも、その立ち振る舞いでわかるのです。私はレオに詫びていました。

一緒に暮らした時代にいろいろなことを犬が教えてくれたと思っています。世話になったのは自分だと。最初に飼ったときは3ヶ月の幼犬でしたが、5年経つと犬のほうが私の年齢を超えていました。別れのときにきっとこう言っていたのだろうと思います。「もっと一緒にいてよ。でも、元気でね。ありがとう、いろいろ楽しかったわ。がんばるのよ!」。

生きているものには、みな命があり、交流があります。絆があります。縁によりその有り様はいろいろです。絆の太い交流は人生の刻印のように、大切な何かを刻み込んでくれます。私にとって犬と過ごした時間もその一つでした。花を愛でる人には、花との交流があるでしょう。相手がなんであれ、そこには豊かな時間が流れています。それを感じ、味わい、互いを思いやることの総称を「愛」というのだろうと思います。そして、最後に残る思念は「ありがとう」です。感謝が巡り、万物は姿形を変えてまた出会いが始まるのです。


中国青年と合気道

2010年07月18日 18時45分41秒 | 合氣道のすすめ
今日の合気道の稽古で組んだ相手は、中国人留学生のR君でした。日曜稽古で初めて見かけた顔です。普段は平日に来て稽古をしている青年でした。横浜国立大学で経済学を学び、合気道を習い始めては1年半になるといいます。稽古が終わって少し話をしました。太極拳をはじめ、中国には600を超えるさまざまな武術があります。私も昔、少し少林寺拳法を習ったことがあり、中国の人が日本の合気道にどういう印象を持っているのか興味がありました。「自分は中国武術よりも、日本の合気道が面白い」といいます。どう、面白いかは片言の日本語ではうまく説明ができないようでした。

しかし、ここからの話が合気道の真骨頂です。彼との1時間の合気道の稽古で、「面白い」と感じていることが言葉を超えてこちらに伝わっていたということです。技を掛け合うと、どういう感覚で相手がいるのかが解るのです。これは言葉にするのは難しいのですが、例えば「恐る恐る」か「伸び伸び」か、或いは「力任せ」か、「相手任せ」かなどといった一々の細かな動きの中に、その人の感情や感覚、性格などか読み取れるのです。まさしく、ボディー・コミュニケーションです。

中国人留学生のR君は、とてもまじめで心優しい青年です。しかし強い意志を持ち大変な努力家で、中国という大国に生まれましたが、もっと世界を知りたいといった好奇心も旺盛です。「井の中の蛙大海を知らず」の逆です。その彼は日本に学ぶことが多くあり、その一つが合気道だと思って始めてみたら、予想を超えて面白かったと感じています。稽古中の態度や表情、技を掛け合うなかでの感覚で、そういった事々が解るのですから、合気道は面白いのです。

本部道場には、彼のような海外からの生徒さんも多く参加しています。そうした彼らとの合気道を通じた交流は、今後の世界を繋ぐ要になると思います。「合気道は世界平和に貢献する」オーバーに聞こえるかも知れませんが、人と人の言葉を超えるコミュニケーションは想像遙かに重要なのです。それを一語で云えば「愛」。合気道開祖が、「合気は愛気だ」と申されたことの意味がそこにあると思います。世界で唯一、勝敗を設けず戦わない武道が合気道なのです。

今、とても深刻な経済でいえば、気(お金)は滞れば麻痺し、循環すれば健やかになるのが原則ですね。ひょっとして、合気道が面白いという留学生R君は「気の交流」の中に、未来の経済学を感じ取っているのかもしれません。マネー戦争をしない循環系の「合気道的経済」です。今日の稽古はそんなことまで考えさせる楽しいものでした。


思いやり

2010年07月17日 12時00分12秒 | 航海日誌

沖縄の宮古島へ初めて行った頃の話です。風景撮影のため、見晴らしのいい島の高台へ行きました。するとそこに小学生の一団がいました。どうやら遠足に来ているようで、ちょうどお弁当を広げている最中でした。なにげに側を通ると、ひとりの少年が水筒のふたをこちらにかざして、「飲むねえ?」と言いました。「えっ?」と言うと、また「飲むねえ?」と言うので、それをもらって飲むとよく冷えた麦茶でした。

なんでもないような話ですが、私はそのとき大変驚いたのです。そこでたった今、初めて顔を合わせた見知らぬ赤の他人に、喉が渇いているだろうからと自分の麦茶を与える子どもの存在が余りにも珍しかったからです。驚くとともにうれしくなって、「いやあ、感動した。ありがとう、ありがとう!」とお礼を返すと、少年はきょとんとした顔をしていました。その様子を見取って、この島ではごくあたりまえのことをしただけのことに、なぜ、この人はこんなに大げさに礼を言って喜んでいるのだろう・・・と思ったようでした。

後で知ったのですが、沖縄には「いちゃりば、ちょうでい」(行き合えば兄弟)という言葉があるそうです。赤の他人といえども、行き合った者は互いを思いやり、助け合うのが沖縄のこころというのです。それは格言としてあるだけでなく、宮古島の少年が教えてくれたように、ごくふつうに島の人々に備わった感覚、気持ちなのだろうと思うのです。「飲みなさ~い、食べなさいね~」と、大人の人たちも旅人にもほんとうに良くしてくれます。思いやりが風のように吹いている雰囲気に浸ると、こちらのこころもまろやかになり、いつしか癒されているのです。


学ぶとは

2010年07月14日 12時04分04秒 | 合氣道のすすめ
ドキュメント番組でペルーの少数民族の子育てを紹介していました。3歳の男の子を母親が畑に連れて行き、芋の収穫を手伝わせていました。大きなナイフを持たせ、芋の根を切るといったこともさせます。母親は何も口出しせず、見よう見まねでやらせます。手取り足取りして説明しません。失敗しても怒りません。また、良くできたと誉めることもしません。すると、子どもは自分ができる範囲のことを熱心にやっていました。

その様子をテレビで観ていて、合気道の稽古法と同様のものを感じました。合気道では「見取り稽古」といい、師範が見せる技を手本に真似て稽古をします。その際、事細かに説明しません。まさしく見よう見まねです。いいとか悪いとかといった判定や評価もほとんどしません。あくまでも自分なりに真似て、それを繰り返して自分のものにしていきます。稽古で余計な説明(言葉)は、学びの妨げになると考えているのです。

テレビ番組の解説者が、かつては日本人もこのような教え方をしていたと話していました。学ぶとは、「真似ぶ」から派生した言葉だといい、真似ていくことで自然と身に付くものが、本人にとってホンモノになっていくのだと。また、すぐに出来を評価すると、それに囚われて、かえって伸び悩むとも。職人の世界でも、丁稚から叩き上げの親方が、弟子を叱るのも、誉めるのも滅多にないというのも同じでしょう。

よく、子どもを誉めることが大事だといいます。一見、そのほうがいいように思われがちです。しかし、子どもは誉められることばかりに気が向き、失敗をしないよう頑張ります。すると失敗の中に潜んでいる「成功の素」を掴むチャンスを失うことになります。失敗することで理解する事があるのです。

そうしたことを改めて考えると、教えるという行為は、親(教える側)の希望や理想、都合からの押しつけであることが多々あると思い至ります。人はみな、その人なりの心身を持って生まれているので、同じようにはなりません。その人なりの技量、体力、知力、感覚に基づいて、自分なりのものを習得していくのでしょう。ああだ、こうだと、教えるのは教えになっていない場合が多いのではないでしょうか。黙って見守り、失敗も放っておき、本人なりに学ぶ(真似ぶ)ことを阻害してはいけません。教えると思っている側が、よくよくこの事を理解しておくことが肝要です。


島帰り

2010年07月13日 08時18分13秒 | 航海日誌

新潟の粟島に行っていました。村上市岩船港から船に乗って1時間半で渡れる離島です。島民は二か村に400人余りで、海岸線の岩場と手付かずの山地からなる自然あふれたところです。村上駅から岩船港まで乗ったタクシーの運転手さんが「私は若い頃3回行ったけど、行こうと思わなければ行けない島だね。牡蛎が旨かったな。いいところだよ」

で、渡ってみるとほんとうでした。港前に食堂や民宿はありますが、スーパーもコンビニもありません。歩いていると島の人が素朴に話しかけてきます。ウミネコが近くまで寄って来て猫のように鳴くし、海に潜れば魚がウヨウヨいるし、ちょっと潜ればサザエが何個も取れます。40年前のこども時代の、かすかな記憶で、母の田舎の島根の海がそんなだったと。今もそんな場所があるんだなと、竜宮城に来たように思いました。

ただし、夏休みになると島は観光客で溢れかえるようですから、私が体験した静かな時間は一変するはずです。ふだんは警官がいない島も、夏のシーズンは駐在するとか。そのちょい手前で触れた、梅雨の合間の晴れた島時間は、なかなかに得難いものでした。海好き魚好きにおすすめの島です。日程さえ都合がつけられるなら、ハイシーズンの手前か後に出かければ、そこに竜宮城が待っているかもしれません。


また旅

2010年07月09日 21時51分11秒 | 航海日誌

またまたちょいと旅に出てきます。毎月何度も出かけられる小生はありがたいと思っています。そも、あれは10代の終わり頃だったでしょうか。将来、自分はどんな仕事に就きたいか真剣に考えてみました。

すると答えは、「遠くへ行きたい旅をしたい」でした。それができる仕事とはと考え、パッと思いついたのは旅行代理店勤務でした。旅行が仕事なのだからと。でも、添乗員になれればの話でした。次に思いついたのは雑誌記者でした。旅行雑誌ならばと。で、その通りになりました。

かように、自分が成りたいやりたいことを考えていれば、案外その通りになるという話です。難しく考えることもありません。大事なのは、なにがしたいかだけですから。それを決めればいいのです。だがしかし、その成りたいものになって、なにをするかという問題はずっとついてきます。成ってみたはいいものの、その先で何を為すか。自分で喜べ、人に喜んでもらえる働き。たくさんあるけど、やれるのは何か。天命と感じるお勤めを見つけられれば人生最高です。


感謝のいどころ

2010年07月08日 01時07分01秒 | 航海日誌
感謝ということは日々の感情の表れだと思います。今日一日どれほどの感謝があったことか。それに気づかないだけだろうと自分自身に思います。

その感謝がどこであったか。身近なところで一杯あった。妻に子どもに。一緒に暮らしてくれて、ありがとう。本当にそう思えるか。なかなかどうして思えませんね。いて、あたりまえだと思っているからです。

その感情を振り返ると、寂しい気持ちになります。自分自身に。突き詰めると、自分にさえ感謝していないのだと。だから、人生という旅をしている。孤独を見極める旅です。


登山と合気道

2010年07月04日 18時04分42秒 | 合氣道のすすめ
       唐松岳の夕景

先週、信州北アルプスの唐松岳へ登った。八方池(2060m)まではハイキング程度のトレッキングコースだが、その先は岩場が続き山頂(2696m)まで2時間30分かかる本格登山となる。そこで気をつけなければならないのは高山病だ。酸素が薄くなる標高2400mくらいからかかりやすいと言われ、いったん症状が出ると、頭痛、めまい、吐き気に襲われる。ひどくなると平衡感覚すら失う。険しい山道をこの状態で歩くことは極めて危険で、ベテランでも滑落事故を起こすのは、高山病での場合が多々あるようだ。

以前、富士登山をした折、同行者がやはり2500m辺りから体調が悪くなり、2800mで真っ青な顔となった。ガイドさんが中止を命じ、その人は付近の山小屋で休むことになった。私は、折から注意していたので平気だったが、どう対処していたかといえば、ゆっくりとした腹式呼吸で登っていたのだ。鼻からゆっくり吸い込みながら腹まで空気が行き渡る気持ちで肺の下部まで膨らませ、今度はゆっくり吐いていく。歩調に合わせながら、これを繰り返す。

合気道に呼吸法というものがある。激しい動きでも息を乱さないために腹式呼吸を取り入れている。小刻みに息をしていると、金魚のようにあっぷあっぷとなるから、吸気をしっかり取り入れて動きつつ音もさせずに吐きながら動くのである。ほかの武道でも同じだろう。ただ、合気道の場合は、この呼吸に合わせて技を掛けることを意識して稽古する。技を掛けると同時に息を吐くのである。すると、技の伝道が大きく伸びる。これを呼吸力と呼んでいる。また、息も上がらないのである。

さて、登山でこれを試してみて、確かに効果を感じた。一緒に登っていたカメラマンにも勧めていた。彼は私より10歳以上も若いからどうだかわからないが、山頂でも元気だった。ただ、高山病は年齢に関係ないと山小屋のご主人に聞いた。彼もよく息を吸いながら登ったのだろう。山小屋で夜は酒まで楽しめたのだから腹式呼吸サマサマだ。合気道の稽古はいろいろな場面で役に立つという話である。


大難を小難に

2010年07月01日 13時35分19秒 | 航海日誌

昨夜、無事に信州の北アルプスから戻りました。白馬八方尾根から唐松岳(2696m)への初の本格登山。仲間3人でザックをかついで尾根づたいに、まだ雪渓がある冬コースをエイコラ登ります。2500mあたりからは高山病に注意。水分補給をしつつ、腹式呼吸で身体を順応させながら岩場や雪渓を登っていきました。途中から風雨となり、気温も一気に10度さがり、低体温症にも気をつけます。ハード登山はそういうものです。

さて、山頂近くの山小屋まで後一歩、直登の岩場の両脇は遙か谷底でした。ここで突風にあおられれば、おさらば。一気に真剣度が増します。風雨で往く先がよく見えませんでした。突風がおさまるのを待ち、一人ずつ岩につかまりながら進みました。その最中、頭をよぎったのは、生きているという今、一瞬、一瞬でした。この感覚は日常では感じることのないものでした。谷底は見ないようにして、岩場の先に手を伸ばし、足を確実に運ぶ。冗談のない、真剣勝負。渡りきったときの開放感。生きていることの喜び。なぜ、人は山に登るのかという問いがありますが、このことだろうと。

さてさて、翌日は快晴。北アルプスの雄大な山容が見渡せ、後ろ側の立山連峰も屏風のように広がっていました。大きいとか小さいとかといったスケール感が消し飛ぶ景色。山小屋を出て、昨日の難所に行くと、その登山道も谷底もクッキリ見えます。面白いもので、全景が見えていると、昨日ほどの恐怖感はありません。見えないから恐いのだと思いました。わからないから悩むというのも同じでしょうか。

それから、もう一つ思ったことがあります。神仏に祈る人もいるでしょうが、最後の最後は自分に祈るという感覚でした。しっかり頼むぞと自分にお願いし、その思いが重なりあっていると。何かを諦めてしまうと、もうそこで終わってしまうのだと。まだこの世で生きて、自分なりにしっかり何かを成し遂げたいと思うその気持ちを確かめる感覚です。

実は、山へ出かける前日、深酒をして自転車で転び、鼻の下をいささか打ってすりむいたのですが、それが小難であったと思っています。単なるバカな酔っ払い話ですが、そんなケガをしたのは初めてのことでした。これは身を引き締めて行かなければ、大難が待ち受けていると思っていました。今回登ったルートは夏コースなら北アルプス登山の入門コースです。しかし、まだ雪渓も残ったアイゼンも必要な冬コースでした。一緒に登ったベテランも、最後の岩場は「危なかった!」と言っていました。そして、その岩場で思ったのが、生きているという実感と、見えないことが恐怖の正体、生きていることの有り難さ、思いを残さず生ききることでした。

山が教えてくれたのは、そのようなことでしたが、最後は晴天360度のパノラマで全山が姿を現し、このちっぽけな自分を大笑いしてくれました。「生かして頂いて、有り難う御座位ます」の感そのものでした。