時々に読んでいる伊勢白山道さんのブログで、大変に興味深い記事が目に留まりました。大器晩成の解釈についてです。
老子の云ったとされる「大器晩成」は、実は、「大器免成」の誤りであったというものです。中国湖南省で発掘された老子の古い写本に、そうあり、免の一字の意味で、大器は成らないとなると。
写本は、また写本されて時代を経るのですが、どこかの時点で、免を晩と、書き間違えをしたのではないかと。
私たちが学校などで習ってきた、大器晩成は、人間は努力していつかは成功を成し遂げることを本位とするべきだというものでした。「きみも頑張って大物になりなさい」とか、「あなたは大器晩成タイプだ」とか。
だから、誰しもいつかは成功する道を夢見て、それぞれに頑張っている。ひょっとして自分は大器晩成するのではないかと思う心情がどこかある。
大物(大器)こそ、すぐには形にならないという解釈は、魅力的ですが、どこか「あすなろ物語」のようであり、やれやれと自分をなぐさめる。
では、老子は何を云っているのか。
大器こそ、成功しないと云っているのですね。
この世の成功とは、どういうものかを考えてみれば、大会社の社長になる、学者になる、政治家になる、なにかのチャンピオンになる、有名人になる・・・
しかし、老子はそれを大器とは呼ばず、大器とは、もっとちがうところにあるというのですが、さて。
とまれ、この世に生を受けたわれわれは、そのままで大器なのではないだろうかというのが、思い至ったところです。人間の見た目の大きさに大きいも小さいもない。その器こそが大事なのだと。
それを感じたのは3日前のことですが、すーっと身持ちが軽くなり、明るい気分になりました。自分という貴重な器を磨いて、良心に従って思うままの生を謳歌すればよい。何かに成るのではなく、何かになっている自分を慈しむことが、すべてへ感謝する始まりなのだと、さとりました。
老子の云ったとされる「大器晩成」は、実は、「大器免成」の誤りであったというものです。中国湖南省で発掘された老子の古い写本に、そうあり、免の一字の意味で、大器は成らないとなると。
写本は、また写本されて時代を経るのですが、どこかの時点で、免を晩と、書き間違えをしたのではないかと。
私たちが学校などで習ってきた、大器晩成は、人間は努力していつかは成功を成し遂げることを本位とするべきだというものでした。「きみも頑張って大物になりなさい」とか、「あなたは大器晩成タイプだ」とか。
だから、誰しもいつかは成功する道を夢見て、それぞれに頑張っている。ひょっとして自分は大器晩成するのではないかと思う心情がどこかある。
大物(大器)こそ、すぐには形にならないという解釈は、魅力的ですが、どこか「あすなろ物語」のようであり、やれやれと自分をなぐさめる。
では、老子は何を云っているのか。
大器こそ、成功しないと云っているのですね。
この世の成功とは、どういうものかを考えてみれば、大会社の社長になる、学者になる、政治家になる、なにかのチャンピオンになる、有名人になる・・・
しかし、老子はそれを大器とは呼ばず、大器とは、もっとちがうところにあるというのですが、さて。
とまれ、この世に生を受けたわれわれは、そのままで大器なのではないだろうかというのが、思い至ったところです。人間の見た目の大きさに大きいも小さいもない。その器こそが大事なのだと。
それを感じたのは3日前のことですが、すーっと身持ちが軽くなり、明るい気分になりました。自分という貴重な器を磨いて、良心に従って思うままの生を謳歌すればよい。何かに成るのではなく、何かになっている自分を慈しむことが、すべてへ感謝する始まりなのだと、さとりました。