映画監督の新藤兼人さんが、昨日5月29日に百歳でお亡くなりになった。代表作「裸の島」、「原爆の子」「第五福竜丸」など、社会派映画の監督として知られ、98歳の時の「一枚のハガキ」が遺作となった。
新藤さんとは広島の石内村の同郷で、10数年前に一度、お会いしたことがある。私が当時、編集していたラパンという雑誌のインタビューで山城特集を組み、広島の山城の思い出話を聞かせてもらった。
「子どもの遊びといえば野山へ入って転げまわっていた、水晶ヶ城という山城で水晶が取れるんです。それが宝物でね」という話を聞き書きした。映画に関しては、当時は「活動」(無声映画)をやっていて、しかし、子どもに金などないから、山で薪(たきぎ)を拾って、それを町で売って観に行ったということもお聞きした。大正時代、新藤さんが尋常小学校の頃の話である。
その頃から映画好きだったのだと知って、それが生涯、現役映画監督としての人生をまっとうされたのだと思うと、何かをやり通し生きる力の素晴らしさを想う。
百歳万歳! 新藤さんの後に続く者として、哀悼の意を表します。
生かして頂いて 有り難う御座います
新藤さんとは広島の石内村の同郷で、10数年前に一度、お会いしたことがある。私が当時、編集していたラパンという雑誌のインタビューで山城特集を組み、広島の山城の思い出話を聞かせてもらった。
「子どもの遊びといえば野山へ入って転げまわっていた、水晶ヶ城という山城で水晶が取れるんです。それが宝物でね」という話を聞き書きした。映画に関しては、当時は「活動」(無声映画)をやっていて、しかし、子どもに金などないから、山で薪(たきぎ)を拾って、それを町で売って観に行ったということもお聞きした。大正時代、新藤さんが尋常小学校の頃の話である。
その頃から映画好きだったのだと知って、それが生涯、現役映画監督としての人生をまっとうされたのだと思うと、何かをやり通し生きる力の素晴らしさを想う。
百歳万歳! 新藤さんの後に続く者として、哀悼の意を表します。
生かして頂いて 有り難う御座います