『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

多忙につき

2011年02月27日 00時27分04秒 | 航海日誌
ここのところ、大仕事が2つ重なり、超のつくほどの多忙期間に突入しております。2月に入って土日もない状態です。週末にはシリーズ「ソウルボート短編集」を掲載したいのですが、それもままならず。もう、峠はそこです。記事の更新を今暫くお待ちいただきたく。お願いいたします。

それから、ニュージーランドの地震被災のご不幸をお悔やみ申し上げます。私は彼の地に4度渡り、親好を深めたことがあり、クライストチャーチ(ガーデンシティ)も二度訪れています。本当に美しい街です。ゆえに、こころが痛いのです。なぜ、地球は今、彼の地を揺らしたのか・・・深遠な何かか。縁者として多くの人々のご冥福をお祈り申し上げます。


短編「マイボール」

2011年02月20日 23時54分06秒 | 『ソウルボート』短編集
ソウルボート短編集

「マイボール」


 親友、松田修が亡くなって、1年余り経ったその翌年、健一郎は大学受験に失敗し、浪人生活をしていた。石内村から原付バイクでひと山越えて広島市内の予備校に通っていた。その予備校には、同じ高校の同級生も数人が顔を揃えている。小学校のときからの同級生でサッカーが得意だった平田達郎もいた。

「のう、おまえはどこの大学目指しとるんじゃ?」平田がからかい半分の口調で健一郎に話しかけた。
「わしか、東京の大学」
「東京がつく大学なら東京経済、東京理科大、いろいろあろうが」
「どこでもええ、もう浪人はできん」
 健一郎にとっては、どの大学というより、受かった大学へ行ければそれでよかった。とにかく広島を出て、離婚した両親のもとを離れ、ひとりで生活をすることが目標だった。
「平田はどこへ行こう思うとる?」
「わしか、九州よ。博多へ行きたい」
 平田も大学名ではなく、土地を指して言った。
「博多か」
「ミュージシャンが多い街じゃ。わし、音楽やりたいんじゃ」
「音楽いうて、どんな?」
「ブルース」
「シブイのう」

 予備校からの帰りがけ、山の上り坂をバイクのエンジンを吹かし、峠でブレーキをかけて広島市内を見下ろした。家々、町並みが見え、三角州に川が流れ、その向こうに瀬戸の海が眺められる。その風景が健一郎にはすでに懐かしいものに思えた。さまざまな記憶が断片的に去来する。それがひとつの塊のようになって、健一郎の胸を駆けめぐった。高校時代、松田修と自転車で通った山道だが、この峠から改めて広島を眺めたことはなかった。
「松田君、わしは東京へ行くよ」
 そうつぶやき、広島を背にバイクにまたがった。

             ○○○

 自室のベッドに横たわって天井を眺めていた健一郎の脳裏に、ふと、忘れていたことが浮かび上がった。
「マイボール預けたままじゃった・・・」
 中学3年生のときにボーリング場へ行き、仲間のひとりに自分のボールを預かってもらっていた。そのうち取りに行くと言ったまま、すでに4年の歳月が流れていた。
 植田徹に電話をかけると、大事に仕舞ってあるから取りに来いと言った。なら、今度の日曜日に訪ねると約束をして受話器を置いた。

 瀬戸内海に面した新興団地に建った真新しい一軒家のベルを押すと、懐かしい顔が出迎えた。
「ああ、久しぶり」
「悪かったね。ずっとボール預けたままで」
「取りに来んから、もう捨てようか思うとったよ」

 植田の部屋でいっとき話し込み、健一郎がケースに入ったマイボールを受け取ると、クルマで近所を案内すると言った。彼も浪人しており、最近、免許を取ったと言った。
「高校になってここに引っ越してきたんじゃけど、海の景色がええところなんじゃ」
 植田が父親のクルマを借りて高台へ走らせると、瀬戸内海が一望にでき、宮島がすぐそこに見えた。
「ほんま、絶景じゃ」
「そうじゃろう。でも、毎日、見とると飽きるけどの」
「早ように免許取ったんじゃねえ」
「家の手伝いもあるし、大学は地元の私立へ行くけえ、大して勉強せんでもええから。今はアルバイト中なんじゃ」
「植田は昔から頭よかったから楽勝じゃろう」
「なにが、挫折よね」
 吐き捨てるように植田が言った。あの優秀だった植田からの言葉とは思えなかった。もっと勉強すれば国立大学へも夢ではなかったのだ。何かを諦めたように、瀬戸の海を眺め、また、「挫折よ」と、ぽつりと言った。
 
            ○○○

 中学時代のいっとき、ボーリングが流行った。健一郎の父親もその遊びに熱中して毎週、日曜日にはボーリング場へ通っていた。健一郎は、父親からボールを譲り受け、自分もやっとマイボールを持てたことに満足していた。クラスメイトの植田徹は早くからマイボールも持っており、スコア平均も170あった。最後にゲームをしたのは、中学3年の秋だった。植田は190を出し、健一郎は138の成績で終わった。
 そのときなぜ、マイボールを預けることになったのか、なにか理由があったはずだが、健一郎にはハッキリした記憶がなかった。もしかしたら、もうボーリングをやめると言ったのかも知れない。それを植田が預かると言って引き取ったのかも。
 そのマイボールが4年振りに手元に帰ってきた。もうボーリングに興味など消え失せ、ただの重たいボールでしかなかった。いったんは机の横に置いてみたが、納屋に仕舞い込んだ。
 スポーツ万能で成績も良く、クラスの女の子に人気のあった植田が、あんなに浮かない顔でいたことが意外に思えたのだ。4年も会っていなかったのだから、その間で彼に人生になにがあったのかまったく知るよしもなかった。健一郎にとっては、ただ、意外さだけが際立っていた。

 それから3週間ほど経って、中学時代の同級生、吉田綾子から電話がかかってきた。
「もしもし、小林君。吉田よ」
「ああ、どうしたん。久しぶりじゃね」わりと仲の良かったクラスメイトだったが、卒業してからは電話などなかった。
「あのね、驚きんさんなよ・・・」
「どしたん?」
「植田君がね、事故で・・・」その先は声を詰まらせ、泣き声に変わった。
「まさか」
  健一郎は、呆然となり、3週間前に会ったばかりの植田の顔を浮かべた。

 週末が葬儀だった。クラスのほとんどの顔が揃っていた。女の子らはみな声を上げて泣いた。葬式の帰り際、誰かが、今度、同窓会をやろうと言った。会えるときに会っておこうと、皆が首を縦に振った。
 健一郎は、心の中で思った。去年、松田が亡くなる1週間前にふと思い立ち会いにいった。今度は植田を思い出し、同じく会いにいったのだ。自分が会えば、亡くなるとはどういうことなのだ。
 その話は誰にもできなかった。気味悪がられたくなかったし、なぜなのかの答えがない。それに、そんなの偶然だと言われたくもなかった。
 ただ、吉田綾子には、短く話した。
「二度目なんだ」
「ふしぎね。でも、小林君に別れをしたんじゃない?」
「そうとしか思えないけど」
「ふたりのぶん、がんばって生きなきゃ」
「そう思う」

 年が明け、健一郎はどうにか大学に受かり、広島を離れることになった。その数日前に、西広島の国鉄駅前で、ばったり同級生に出くわした。予備校もいっしょだった平田達郎だ。
「おう、偶然じゃのう」
「平田か。おまえ決まったんか」
「九州へ行くことになったわい。おまえは?」
「わしは東京へ行く」
「ほうか、お互いがんばろうや」
「おう、がんばるよ」
 ほんの数分の邂逅だった。その短い会話の中で健一郎は精一杯の思いを口にしていた。
 がんばる・・・この世を去って行った友人たちのぶんも自分が背負っていると、それだけを思って。そうでなければ生きている自分がなんなのか、その答えをふたりから問い掛けられているとしか思えなかった。


初恋

2011年02月19日 01時13分45秒 | 航海日誌
いつの頃だったか。淡い恋の、恋とも気づかぬ、その思い。そう感じている自分のこころもよくもわからず。

そうだと、気づくのが、ややも、その後で、また、じわりじわりとこころを苦しめ、吐く息の熱さ、儚さ。

おのが思いのリフレインに、なんども酔いしれて、酔っていることも知らず。

あの子は、どうしているだろうかと、見ぬ、君を。

そうした思いの黄昏を。

未だ、乳房に抱き、

母恋を。


大山への登山

2011年02月17日 00時12分21秒 | 航海日誌
今週からピークへ向かって山を登っています。山といっても、人間界の山です。なかなかにシンドイ山ですが、登ることが出来る幸せを感じつつ、四苦八苦。しかし、その苦しみは、喜びへの登坂です。苦在れば楽あり。

見渡して、世の中も同じと感じます。みんないろいろな局面を向かえているのではないでしょうか。また、自然界も大変化を向かえています。そういうときは、焦らず騒がず、生きていることに感謝しながら、山登りを味わう。ピークに立って、よくぞ登ったと。そのときは必ず腹から笑えます。一歩一歩でもう少しです。


ハタラク

2011年02月15日 20時23分45秒 | 航海日誌
当ブログで少し前に、働くとは、にんべんに動くで、人が動くことを示すと書きました。思うように動けることが人の幸せだと。身体が不自由で動けなければ心底、辛い。また、精神も束縛されれば心底、辛い。つまり、働くとは、仕事をしてお金を得て生活するといったことのみならず、心身が思い通りに動かせて、なにかの事をなすことだと。

その話を家人にしていたら、「そう、江戸時代には働くことの意味は、こんな説明をしたそうよ」と言いました。「傍(はた)楽(らく)なんだって」つまり、周囲の者が楽になることを、はたらくと言ったそうだ。互いに助け合う協働である。ことに農村社会では、大規模な農作業や道普請で、村じゅうが総出で作業に取りかかった。それを働くと言ったのだ。傍迷惑の逆である。

そういう社会のあり方は、無縁とは別世界であろう。関係ないと手伝わなければ村八分である。八分とは、8割の付き合いを解消されるが、2割は残された状態のこと。全部を無縁にされると、生きていけなくなるからで、生存権までは奪われなかった。そんな社会を、封建的と思うか、面倒臭いと思うか。現代と比較して考えるとどうだろう。便利で自由な暮らしとなるはずだったが、隣近所や職場の人間関係が希薄な生活が、ついに無縁社会とまで呼ばれるようになった。人と人がいる限り、縁はある。それを無視すれば、無縁だ。働き合えば、傍楽である。


無縁社会

2011年02月13日 17時16分40秒 | 航海日誌
昨日、NHKで「無縁社会」という特集番組をやっていた。いくら就職しようと頑張っても、どこも雇ってくれず、自分は無価値の存在だから生きていても仕方ないから死にたいという若者が少なくないという。死ねば、楽になると思うからだ。

だが、死は人生最大の恐怖の壁である。その先がどうなっているかわからない。人はわからないものがもっとも恐い。恐いから踏み止まることができる。しかし、死ねば楽になるのではないかという誘惑に勝てず、死んでいく者もいる。

さて、その先がどうなるのか。チベット仏教では、死後にバルドーという49日の期間があり、その狭間で自分の人生を振り返ることになると教えるという。肉体はすでに無いから、精神だけでどこか不明の場に留まり、生きていた日々を思い返す。キリスト教にも、煉獄(れんごく)という観念があり、同じくその不明の場で浄化の時を待つ。

自殺した者は、そこでなにをどう思うのか。せっかく受けた生を、自分で絶ってしまったことの無念さに、嘆き悲しむと。肉体を持って生きることこそが魂の成長期間であるという。現代の日本では、ここに書いているような死後の世界は受け入れがたいかも知れないが、チベット人などは当たり前にそう思って生きているようだ。ゆえに、自殺者も格段に少ない。

その考えを受け入れれば、自殺は楽になるどころか、その反対に、どこにも逃げ場のない想像を絶する苦しみを味わうことになる。早まってはいけない。自分をどん詰まりに追い込まない。生きていて、苦にばかり執着をしないことだ。生きている限り、決して無縁ではない。苦しみを分かち合える人が、きっと傍にいるはずだ。それに気がつきさえすれば苦は楽となり、幸いとなる。かつて、苦しかったときを思い出せば、それがわかるだろう。ずっと苦は続かず、大笑いできたときがあっただろう。辛抱損はない。笑える時間へ自分を連れていってあげよう。


ソウルボート短編集について

2011年02月12日 10時18分27秒 | 航海日誌
毎週1回のペースで掲載中の「ソウルボート短編集」は、私が10年前に書いた私小説『ソウルボート/魂の舟』(平凡社刊)の続編となる作品です。宮古島へ旅をし、そこで出会ったシャーマンのふしぎな導きで、自分が忘れていた人生の道をふたたび歩き出します。小説表現を借りていますが、これは実体験をもとに書いた物語であり、目には見えない世界が在るということをお伝えしたいがために書いています。

一見、人生は偶然の重なり合いで進んでいくように思われますが、自分の意図しない、なにかの必然が働いているようです。心理学的にいえば、深層心理の働きとなるのでしょうが、一個人内の精神の有り様だけで物事は動いているのではなく、深層でなにかが繋がっていて、ともに影響しあって、思いの寄らない風景が立ち上がっている。それを私たちは「縁(えにし)」と呼んでいる。

「袖振り合うも多生の縁」です。気づかないうちに、その縁は通り過ぎでいて、しかし、どこかで紡がれている。ただ、その繋がりが見えないだけかもしれません。そこに不思議がある。わからないから不思議なのです。そういう不思議が気色悪いと感じるか、興味を持つかは人それぞれです。

私には、不思議としか言いようのない体験が子ども時代から数々あり、それが何なのかと常々に思ってきました。「木を見て森を見ず」というように、部分だけを観察しても、全体が見えてこない。部分のつなぎ合わせをしてみようというのが、このソウルボート短編集の試みです。バラバラのピースをつなぎ合わせて、一枚の大きな絵を見てみたい。それを描こうと思い、短編として記憶を炙り出しております。

ですから、この短編集は、ソウルボートの前編であり、あの宮古島体験を通過してからの物語は、後編となります。何編となるかはわかりませんが、筆が動く限り書き続けたいと思います。目標は1000編か(笑)


短編「写真」

2011年02月11日 19時36分01秒 | 『ソウルボート』短編集
「写真」或いは、イエスタデー・ワンス・モア

          ○1○

 広島市内から西にひと山越えた石内村に健一郎が引っ越したのは、市内の私立高校に入学が決まった二月のことだ。それまで、父親の健男が勤める自動車製造会社の社宅住まいだった。祖母が住む古い家を建て替えることにしたのは、代々の墓がある一帯の山が売れた金が入ったからだった。
 隣近所の土壁の木造家屋に比べ、外壁がクリーム色の二階屋はモダンな雰囲気があった。健一郎の部屋は二階にあり、フローリングの洋間だ。ベッドと本棚、机が置かれ、壁には、オリビア・ニュートンジョンのポスターが貼ってある。洋間なのに引き戸なのが気に入らなかったが、引っ越す前は妹との相部屋だったから、念願の個室を得て、有頂天だ。

 この家に引っ越し、健一郎の高校生活がスタートした。市内の高校まではバスと電車を乗り継いで一時間半かかったが、当初はその通学時間が小さな旅のようにも思えた。隣に同年代の女の子が座ったときは、それだけで頭がいっぱいになった。そのうちに、自分の好みの女の子を見定め、どうにか隣に座れないかと気をもむ。この年代特有の淡い恋心というもので、それでどうなるというものでもなかったが、通学時間の密やかな楽しみとなっていた。
 しかし半年も経つと、一時間半もかかる通学がおっくうになっていた。通学路で見初めた女の子と仲良くなれていたなら、それも違っただろう。たまに顔を見つけて、ハッとするだけのことなのだ。女の子の顔を眺めるよりも、十五分でも長く寝ていたかった。

 隣村に住む、松田修が同じ高校の一級先輩だと知ったのは、通学を始めて半年後のことだった。松田とは村で顔を見知っている程度で、話したことはなかった。体育館で顔を見かけ、声をかけたのは松田だった。
「なんや、あんたもここか」
「先輩じゃったんですか」
「わしは商業科よ。そっちは普通か」
「ええ、一応大学進学したいんで」
「わしは勉強苦手じゃけん、卒業したらすぐ就職よね」
 あっさりしたその物言いに健一郎は好感を持った。
「今度、よかったらうちに遊びに来ませんか?」
「ええよ、日曜日に行かせてもらおうか」
「少しですがレコードあるんで、カーペンターズ好きですか?」
「洋物はあんまり聴かんけどね。サイモンとガーファンクルならあるけえ、持っていくよ」

 日曜日となり、健一郎は、コーラとポテトチップスを用意して松田を歓迎した。石内村に越して、始めて友だちと呼べる相手を家に招いたのだ。玄関に立った松田を祖母の絹江に紹介すると、絹江は松田んとこの息子さんかといい、こんな大きな子がいたのかとしたり顔をした。
 自分の部屋に通し、すぐにレコードを掛け、洋物を何曲か聴いてなごんだ。
「カーペンターズもええね。気に入ったよ」
「ええでしょ。中学んときコンサート行こう思うとったら中止になって、今でもチケット持っとるんよ」
「なんで中止になったん?」
「カレンが病気になって日本に来られんようになってね」
「そりゃあ、残念じゃったね」
「この次に来るときは必ず行こう思う。それでチケット払い戻しせんかった」
「そのチケットもう使えんで」
「けど、宝物じゃけえ」
「そうか。そんときはわしも行くで」
「ほんまに?」
「ほんまよ、約束じゃ」

          ○2○

 それ以来、ふたりは無二の親友となった。松田は自転車で1時間かけて通学していた。バスと電車を乗り継ぐより、自転車のほうが学校に着くのに30分早い。それに定期代もかからない。健一郎は松田の誘いに決心して、一緒に自転車通学を始めた。朝、松田に家に寄り、共にペダルを漕いで高校へ通った。帰りも、校門で待ち合わせた。

 健一郎は空手部で、松田は合気道部に入っていて、武道談義に熱中できた。
「合気道はこっちから攻撃せんけえね。かかってこられたらそれを受け流すのが技なんよ」
 健一郎が、空手と合気道はどちらが強いかという質問に、松田がそう答えた。
「そう。なら合気道は受け身ばかりなん?」
「取りと受け身にわかれて交互に技を掛け合うんで、柔道とも空手とも違う」
「じゃあ、どっちが強いか空手とやってみんね」
「遠慮しとく。強い弱いを競わないのが合気の道じゃけえね」
 松田が笑いながら、瀬戸の海を指さした。学校からの帰りがけ自転車を降り、防波堤に足を投げ出して、西日が傾く赤い波間を眺めていた。
「海じゃ。波は打ち寄せ、また引いて。合気道はあれと同じゃ」
「ふーん。ようわからんけど、なんかわかる気もするけど」
 健一郎が松田の言葉を素直に受け止めるように言った。
「本当はわしもようわからんけどね。師範の話の受け売りじゃ」と松田が笑った。
 晩秋である。来年、松田は卒業し、健一郎は3年になる。松田は地元の農協へ就職したいと考えている。
「農協なら親も安心じゃけ、なんとか入りたい」
「松田君なら入れるじゃろう」
「こうやって一緒に通学できるのも残り少ないのう」
「ホンマじゃ、寂しいけど後1年は一人で自転車通学するけえね」

 それから半年して、松田は農協への就職が決まり社会人となった。社会人となった松田は、健一郎から見れば、もう自分とは違う大人に見えた。学校帰りに松田を訪ねても、家にいないことが多かった。久しぶりに顔を合わせ、仕事の大変さを聞かされても、健一郎には実感の伴わない話であり、適当に相づちを打つだけだ。
「帳簿は1円も間違えられんし、学校で習うた簿記とはわけが違うけえ。残業して何とかかんとか帳尻会わせて」
「ぼくは計算もの苦手じゃから、そんな仕事はできんね」
「それだけじゃないよ。農家を回るんにクルマ運転せんといけんけえ、今は夜に教習所通いもあるし、時間がないのう。学生のころが遠い昔じゃ」

 そのうちに健一郎も受験期が迫ってきて、ほとんど松田と会うこともなくなっていった。たまに電話で話し、近況を聞いていた。
「クルマ買うたんじゃ」
「すごいのう」
「中古のオンボロよ」
「乗せてえや」
「もちろんじゃ」

 日曜日になり、松田の家に行くと、庭先にクーペタイプが停められていた。見るからに中古車だが、健一郎には手の届かない乗り物だ。
「ええねえ、これに乗って毎日、農協へ通うんか」
「月賦じゃけえ、給料の半分は払わんとならん。オヤジに許してもらうん苦労したんよ。なにがクルマか、10年早い言われて」
「松田君のオヤジさん恐そうじゃけえ」
「ほうよ。でも許してくれた。全部、自分が責任持ってやれ言うて」
「わしも働くようになったら乗りたいのう」
「じゃあ、ちょっとそこらをドライブするか」
 松田が指先のキーを振り、健一郎をうながして乗り込み、エンジンをスタートさせた。
 カーラジオの音に混ざってエンジン音が車内に響き、初夏の風が窓から吹き込んでくる。対向車のない田舎道を走り、松田は50キロ以上スピードを上げない。去年、松田の弟が改造した原付バイクで転倒して入院したことがあった。
「うちの弟はあれからバイク禁止じゃ」
「バイクは危ないけえね」
「頭打たんかったからよかったんよ」
「クルマはスピード出さなにゃあ安全じゃけえ」
 ハンドルをしっかり握り、シートベルトを締めた松田が左ウインカーを点灯させて、山手の団地造成地へ向かった。そこはまだ一軒の家も建っておらず、土地が区分され、広い道がつけられていた。
「ここなら、ちいとスピード出しても平気じゃ」
 そう言いながらセカンドからサードギアに切り替え、エンジンを吹かし、トップに入れてクルマを加速させた。メーターの針が80キロを指している。助手席の健一郎の顔に、風が速度を上げて吹きつける。
「このクルマどんくらい出るん?」
「140キロくらいは出る思うんじゃけど、そがあに出したらエンジン壊れるじゃろう。わしはスピード狂じゃないしのう」
 そう言い、スピードは50キロに落としている。
「何キロまで出したことあるん?」
「一回だけ100キロ出したけど、大事に乗らんとのう」
 頑固な父親を説得して手に入れたこのクルマは、松田にとって宝物なのだ。彼が所有したものでこれ以上の物はなかった。
 健一郎には羨望だった。アウトドア好きの彼は、四輪駆動のピックアップタイプを夢見ていた。
「ちょっと運転してみるか」
 唐突に、松田がそう言った。
「え、わしが? ええん」
「特別じゃ。ここなら誰もおらんし」
 夕暮れの団地造成地の真っ直ぐな道路を走るクルマはほかにはない。人影もなかった。健一郎は、セカンドギアまでしか出せなかったが、30キロ程度のスピードで数百メートルの直線を走った。生まれて初めてクルマを運転する体験に興奮を覚え、自分も大人の仲間入りになった気分を味わった。

「今日はありがとう。運転おもしろかった」
「大学生になったら免許取りんさい。クルマは人生が変わるでえ」
「うん、バイトして金貯めんとね」
「小林が免許取ったらクルマ貸してやるけえ」
「ほんま、じゃあ乗らしてもらおうか」
「なら、そんときは遠くへドライブに出るか」
「ええねえ、どこまで行こうか」
「東北がええ」
「そがあな遠くへ? 1000キロ、2000キロあるじゃろ」
「クルマがありゃ、どこへでも行けらあや」
 松田がフロントグラスの遠くを見て、愉快そうに笑った。

           ○3○

 山の木々がじょじょに色づき、秋が深まり始めていた。健一郎は学校から帰ると部屋に籠もり、机の上に問題集を広げていたが、ふと、久しく会っていない松田の顔を思い浮かべ、電話をかけてみた。
「仕事忙しいんじゃろう?」
「そっちは受験勉強か」
「まあ、ぼちぼち」
「お互い、忙しいのう」
「ねえ、今度の日曜はどうしとるん?」
「たぶん、土曜日も残業して疲れて昼まで寝とるかのう」
「ほんなら、夕方くらいに遊びに行ってもええ?」
「予定はないけえ、ええよ。そうじゃ、あんたに借りとったレコード返さんといけんけえ、うちに来んさい」

 日曜日の5時過ぎ、家を訪ねると、玄関先に松田が出迎えた。
「おお、久しぶり。元気じゃったか」
「約束どおり自転車通学しとるけえ、元気よね。最近は山越えの道を使って学校まで50分で行とるんよ」
「ほう、あの峠を越えて行とるんか。頑張とるのう」
 松田の2階の部屋に上がると、健一郎は松田が駅前の洋菓子屋で買っておいたシュークリームと紅茶でもてなされた。三月ぶりに会った松田の物腰は、健一郎の目にはさらに大人になったように感じられた。
「わしも借りっぱなしのレコード気になっとったんじゃ」
「ええのに、オリビアはもう聴き飽きたけえ」
「わしが最近、聴くんはこれよね」松田がそう言って、キャビネットからLPジャケットを取り出したのは、八代亜紀だった。
「シブイの、聴くんじゃねえ」
「先輩にカラオケスナックへ連れて行かれて、聴くようになったんじゃ」松田が半分、唱うように「お酒は温めの燗がいい、ちゅうての。しみじみ飲めば、しみじみと」と、言った。
 健一郎にはその良さに同意ができないでいたが、職場の連中との一時に漂う空気がそういうものなのだろうとだけ理解した。今の松田にとっては、オリビアよりも八代亜紀なのだ。
 松田がそのレコードを掛けると、6畳間に艶のある歌声が流れ始めた。それからおもむろに立ち上がり、部屋の窓を開けた。
「ほら、この窓から新幹線の線路が見えるじゃろ。夜、家に帰って、窓の外の新幹線が走っていく灯を眺めながら八代亜紀を聴いとるとのう、なんか涙が出てくるんじゃ」
 そして、話の最後に松田は「辛いのう」とだけ言った。
 それを聞き、なぐさめたいとは思うが、どうなぐさめればいいのか。仕事をする身にある松田の心情を想像するが、健一郎には実感できない世界だった。

              ○4○
 
 それから一週間後のことだった。玄関先の電話に出た祖母の絹江が健一郎を呼び、掛かってきた電話に出ると、受話器の向こうから伯父の声がした。
「あんた、松田君と仲が良かったろう?」
「うん。それが?」
「ええか、驚きんさんな」
「どうしたん?」
「あのの、夕べ事故があっての」
 健一郎の頭から血の気が引いて、受話器の声が遠くなった。
「今夜が通夜なんじゃが」
「うん、行くよ」

 始めて見る人の死に顔だった。半分開いた瞳が、光が奪われたガラス玉のようで、もう二度と光は戻って来ないのだと思うと、健一郎の目から涙がぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
 祭壇の前で父親が短く挨拶をした。
「かけがいのない子をいっぺんにふたり亡くし、これは自分の不徳じゃ思うております。子らにはすまんとしか言いようがありません。わしはそれを背負うて生きていくしか」
 声が詰まり、深々と頭を下げる父親をみて、健一郎も頭を下げた。白い幕が張られた部屋の中のそここで泣き声が響いていた。
 
 通夜の空気がほんの少しゆるんで、健一郎は伯父から事故の模様を聞かされた。
「昨日の夜、団地の造成地へ兄弟で行ってのう。登り坂じゃったからスピードは出ておらんはずじゃが、道端に停まっとったダンプにうしろから突っ込んで。夜は誰もおらんから、助けも来んじゃろうが」
 前に、健一郎が運転させてもらった造成地での事故だった。あの、慎重な松田がなぜと、信じられなかった。
「魔に取られたんじゃのう」と伯父が言い、茶をすすった。
「信じられんよ」と、健一郎が声を震わせた。
「可哀想なことをしたよのう」
「親友じゃった」
「そのぶん、あんたがしっかり生きんといかんで」
 健一郎には、もうなにも言うことがなかった。

 年が明け、大学受験が始まり、健一郎は東京で試験に臨んだが、希望校はどれも不合格となった。浪人生活となり、予備校へ山越えの道を原付バイクで通う毎日となった。バイクを走らせていても、決して無謀なスピードを出さなかった。
 松田の死を忘れることはなかったが、とはいえ常々に思い出すことも薄れていった。だが、高校時代に通った山道を走ると、すぐに思い出すのだ。最後に交わした言葉を述懐していた。
「辛いのう」という言葉だった。
 新幹線の灯と八代亜紀・・・
 あの日、なぜだか、彼の写真を撮ったことを思い出した。久しぶりに会うからと、カメラを持って訪ねたのだった。健一郎が、あの窓辺で写真を撮ってあげると言うと、松田は照れくさそうにしてファインダーにおさまった。
 そのときの写真を現像せぬままだったことを思い出した。写真屋へ行き、現像を待って、数日後に仕上がった写真に松田の顔がハッキリと映っていた。それはどこか寂しげなうつむき加減の表情だった。
 健一郎はその写真に向かって、
「なんで、死んだんじゃ」とつぶやいた。
 そして、彼の死の少し前に訪ね、写真を撮っていたことを不思議に思った。

 日曜日になり、松田の家に電話をかけた。母親が出、仏壇に線香を手向けたいと言うと、息子も喜ぶと、か細い声がした。
 家を訪ねると父親も待っていた。茶を出され、以前はまともに会話をしたことのなかった松田の父親と話をした。
「じつは、これ」健一郎がそう言ってポケットから写真を出した。「亡くなる1週間くらい前に撮った写真なんです」
「おお、修の写真か」
「なんでか撮ったんです」
「これが最後の写真になったんじゃのう」
「お父さんにあげんとと思うて」
「ありがとう。あののう、2年前にこういうことがあってのう」父親が打ち明け話のような物言いで続けた。「広島市内の工事現場で仕事をしとったときなんじゃが、その道ばたで占いのおばさんが座っとっての。わしは占いなんか信じんのじゃが、そんときは気まぐれで看てくれ言うて。ほんならのう、あんたは大事なものを失う言われた。3千円も払うて、なにをバカなこと言うんかいうて怒ったんじゃ。じゃが、これがそうじゃったんか思うてのう。そがあな、ふしぎなことがあった。あんときゃ、まったくのう。わしはのう」

 それから1年後、健一郎は東京の大学へ通うこととなった。アルバイトをしながら、なんとか自力で生活し、酒の味も覚え、恋もし、広島時代の事々も記憶の彼方へ遠のいていった。アルバイト中、家具配達で2トントラックの助手席に乗っていて、居眠りの10トントレーラーに追突されるという事故を経験したが、その大事故でも奇跡的にかすり傷ひとつですみ、命を失うことがなかった。

 ある日、夢をみた。暗闇の中に、松田が立っていた。健一郎は夢の中で盛んに話しかけたが、松田は、ただニコニコと微笑んでなにも語らなかった。翌朝、その夢を思い返し、松田のことを忘れていたと思った。「すまん、松田君。今度、田舎に帰ったら墓参りするから」そう念じた。夢をみた日は、命日の翌日だったのだ。


毎日に思うこと

2011年02月09日 21時28分10秒 | 航海日誌
朝、ネクタイ絞めて、8時すぎに家を出て、満員電車に揺られて、会社に通っています。一般の社会人からすれば、なにも変わったことではないでしょうが、小生にとっては久方ぶりというか、ネクタイは初めてでして。

まあ、その朝の慌ただしいことといったらありません。ネクタイ結ぶのも慣れない手つきで、ありゃありゃ長さが足りん。馬子にも衣装と申しますが、なんとなくかっこうがついて、サラリーマンの顔で路傍を歩いております。年食った新人ですとのたまいながら。

おもしろいですな。人生は。どうなるか、どこへゆくか、頭ではわからないけれども、道を歩いている。「仕事があるのは幸せだよ」と、もちろん。おまんま食わせてもらえる身の幸福を毎日、噛みしめております。みなさん、そうだと思います。サラリーという、糧をもらい、生活する現代ですから。でも、お金の世界じゃなかったら、働くということもおろそかになることでしょうが。

働くという字は、にんべんに動く。人が動くことを働くという。この世で動けることが何よりの幸せです。


実は・・・

2011年02月08日 23時57分30秒 | 航海日誌
去年、書き上げた800枚の小説『ドリーマー20XX年』の出版がままならぬまま。で、このまま置いておけば、そのXX年がどんどん近づいてくるので、ブログで公開しようと思っています。でも、余りにも長い物語なので、どのように掲載すればいいかと考え中です。

この超近未来小説は、米がキーワードとなっていて、米が食えなくなった日本人がどんな苦悶をするのかの、シュミレーション小説でもあります。これを書いていたときは、まだ、TPP問題なども聞こえてなく、ただ、このままいけば農業が立ちゆかなくなって、世界情勢が急変すれば、いつ何時食糧難が訪れるかといった思いから書いていました。

で、書き終わったら、米専門のセールス・プロモーションの会社で仕事をするということになり、なんとも奇異な運命の巡り合わせを感じている次第ですが、やはり「米」は、今後の日本人の命運を分かつ糧であると、ますます感じるわけです。私は、いつも考えるよりも先にある、感じる事に従って生きてきたと思う人間ですから、そして、それが殆どといっていいように、そのように世の中がなっているので、自分では確信があるのであり、それをどう伝えるかに人生を費やしてきて、はーっ。

だから、書いた物が、腐る前に、お伝えしたい。だた、それだけです。方法を決めて、好き勝手に掲載します。でも、その前に、ソウルボート短編集をまとめで、その後。


大雪

2011年02月02日 23時50分00秒 | 航海日誌

今年は、記録的大雪で、犬も困るほどですね。子どものころ、雪が降ると大はしゃぎだったけども。しかし、この東京では降らず。雪恋しいは、身勝手か。写真は、某年の野沢です。野沢菜を温泉に浸けて、洗って食べると甘味が増しておいしいそうです。身勝手でも、大雪を見に豪雪地へゆきたいと思う。

2011年02月01日 23時13分20秒 | 航海日誌
平成5年は稲作の不作で、何百万トンもタイ米を緊急輸入して、タイ米は臭いし味が悪いと外食で、まずい、まずいといいながら食べた人も多かった。タイ米は香り米といって、それはそれで香しい米なのだが、古米以下のタイ米だったから、まずいのは当たり前だった。

今から17年前の話だが、あの年は冷夏のため、米の収量が半分だった。昨年は猛暑のために収量はあっても規格外の米が半数を上回った。冷夏のときのように米不足となっていないのが幸いだが、米の消費量そのものが減っているから、世間ではあまり騒ぎになっていないのかもしれない。

大半を輸入に頼っている我が国では、今のところ豊富な食料品が出回っているから危機感はないが、国際情勢が変われば一気に食糧難に陥る。食料自給率が40%程度というのはカロリー・ベースの計算であって、耕作機械を動かす燃料がなければ、もっと生産率は低下する。もし、石油が輸入できなければ、自給率は10%以下という試算もあるのだ。

ここのところ、気象に異常を感じない人はいないくらいだが、今年の米はどうなるだろう。不作となったら、とたんに米が有り難い主食になるはずだ。そんなことを思いながら、炊飯器に残ったご飯一膳を噛みしめる今宵である。