ソウルボート短編集
「マイボール」
親友、松田修が亡くなって、1年余り経ったその翌年、健一郎は大学受験に失敗し、浪人生活をしていた。石内村から原付バイクでひと山越えて広島市内の予備校に通っていた。その予備校には、同じ高校の同級生も数人が顔を揃えている。小学校のときからの同級生でサッカーが得意だった平田達郎もいた。
「のう、おまえはどこの大学目指しとるんじゃ?」平田がからかい半分の口調で健一郎に話しかけた。
「わしか、東京の大学」
「東京がつく大学なら東京経済、東京理科大、いろいろあろうが」
「どこでもええ、もう浪人はできん」
健一郎にとっては、どの大学というより、受かった大学へ行ければそれでよかった。とにかく広島を出て、離婚した両親のもとを離れ、ひとりで生活をすることが目標だった。
「平田はどこへ行こう思うとる?」
「わしか、九州よ。博多へ行きたい」
平田も大学名ではなく、土地を指して言った。
「博多か」
「ミュージシャンが多い街じゃ。わし、音楽やりたいんじゃ」
「音楽いうて、どんな?」
「ブルース」
「シブイのう」
予備校からの帰りがけ、山の上り坂をバイクのエンジンを吹かし、峠でブレーキをかけて広島市内を見下ろした。家々、町並みが見え、三角州に川が流れ、その向こうに瀬戸の海が眺められる。その風景が健一郎にはすでに懐かしいものに思えた。さまざまな記憶が断片的に去来する。それがひとつの塊のようになって、健一郎の胸を駆けめぐった。高校時代、松田修と自転車で通った山道だが、この峠から改めて広島を眺めたことはなかった。
「松田君、わしは東京へ行くよ」
そうつぶやき、広島を背にバイクにまたがった。
○○○
自室のベッドに横たわって天井を眺めていた健一郎の脳裏に、ふと、忘れていたことが浮かび上がった。
「マイボール預けたままじゃった・・・」
中学3年生のときにボーリング場へ行き、仲間のひとりに自分のボールを預かってもらっていた。そのうち取りに行くと言ったまま、すでに4年の歳月が流れていた。
植田徹に電話をかけると、大事に仕舞ってあるから取りに来いと言った。なら、今度の日曜日に訪ねると約束をして受話器を置いた。
瀬戸内海に面した新興団地に建った真新しい一軒家のベルを押すと、懐かしい顔が出迎えた。
「ああ、久しぶり」
「悪かったね。ずっとボール預けたままで」
「取りに来んから、もう捨てようか思うとったよ」
植田の部屋でいっとき話し込み、健一郎がケースに入ったマイボールを受け取ると、クルマで近所を案内すると言った。彼も浪人しており、最近、免許を取ったと言った。
「高校になってここに引っ越してきたんじゃけど、海の景色がええところなんじゃ」
植田が父親のクルマを借りて高台へ走らせると、瀬戸内海が一望にでき、宮島がすぐそこに見えた。
「ほんま、絶景じゃ」
「そうじゃろう。でも、毎日、見とると飽きるけどの」
「早ように免許取ったんじゃねえ」
「家の手伝いもあるし、大学は地元の私立へ行くけえ、大して勉強せんでもええから。今はアルバイト中なんじゃ」
「植田は昔から頭よかったから楽勝じゃろう」
「なにが、挫折よね」
吐き捨てるように植田が言った。あの優秀だった植田からの言葉とは思えなかった。もっと勉強すれば国立大学へも夢ではなかったのだ。何かを諦めたように、瀬戸の海を眺め、また、「挫折よ」と、ぽつりと言った。
○○○
中学時代のいっとき、ボーリングが流行った。健一郎の父親もその遊びに熱中して毎週、日曜日にはボーリング場へ通っていた。健一郎は、父親からボールを譲り受け、自分もやっとマイボールを持てたことに満足していた。クラスメイトの植田徹は早くからマイボールも持っており、スコア平均も170あった。最後にゲームをしたのは、中学3年の秋だった。植田は190を出し、健一郎は138の成績で終わった。
そのときなぜ、マイボールを預けることになったのか、なにか理由があったはずだが、健一郎にはハッキリした記憶がなかった。もしかしたら、もうボーリングをやめると言ったのかも知れない。それを植田が預かると言って引き取ったのかも。
そのマイボールが4年振りに手元に帰ってきた。もうボーリングに興味など消え失せ、ただの重たいボールでしかなかった。いったんは机の横に置いてみたが、納屋に仕舞い込んだ。
スポーツ万能で成績も良く、クラスの女の子に人気のあった植田が、あんなに浮かない顔でいたことが意外に思えたのだ。4年も会っていなかったのだから、その間で彼に人生になにがあったのかまったく知るよしもなかった。健一郎にとっては、ただ、意外さだけが際立っていた。
それから3週間ほど経って、中学時代の同級生、吉田綾子から電話がかかってきた。
「もしもし、小林君。吉田よ」
「ああ、どうしたん。久しぶりじゃね」わりと仲の良かったクラスメイトだったが、卒業してからは電話などなかった。
「あのね、驚きんさんなよ・・・」
「どしたん?」
「植田君がね、事故で・・・」その先は声を詰まらせ、泣き声に変わった。
「まさか」
健一郎は、呆然となり、3週間前に会ったばかりの植田の顔を浮かべた。
週末が葬儀だった。クラスのほとんどの顔が揃っていた。女の子らはみな声を上げて泣いた。葬式の帰り際、誰かが、今度、同窓会をやろうと言った。会えるときに会っておこうと、皆が首を縦に振った。
健一郎は、心の中で思った。去年、松田が亡くなる1週間前にふと思い立ち会いにいった。今度は植田を思い出し、同じく会いにいったのだ。自分が会えば、亡くなるとはどういうことなのだ。
その話は誰にもできなかった。気味悪がられたくなかったし、なぜなのかの答えがない。それに、そんなの偶然だと言われたくもなかった。
ただ、吉田綾子には、短く話した。
「二度目なんだ」
「ふしぎね。でも、小林君に別れをしたんじゃない?」
「そうとしか思えないけど」
「ふたりのぶん、がんばって生きなきゃ」
「そう思う」
年が明け、健一郎はどうにか大学に受かり、広島を離れることになった。その数日前に、西広島の国鉄駅前で、ばったり同級生に出くわした。予備校もいっしょだった平田達郎だ。
「おう、偶然じゃのう」
「平田か。おまえ決まったんか」
「九州へ行くことになったわい。おまえは?」
「わしは東京へ行く」
「ほうか、お互いがんばろうや」
「おう、がんばるよ」
ほんの数分の邂逅だった。その短い会話の中で健一郎は精一杯の思いを口にしていた。
がんばる・・・この世を去って行った友人たちのぶんも自分が背負っていると、それだけを思って。そうでなければ生きている自分がなんなのか、その答えをふたりから問い掛けられているとしか思えなかった。