『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

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真似る大切さ

2009年05月30日 15時05分10秒 | 合氣道のすすめ
合気道の稽古は、まず師範が道場中央で技の手本を見せる。取り(師範)が、受け(黒帯の上段者)に技を掛けるところを、生徒たちは黙って観る。その際、言葉による解説は余りおこなわれない。間合い、身体のさばき、技のかけ方といった一連の展開を、生徒は観ることに徹する。これを「見取り稽古」と呼ぶ。どの武道でも、見習うことの大切さを教えるが、合気道は、これを徹底させ、毎回、その形式でもって稽古をしている。

職人が、弟子に「観て覚えろ」ということと同じである。いきなり初心者に理屈を解いても理解に至らないからだ。たとえば鮨職人でいえば、親方が握る姿を丁稚(でっち)が見続けて、何年かすると、おい、握ってみろとなる。丁稚は、親方の姿を見て、全体から細部までの動作を頭に焼き付けていて、何となく格好ができる。鮨は指先だけで握っているのではない。身体全体でとるリズムもある。指先をこうしてああしてと教えたところで、旨い鮨は握れない。

習う(学ぶ)ということは、真似るのである。初心者を「見習い」と呼ぶ意味はそれだ。師範の、親方の、その技を徹底して見習うのである。「技は観て盗め」とも言う。つい、言葉で教わりたがることへの注意であるが、言葉でわかったつもりでも、できるものではない。むしろ言葉が邪魔をする場合が多い。

現代人は、とくに若者は情報入手が当たり前となっている。聞けばすぐに教えてくれるものと思っているから、すぐ質問する。脳科学の養老孟さんが、自著『バカの壁』で「今の生徒はすぐ答えを求める」と述べていた。答えがすぐに出ると信じ込んでいると。ABCは、答えではない。記号だ。なぜ、Bという解なのかの理解に至ることが学びなのだが、即席に慣れてしまってBと知って満足してしまっている。

まあ、批判してもなんぼのものかだが、とにかく、現代は見習うことが難しくなっているのではないか。言葉情報なしで、何年も観て覚えるなどといった面倒なことをやりたがらない。基礎を作らないで、オリジナルを先走って求める風潮が出来上がってしまったのが昨今だ。だが、世界に冠たる一流の若者もいる。野球のイチロー、ゴルフなら石川遼、スキーなら佐藤愛と、凄い選手が出ている。彼らはいきなりそうなったのではないだろう。才能がちがうと人は言うが、才能を開花させるまでの努力の積み重ねがちがうとはなかなか思わない。自分が手本とする選手の基本を何年も見取り稽古しつつ、淡々と滋味な練習を重ねて、その結果が凄いのだ。

合気道の話に戻ろう。合気道の稽古は地味である。師範の技を見取り、それを真似て稽古を繰り返す。派手さもない。試合もなく、勝った負けたの結果もない。しかし、「見習う」という、稽古の大基本をマスターして技を習得していくので、心身の鍛えられ方が格別なのだ。石の上にも三年で、見取るという習慣を身に付ければ、観察力が鍛えられている。これは凄い。言葉に頼らないから、吸収力が早く、理解力も高まり、超人になれる。ただし、地味な稽古をコツコツ30年も続けられればの話。超人はさておき、それぞれの人生を歩むうえで、善いものを「見習う」感覚を身に付けておけば、終生素直な生き方ができよう。合気道を薦めるゆえんである。