『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

明日、引っ越し

2010年08月18日 23時06分57秒 | 航海日誌
室内での熱中症に気をつけつつ、水をがぶ飲みしながら一週間ずっと荷造り作業に明け暮れていましたが、やっと明日、19日に引っ越しします。2キロは痩せたか(笑)。

明日、この部屋を去るわけですが、出かける前に部屋の四方に塩と水を供えて、四方拝をします。ここに住ませて頂いたお礼と清めです。神道式の祈りですが、我流です。なによりも感謝想起が大切なのですね。

本日は、引っ越し先へ出向いて四方に塩を供えて清めをしておきました。さて、引っ越し先でもまだ、バタバタしていると思いますので、ブログ更新は今暫くお待ち下さい。よろしくお願いします。


猛暑での引っ越し

2010年08月16日 09時56分26秒 | 航海日誌
連日、引っ越しの荷造りをしている。新宿区から豊島区の目白へ引っ越すことになった。暑さでふらふらの頭で、資料の整理や本の選別をやっている。もう何年も見ていなかった資料などは捨てて、できるだけ身軽になって引っ越そうと思うが、どうしても捨てられないものもある。

なぜ捨てられないのか。思いが詰まっていたりするとダメだ。忘れていたことを思い出す品。他人にはどうでもよいものがどうでもよくない。ものというものは記憶を引き出すのだ。思いを残してはならず、それを思い出してきれいさっぱりできたと思えるものは捨てることができる。つまり、こころの選別をしているのだ。いろいろあったな。いろいろ世話になったな・・・普段は忘れているが、引っ越し作業では思い出が溢れかえり、泣き笑いの自分を見つめることになる。こころの澱(おり)が取れればすっきりだ。これも一種の浄化作用というものだろう。


戦前の遺物

2010年08月15日 23時20分55秒 | 航海日誌
父が生まれた田舎の傾きかけたぼろぼろの納屋を、私は、小学生の頃に探検してみたことがある。いったい何がどうなっているのか、その構造もわけもわからず、まるでオバケ屋敷を恐る恐るすすむ小心者の、子どもだからそりゃそうだけど、でも好奇心のほうがまさっていた。

箱があった。木箱だ。油にまみれた臭い箱。中から出てきたのは、青錆びた懐中電灯だった。父が生まれ育った時代ーー昭和10年代ーーに電池を使った製品があったことが不思議な気がした。

ーーそんな大昔に、電池を使うモノがあったんか?

スイッチを引いてみたが、光らなかった。もう電池なんて切れている。へぇ、でも電池があったんだ。けっこう進んでいたんだ。

ボクは昭和40年代の子どもだ。昭和10年代は大昔だった。

その時代は戦争をしていたんだ。それから20年代の日本は全土で戦った。空爆でめちゃくちゃだ。原爆も落ちていっぱい死んだ。そのとき、そんなことなどボクは知らない。あとで知ったことだ。

古い納屋から出てきた古い懐中電灯は、ずっと電池が切れたままボクの記憶の中で灯ることもない。


小説完成!

2010年08月06日 13時30分27秒 | 航海日誌

この数年、ずっと書いていた小説を脱稿しました。以前にも、お伝えしていた、超近未来小説『ドリーマー20XX年』です。主人公は、山田一雄45歳。舞台は新宿区。しがない安サラリーマンが、ちょっと先の未来へ飛んで、驚きの世界を旅します。さて、そこはどんな世界なのか・・・

本書は、本日、某出版社の編集者に手渡します。出版が決まっているわけではありませんが、超おもしろいと判断されれば、本になることでしょう。出版されたら、ぜひ、みなさんに読んでいただきたいと思います。

本になったら、当ブログ読者へ抽選で本のプレゼントも!!(^0^)


旅の道、人の道

2010年08月02日 07時21分50秒 | 合氣道のすすめ
文筆業という仕事柄、旅をすることが多い。旅行系雑誌の取材で、毎月のように何処かへ出かけている。取材のテーマにより、訪れる地はさまざまなのだが、近年は今の世相を反映してか、「聖地」へ行くことが増えた。少々、列記すれば、伊勢、熊野、奈良三輪山、出雲、高野山、伊吹山、白山、月山といった古代から信仰される地や、聖なる山である。

まるで巡礼者かと我ながらに思うが、仕事という名目があって「行かせてもらえる」ことになる。いつか行ってみたいと思っていた地ばかり。ふしぎである。御縁を頂いて、ありがとう御座いますと頭を垂れ、参る。

去年の暮れには、「熊野古道」を歩いた。伊勢神宮から熊野速玉大社へ続く約170キロの山ひだを往く道である。その昔、伊勢参りから、さらに熊野詣を目指した人々の巡礼の道。平成16年に世界遺産に登録され、この古道を歩く人々が増えているとか。全行程を歩きたいところだが、そこは日程が限られた取材だ。

さて、ツヅラト峠、馬越峠など幾つかの峠を越えて、曽根次郎坂・太郎坂に至った。樹林のあいだに熊野灘が遠望され、苔むした石畳が続く古道の、峠の手前の路傍に、巡礼供養碑があった。文政13年(1830)、熊野を目指し、当地で行き倒れた武州(埼玉)の人を弔う碑であった。線香を手向け「生かして頂いて ありがとう御座います」と祈った。

今年の春、やはり取材で訪れた出雲大社や須佐神社でも同じく祈った。島根県佐田町に鎮座する須佐神社はスサノオ尊が「小さき国なれどよき処」と最後まで暮らした地である。「出雲風土記」にそう記され、スサノオ尊は神話の神でありながら、当地では実在の人物のようである。歴史には秘された事々もあまたあるのだろう。

訪れた地に祀られるのが神でも仏でも、参拝すれば「生かして頂いて ありがとう御座います」と唱えている。それはなぜか。有り難きことに人としてこの世に生を受け、今生きて歩けることの感謝を、土地土地で縁を頂いた神仏、祖先、先人に礼を尽くすことのあたりまえを想うからである。それぞれの土地には必ず人の営みがあり、今は目には見えないけれど、その歴史があって他所の者が歩ける道があるのだ。旅をするということは、その道を歩くことにほかならない。

ところで、「道」という文字をよく観ると、しんにゅうに首が据わっている。このつくりの意味は足が行き来する動態を顕し、そこに首(頭)がのっているのが、つまり道。漢字は表意文字であり、人が歩いている様が道そのものの意味である。

われわれが日々、稽古をさせて頂いているのは合気の道とはいわずもがな。私もこの道を歩かせて頂き、そろそろ十年になろうかというところで、ふと。

道というのは道程であるが、距離ばかりでなく、時の流れでもあるのだと想う。入門当初はわけもわからず手を振り回して、汗まみれになりながら息があがり、「難しいから面白い」などとのたまいながら今に至った。いったい幾人の方々と、受けと取りを繰り返したことだろうか。

それら数々の稽古の時間の中にも、人の歩む道がある。ゆえに感謝の想いを胸に、道場へ参り礼をして、稽古が終われば「ありがとう御座います」と声に発し言霊にするのである。

さてさて、この寄稿を生のまま高校生の息子に読ませたら、「理解できたよ」と云った。彼は小3から中3まで本部少年部で稽古した男子である。であれば親子共々ということで、これを合気道探求に捧げたい。

季刊誌『合気道探求』(第40号)より