『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

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宮古島のシャーマン6

2009年05月19日 14時25分28秒 | 宮古島のシャーマン
実はNさんは、20年ほど前に、NHKのスペシャル番組「養老孟の脳の宇宙」で、取り上げられていた。なぜ、シャーマンは特殊な能力を持つのか、脳科学の立場から検証しようという内容だった。その番組でも結論はない。ただ、ご神託を述べる御声(うくい)の最中の脳波が通常と異なるといったデータ結果だけが示された。

その番組で紹介されて以来、本土からの相談が増えたようだ。カンカカリャNさんのところへ相談に来る者たちは、やはり相応の問題を抱えている。島内の人なら、ちょっとした相談もあるだろうが、私たちのように本土から訪ねる者の場合、長年にわたって悩み続けている大問題を抱えている者も多い。その悩みは人によって様々で、霊的な影響などで身体に痛みが出る人もいれば、ノイローゼ状態の人もいる。そのような人は病院通いや、ほかの霊能者を巡って、それでも原因が取り除けず、ついに宮古島までやって来たというケースもある。「ここに座っておっても、忙しいんさね。悩みを抱えた人が毎日のように来るからね」と言って、Nさんが笑みをこぼした。

本土からの相談者の場合、悩みが重いこともあり、相談時間は数時間にわたることが多い。大抵が午後2時から始まり、夕方までかかる。だから、一日の相談は、1組か2組だ。相談料という決まったものはない。村の人なら、御声だけを聞いて、はい、わかりましたと納得して、線香代として気持ち程度の謝礼を置いて帰る。一時代前は、魚や野菜の場合もあったようだ。本土からの者は、何時間もの相談だから、自分で判断して、それなりのものを包む。だが、決してNさんから、幾らだとは言わない。

カンカカリャは、金の事を口にしない。そういった神との約束があるようだ。金儲けにすると、道を外すことになるからだ。正神が離れ、その与えられた能力が消えていくことになる。カンカカリャといえども、人の子である。中には欲に負ける者もいるかも知れない。そこが正に厳しい分かれ道となるのだ。

世間には、料金看板を掲げる霊能者も多い。時間で何万円と明示する所もざらだ。儲ける気になれば、旨い商売である。心底、困った者は金で済むならと払う。だが、金を喜ぶ邪神に寄りつかれ、目前の問題は一応、解決したようでも、後で何倍返しの請求書が来ることになる。最後は身ぐるみ剥がれる結果を招く人も世の中にはいるようである。また、そういう事に手を貸した霊能者も悲惨な末路を歩むことになる。

ただし、誠心誠意で祈り願い、その感謝の顕しとして、当人に無理のない金あるいは供物を捧げるのは礼儀である。御嶽や墓でおこなわれる沖縄式の祈りでは、沖縄線香(板状の大きな線香)や、焼き紙(紙幣の代わり)を燃やして、その煙を捧げる。その煙が立ちのぼり、祈る者の心を伝える。あの世で煙がお金に替わって、先祖や縁者の霊が使うのだと、Nさんは語る。
「私もね、線香代といってお礼をもらうと、いっぱい線香を買って燃やすさね」。渡された金を自分のことに使うのが躊躇われるからだと言う。お礼は、稼ぎとは言えない。それでも生活がある。生きていくためには使わねばならない。そのギリギリの選択を常に問われているのだ。

長々と金のことを書いたのは、カンカカリャ(シャーマン)の立場というものが、どういうことなのかという一面を理解してもらいたいからである。シャーマンについて書かれたもので、金銭についての解説は少ない。それに触れてはいけないといった感覚があるのだろう。どこか、タブーにさえなっている気がする。

恐らく、有料霊能者との一線もあって、金の話に触らないとしているのかも知れない。だが、ここであえてそれを書く意味は、相談者と霊能者との接点に金が絡み、それが陰で問題となっているという事実も知っておいてもらいたいからだ。どこかの霊能者の所へ相談に行って、相手から金銭を、それも常識外な額で要求されたら「怪しい」と考えたほうがいい。市中の手相・占いの類は別として、古来のシャーマンとしての立場を堅持する者は、自分から金を要求することはないだろう。ほんものの道を歩く者は、質素な暮らしをしているものである。
(つづく)


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