『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

思うということ

2009年05月12日 10時58分44秒 | ソウルフード
「思」という漢字をよくみると、田と心の二文字で作られている。どういう意味か、私流の解釈。田の心で、思う・・・田んぼは、春に育苗、田おこし作業をして、初夏に田植え、夏に草取り、秋に米を収穫する。つまり年間を通しての農作業である。農に生きる民は、年柄年中、田に心を寄せて生きている。それが、「思う」ということだ。

おたくの先祖は?と聞くと、ああ、どこどこの百姓の出ですよといった返事が大抵である。つい半世紀前までは皆そうだった。もっとむかし、家系が武士階級であっても田畑を作っていたから、生きる根本は農なのである。わらわれ農耕民はこれを何千年と繰り返して生きているのである。思うということにかけては歴史が長いのである。

5月は田植えのシーズンだ。都会の中にいては見えないが、今頃は忙しい。夜中になって、田に水が回っているか気になって布団を出て夜回りにいくなどということもする。田へ心を寄せて生きる姿が思うということだと。茶碗の底をみて、米粒を残すと目が潰れると云ったのは祖母だった。その祖母に連れられて草取りへ行ったことを思い出す今日この頃である。


負けて勝つ

2009年05月11日 20時55分48秒 | 航海日誌
民主党の小沢代表辞任発表。解散総選挙へ向け、挙党一致にかけ、タイミングを見計らっての今日だったのだろう。献金問題に対しては再度、「法律に基づき、何もまちがったことはしておりません」。辞任に関しては連休中に熟慮した結果と語った。

現職警官で愛媛県警の裏金を告発した仙波敏郎氏が今春、42年間の巡査部長を勤め上げた。彼は、組織の敵と呼ばれながら裏金工作を拒否し続けて左遷人生を送った。そして現職中の3年半前ついに告発に踏み切り、1350日後、勝訴した。「正義が勝つのにこれほどかかるのか」と語った。

以上は、今日テレビ報道で知った事である。「負けて勝つ」という武士道の言葉が浮かぶ。結局、誰と戦うのか。越えるか越えぬか、最後は自分という峠が待っている。そう、思う。


永遠と一瞬

2009年05月10日 12時12分21秒 | 航海日誌
あれ? 
ココにいるが、
時間という感覚がない。
空間にいるということは、
時間がともなうはずなのに。
では、ココはどこなのか。
ドコカ少しばかり外へ飛び出しているようだった。
布団にいて、ドコカ少しずれた場所(?)に精神がいる。

その精神で考えた。
永遠と、いま一瞬の感覚は、同じだ。
時間の介在しない、理性が介入しない。
只、ポカンと在る。

そこで目覚めた。
というか、いましがたの感覚を反芻しながら、
目を開けたということだった。
けさがた夢の扉を通り抜け、ドコカへ行っていたのだ。


見えない存在

2009年05月09日 11時37分15秒 | 航海日誌
年末、日比谷公園が派遣村となり、その支援者の代表的存在として注目されたNPO法人自立生活サポートセンター・もやい事務局長、湯浅誠さんが書いた本『反貧困/すべり台社会からの脱出』(岩波新書)を読み、見えない存在について考えた。

貧困状態に陥っている庶民がいるにも関わらず、国(各行政機関)が、日本にはまだ社会的に大問題となる貧困はないという認識にあり、セーフティーネットとは名ばかりで、どんどん滑り台を滑ってどん底へ落ちていく人々が増えているという。その実数がどれほどなのか、行政レベルの本格的な調査がないのでわからないという。

社会問題となるほどの貧困はないとして調査が行われていないようだが、調査しないで、なぜ、問題なしと断言出来るのか。実は、国は貧困化を認めたくないようだ。認めると本格的な対策を打たなければならなくなり、財源確保がいよいよ大問題となる。消費税15%も夢じゃない? ということで、貧困者は現況、見えない存在ということにされているようなのである。

官庁街を行き交うネクタイサラリーマンの中に、ベビーカーを押す主婦が混ざっても、それは場違いな存在であり、誰もその主婦など見えていないという喩えがある。目に映っても、見えないということはあるのだ。社会の中の貧困者もまた見えない存在となっている。年末の派遣村は、その見えない存在が一瞬、テレビ画面に映され、年末助け合い救世軍っぽい気分の高まりで熱気を帯びただけで、年が明ければどこかへ霧散して、あれからどうしたのだろうと思うのは当事者、関係者だけである。

未だに、テレビなどで自己責任論をかざす評論家もいるが、社会正義っぽく、「本人の問題」でかたづける底の浅さはイカガナモノか。本人の努力が足りないのだ、人生観が甘いからだ、社会に甘えるな、といった苦言はよく切れる刃だ。簡単に切れるからその道具を使って人を切るのだろう。切れば、それで済むのか? ご本人の気は晴れるかもしらんが。

湯浅氏の『反貧困』の中に、「溜め」という表現が出てくる。人それぞれの人生背景には、「溜め」の差異がある。お金の溜めは分かり易いが、家族、友人知人との人間関係も「溜め」と表現でき、それのいかんで人生の方向が違ってくるのだ。生まれてくるところから条件は異なる。また、時代背景で変化する。「俺たちの時代は・・・」は通用しない。横一列のスタートラインに並べて自己責任を問うのは単なる理想主義の観念でしかない。そんな論で人は救われない。「溜め」という表現には、なるほどと思わせる感覚がある。しかし「溜め」という感覚が呼び覚まされるのは、相当に切羽詰まった状態になってからかもしれない。だからこそ、あえて人生の溜めを想ってみたい。「溜め(人徳)」があるだろうか・・・と。


ほんとうは単純劇

2009年05月08日 10時52分58秒 | 航海日誌
世界がどうしてこうなのか。
あれこれとアル人は言うし、あれこれ言う。
どうなんだろう? こうなんだろう? 

そんなにむずかしい話なのか。誰かの陰謀なのかって論じゃない。権謀術数とか。欺し合ったって高が知れてるだろう。数が多かろうと、一つひとつの中身は想像を絶するほどのことも無い。結局は早い話がシステムの問題じゃないのか。誰かが作った都合が、コントロールできなくなっただけの話だろう。そんなハズじゃなかったんですが・・・不測の事態に陥って君この責任をどう取る?・・・という会話をあちこちの裏側でやっているのだろう。そう言いながらウッシッシで逃げ切ろうという輩がいて、知らぬ存ぜぬ記憶にございませんと言えば済むことになっている今のところはの話。

つまり、これぞ茶番劇である。その劇の狭間で、ちぢこまって魂を痩せ細らせる民衆と、その上を飛んで歩く天使と、柱の陰から舌なめずりをする悪魔と、床下で巨大な歯車を回転させる力こぶがいて、お誂え向きの楽団がピイヒャラ、ドンジャン、鳴り物入り、だ。シェークスピアが云った、生きるべきか死ぬべきか、のほうではなく、天と地のあいだには何でもあり!と云ったことのほうがよっぽど正直というものなのであるからして。


きょうは雨

2009年05月06日 13時49分10秒 | 航海日誌
金融システムが構築したコノ世界から貧困と戦争が無くなることはないとアル人が言う。お金は創出された時点で利息が発生しているカラ借金でスタートしているのが私たちが生きている現代だとアル人が言う。またソノ痛みが麻痺したままのエンジョイ、フィーリングライフであることを願ってやまない善良市民こそだとアル人は言う。

「だから、どうした?」
「借金を払い続けるだけさ」
「永遠か」
「幻想さ」
「きょうという日も」
「カネが消えたらカミも消えるさ」
「見たのか?」
「コレカラさ」
「雨ダカラな」
「火は水に消えるさ」


ウイルスの行方

2009年05月05日 08時44分02秒 | 航海日誌
新型インフルエンザ。中国では猪流感で、フランスあたりでは、北米インフルエンザと、その呼び名も、さまざまな豚インフルエンザだ。弱毒性で死亡者は少ないとか、タミフルが効くとか、心配ない雰囲気が一般的になってきたが、感染者は世界で日に日に増えている。

ソ連型も香港型も登場時は、誰も免疫がなかったから脅威となった。今回も、それと同じなのだろうか。すると、夏場にいったん終息しておいて秋以降、インフルエンザの季節が到来して、本格的に感染爆発パンデミックするのか。WHO発表も、今のところフェイズ6への移行はないとのことだ。

インフルエンザ騒動で忘れかかっていたが、今世界は世界大恐慌の真っ直中なのであった。クライスラー破産のニュースもウイルスで吹っ飛んだ。健康被害、経済被害のダブルパンチで世界は騒動中だ。被害者意識も過ぎれば妄想となるから要注意だ。

しかし、なんだか、今日の世界はちょっと静かな感じがする。5月5日こどもの日だった。童心に返って、こころを遊ばそう。ゆるめ、ゆるめ、それがいい、それがいい・・・本棚の奥から古い絵本を探しだして


母殺し誰か

2009年05月04日 23時51分39秒 | 航海日誌
地球をイングリッシュでマザーアースと呼び、
その大海原を母なる海と女性名詞にして呼んでおきながら、
母殺しを、おこなうのか? 
気がつこうがつくまいが、どなたか? 
母性の奥に潜む、イングリッシュマザーか?
映画の垂れ幕脇の、暗闇の如き、忘却か。
それを問うは、おまえか。
ありえるか、ありえんか。


豚から新型へ

2009年05月02日 09時04分46秒 | 航海日誌
3日ほど前からテレビ報道では、豚インフルエンザ→ 新型インフルエンザへと呼称変更されている。米国では、豚を新型と呼ぶことに改められ、それに準じてのことなのだろう。新聞・雑誌・ネットなどの媒体は、依然、豚インフルを使用している。報道も自主規制もテレビは素早い。

呼称変更は、食肉豚が敬遠されることへの対応だろう。現在(5月1日)、米国からの豚肉輸入を中止、または規制した国は中国、ロシア、韓国など18カ国。調理すれば安全として、日本は輸入を止めていない。ウイルス感染豚が入らないという確証はない。検疫を徹底するというが、当面は輸入中止とするべきだと思うが・・・

発生源はメキシコ・ベラクルス州に工場を置く米国企業「スミスフィールド・フーズ社」ではないかと、現地メキシコではと囁かれているという。同社はアメリカで4位の食肉加工会社で、豚肉加工では世界一の規模。以前から現地加工場での環境汚染が問題となっており、同社は今のところ事実関係を否定しているようだ。

正式な報道がない限り真相はわからないが、米輸入の豚肉も安全ではないと考えておいたほうがいいだろう。政府関係者は、過剰に反応する必要はないと連呼するが、なにをもって過剰と言うのか。無闇に流言を信じてパニくるのは愚行だ。ただし、危機管理対応の鉄則は、考え得る危険性は回避するという姿勢を取ることである。


咳にぴりぴり

2009年05月01日 11時24分03秒 | 航海日誌
昨日、地下鉄で前の席の60代男性が、口を横一文字にしてもじもじ。どうしたの? どうやら、咳を我慢しているのだ。顔を真っ赤にして咳をしないように耐えている姿をみて、気の毒になった。

そこで思った。今後は、人混みでの「咳」が批難の視線を浴びることになるだろう。例えば、クラッシック・コンサート中の咳は、音への批難だったが、フェイズ5となった現在は、飛沫に対しての批難に変わるだろう。単なる風邪で咳が出ても危険視される。マスクは必携である。

さて、明日から5連休。どこへ遊びに行くか。咳を我慢したり、咳にぴりぴりするような場を避けたい。自然の真っ直中で、のびのびと心身を解放しよう。ぼくは、太平洋を眺め、潮風を吸ってこようと思ってます。