『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

土方歳三その2

2010年01月30日 20時57分36秒 | 歴史の断層
       雪に埋もれた箱館五稜郭


幕末、京市中の警備を預かる特別警察隊がいた。新選組だ。その中に、鬼の副長と呼ばれた男がいた。土方歳三である。厳しい法規「局中法度」を作り、隊律を乱す者は容赦なく切り捨てるといった、その鉄壁のような存在が恐れられた。やがて、15代将軍、慶喜は大政奉還。新選組の存在意義は失われる・・・

慶応4年(1868)京都鳥羽・伏見の戦いで始まった旧幕府軍と新政府軍(官軍)との戊辰戦争は、戦場を関東、東北へと移していった。新選組はその中心的武闘集団となり、甲州勝沼、下総流山、宇都宮城、会津若松へと転戦するが、近藤勇や沖田総司を亡くし、土方歳三は新選組を再編成しつつ、戦い続けた。銃器による近代兵力の前に、旧幕府軍は苦戦を強いられた。頼みの綱は、新政府軍に対抗すべく奥州と越後の31藩が軍事同盟を結んだ「奥羽越列藩同盟」だった。いよいよ会津城が落とされんとなり、米沢藩へ救援を願い、庄内藩へ向かおうとした土方は米沢で足止めされた。各藩の思惑は異なり、同盟とは名ばかりで、一致団結の決戦は望めないと知り、土方はひとり仙台へ向かった。

この仙台で土方は、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚と始めて出会った。榎本は、最新鋭艦、開陽丸を始め、軍艦8隻を従え、蝦夷地へ向かうべく、仙台に立ち寄っていた。彼もまた、新政府軍へ徹底抗戦を望んでいた。その榎本と土方は意を同じくする。二人は意気投合したという。土方も開陽丸に乗り込み、蝦夷地へ向かうことを決意した。新政府軍に奪われた箱館五稜郭を奪回し、最後の命運を賭けた戦いに挑むべく。蝦夷地・函館近郊の鷲之木の海岸に上陸したのは明治元年(1868)旧暦の10月20日(12月3日)。雪が舞う暴風で、あたり一面の銀世界だった。土方は、ブーツを履いた洋装で、革の靴底で雪を踏みしめ、蝦夷地の第一歩となった。

(つづく)


土方歳三その1

2010年01月29日 22時59分37秒 | 歴史の断層
       蝦夷上陸地、鷲之木浜

私は、今回の函館を訪ね、土方歳三の軌跡を辿り、歴史の空気を吸いたいと思った。小雪舞い散る蝦夷上陸地の鷲之木浜に始まり、五稜郭や東照宮、土方戦死の地である一本木関門、慰霊碑・碧血碑などをまわった。やはり土方歳三のファンは多いようで、寺の供養塔や慰霊碑には、新鮮な花が手向けられていた。そここで手を合わせ、いわばそれは土方の亡霊を追うような気分であった。

新選組副長、土方は蝦夷地へ渡り、何を夢みたのか。新政府軍に追われ、旧幕府軍として戦った、その真意はどこにあったのか・・・260年続いた幕府の最後の武士として、義を貫く生きざまと覚悟・・・と、語るのはたやすい。もちろん、理想的観念では、そうであったろう。だが、もっと激しい人間感情の爆発があったのではないか。長州から湧き起こった新政府というものに賊軍呼ばわりされ、朋友近藤勇亡き後は、たった独りでも示しをつけたかった。豪農とはいえ、農民の出の自分が、最後は武士として散る。死して名を残すのごとく。そして、そのとおり、土方歳三の名は、北の大地に刻み込まれている。


函館冬景色

2010年01月28日 17時37分10秒 | 航海日誌
       函館山から望む市街地の冬景色


函館から昨夜、東京に戻ってきましたが、東京は温かいと感じました。マイナス温度のあちらでは、ダウンもこもこで寒さを凌いでいましたが、羽田に着き浜松町までのモノレールで汗ぐっしょり。と同時に疲れがどっぷり(笑)

函館で夜、乗ったタクシーの運転手さんいわく、今年は例年になく大雪で、かと思えば気温が上がって雨も降るし、気候がおかしいと。その雨がまた凍って道路がツルツルになるので、運転も大変だと。昼間の取材移動では編集者のK君がレンタカーの運転をしてくれましたが、ちょっと油断するとハンドルが取られて神経をつかい、あー疲れる!とこぼしていました。

そんな中での、土方歳三をテーマとした取材でした。土方が仙台から幕府軍の開陽丸に乗り込み、蝦夷地・函館近郊の鷲之木の海岸に上陸したのは明治元年(1868)旧暦の10月20日(12月3日)。当時も、あたり一面の銀世界だったそうです。土方さんは、そのときはブーツを履いた洋装でしたから、革の靴底で雪を踏みしめての蝦夷地の第一歩となりました。その翌年、旧暦5月11日に函館市街地の一本木関門で戦死するまでの、五稜郭を死守しようとした函館戦争の物語は、記事としてこれから書きます。明日以降、当ブログでも、そのダイジェストを、こぼれ話も含めて少々披露したいと思います。


また旅

2010年01月24日 21時26分54秒 | 航海日誌
いつも記事をお読み頂き、ありがとうございます。

今夜、広島から帰りましたが、明日、早朝から、また旅に出ます。今度は、先日お伝えしたとおり、函館へ行き、戊辰戦争の最終決戦地で義を貫き戦死した土方歳三の歴史を辿ります。戻りましたら、現地で見聞した話を書きますので、お楽しみに!

さーたーあんだぎーの恋

2010年01月19日 05時51分17秒 | ソウルフード
       沖縄の恋すべきスイーツ

さーたーあんだぎーに私が出会ったのは、20代の終わり頃、初めて沖縄へ渡ったときのことだ。それまでは、さーたーあんだぎーに会うどころか、その存在すら知らなかった。だから、さーたーあんだぎーに初めて会ったときは、それが、さーたーあんだぎーだとは分からず、ただ、握りこぶし大のへんてこりんな固まりとして目に映るだけだった。

「これ、おいしんだよー、食べてみたらいいさあ」と、那覇公設市場のオバァが云った。じゃ、1個ちょうだい。私はいっぺんで、さーたーあんだぎーが好きになった。だから、さーたーあんだぎーは食べ物である。

どんな食べ物か、分解して解説しよう。さーたー(砂糖)、あんだ(油)、あぎー(揚げ)といった沖縄方言だ。直訳すると、さとうあぶらーあげー、となる。つまりこれは、小麦粉に砂糖、卵を練り込んだ揚げ物で、別名、砂糖天ぷらとも呼ばれる。すでにヤマトンチューにもよく知られるから、この旨さはご存じだろうが、二十数年前は珍しかったのですよ、さーたーあんだぎーというものが。
甘くてどっしり、もっちりして、1個で腹ふくらむ、沖縄おやつの代表である。

ところで、最近まで知らなかったのだが、さーたーあんだぎーは縁起物として祝いに欠かせないらしい。揚げると、まん丸の一ヶ所がパクリと割れて、さーたーあんだぎーが笑うと表現されて福の神であるし、割れめは、その、女人の、それに見立てられ、子宝に恵まれるとして結納になくてはならない存在だ。つまり、さーたーあんだぎーの性別は、女性であった。

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【お知らせ】
さーたーあんだぎー讃歌を捧げ、本日から日曜日まで郷里の広島へ。ということで記事は数日お休みします。留守の間は、過去記事をご覧いただければ幸いです。


洞川温泉

2010年01月18日 11時56分32秒 | 温泉へ行こう!
       坪庭を眺めて浸かる「後鬼の湯」

【洞川温泉(どろがわおんせん)】奈良県天川村


修験者の定宿として500年の
歴史を誇る温泉旅館

奈良吉野の奥座敷にある洞川温泉は、大峰山の修験者たちが山修行の疲れを癒す宿として栄えてきた歴史があります。川沿いに十数軒の宿屋が並び、そのうちの一軒が老舗旅館「花屋徳兵衛」です。創業は大峰山の行者が一般化し始めた室町時代と伝えられ、今の主で17代目。建物は、昭和20年代に建て替えられたものですが、すでに半世紀をへて風情があります。夜には軒先に提灯が灯り、通りから下駄の音が響いてきて、ふと、今はいつの時代かと、レトロな時間へと誘います。

坪庭を眺めながら入る温泉は、弱アルカリで肌にやさしく、ぬるめの湯でゆっくりでき、24時間いつでも湯浴みできます。部屋に運んでくれる食事は、アユの塩焼き、湯豆腐など素朴な山料理「名水豆腐会席」で、旅籠のように昔ながらの箱膳でいただきます。行者の泊まり客は年々減って、今では半分以上が一般客。関西地方では、ここ洞川温泉は有馬温泉に次いで人気があり、昔風情の宿屋の味わいが新鮮だと、若い客層からも好まれているようです。奈良の奥吉野への心身リフレッシュの山旅で、お勧めしたい温泉地です。

この温泉街のすぐ近くにある「大峰山・龍泉寺」は、役行者(えんのぎょうじゃ)が開山した修験者の道場です。八大龍王尊を祀り、大峰山からの氣が満ちあふれています。いわゆるパワースポットですね。龍王さんの氣は相当に強いものを感じます。願掛けなどせず、ご挨拶程度で済ませるのが肝要です。私はどこの聖地を訪ねても、「ご縁で訪ねさせて頂き、有り難う御座います」と、挨拶で済ませています。宝くじが当たりますようになどとお願いしてはいけません。もし当たったりしたら、後が恐い(汗・笑)。また、近隣には芸能の神さまとして名高い「天河大辨財天社」もあります。こちらは芸能人や女性の参拝客も多く訪れ、やさしい氣に満ちています。ここでも、ありがとうございますで、お参り。後はまた、近くの村営温泉に入って、ほっこり湯浴みが気持ちいいです。

[温泉データ]
泉質:単純アルカリ泉 効能:神経痛、疲労回復など
洞川温泉「花屋徳兵衛」☎0747-64-0878
●奈良県吉野郡天川村洞川温泉 開 外来入浴22時まで(宿泊者が多い場合は不可)●1泊2食付1万2700円~、外来入浴600円 ●近鉄吉野線下市口駅から洞川温泉行きバスで80分、終点下車、徒歩8分


土方歳三

2010年01月17日 19時42分58秒 | 航海日誌
            高幡不動尊の土方歳三像


午前中の合気道の稽古後、新宿から京王線に乗って、高幡不動へ。今日は晴天、ちょいと郊外散歩がてら、日野市にある新撰組副長の土方歳三生家に行ってきました。ここには土方歳三資料館が開設されています。再来週の1月25日から函館へ出かけ、戊辰戦争の終結、函館戦争で旧幕府軍の義士、土方歳三のよすがを辿る歴史旅の取材があり、まずは、生誕地を見てこようというわけです。

京王線高幡不動駅から多摩モノレールに乗り換えて、一駅目の万願寺駅で降り、5分ほど歩いた住宅街の中の一軒が土方歳三資料館でした。昔は、武州石田村の田園地帯で、土方家は相当の豪農だったようです。平成になって今の家に建て替えられるまでは、当時の家が残されていたようです。資料館には、土方が愛用した刀や武具が展示されていました。見学者はざっと30人ほどいましたが、そのほとんどが若い女性というのも、やはりそうかと。最近よく聞かれる「歴女」に違いなく、展示物を食い入るように見つめる姿が印象的でした。20代の可憐な彼女たちは、北の地で散った義士、土方歳三に何を想うのか。

「土方歳三資料館」
東京都日野市石田2丁目1-3 ☎042-581-1493
● 開館日/第1・第3日曜日12時~16時 ●入館料/500円
● ホームページ/www.hijikata-toshizo.ne.jp


愛の超伝導

2010年01月16日 13時08分15秒 | 航海日誌
       昨夜は、めでたいのタイですた


夕べは、久しぶりに顔を合わせる友人たちと神楽坂で酒宴を開き、おっさん4人で盛り上がり・・・話題は近況から、政治のゆくえ経済のゆくえ、はたまた小沢潰しの地検特捜部の暴走裏話のたぐいですたが、酔っぱらってくるにつれ、臆面もなく、「愛」ってなんだ? という話に突入しちゃいますた。

そりゃあ、エネルギーの一種だよと小生のたまい、説明を続けますた。つまりだ、エネルギーてえのは大和言葉なら氣だが、男と女のあいだに交流するものだ。それが行って帰ってまた行って。もしも流れに、電気抵抗が起これば、愛はしぼんでく。たとえば、この女ゴはオレのことどう思っちょるんだろうと疑いだしたら、途端に直流アンペアが下がって、エネルギー抵抗が生まれて、巡らなくなると、愛はしぼんでく。愛の伝導、愛の電気オームだ。思考停止、心肺停止、脳梗塞のこの国にこそ、愛のエネルギーが今、必要だあ。

何を言っているのか、ワケがわからないのですた。でも、聞く側も酔っ払いですたから、あーよくわかるなあ~ そうだ、そうだと大騒ぎですた。で、ひとりが言いますた。なら、愛の超伝導ダナ。おっ、それいいじゃん! 無抵抗でグルグル男と女に巡りまくるって、エクスタシーの愛の宇宙遊泳だ。地球はグルグル回って銀河をグルグル回って、原子もグルグル回って、ぜんぶが回り巡りてて、気持ちいいわけだ。それが滞ったら気持ち悪い。よし、こうしよう。おっさんシスターズを結成して、愛の伝道師になろう。歌は「愛の超伝導」だ。民主党にも売り込もう! 友愛印の鳩やんも、ぜったい採用するってよ。

「タモリ倶楽部」でのデビューは4月の予定だと、酔っ払いの決意ですたが、このワタスが詞をかかんとならんので、未定の話ですた。

(本日は、近ごろ流行りの「ますた」言葉を拝借しますた)


カニ喰いに行こう!

2010年01月15日 10時07分22秒 | ソウルフード
       コレは鳥取産の松葉がに


国鉄時代に発売となった第1回目の「青春18きっぷ」で、学生最後の夏休みに北海道ひとり旅をしたときの話。1983年だから、もう27年前か。当時5枚綴りのこの切符は、1枚で1日各駅列車乗り放題。青森から青函連絡船で函館へ渡り、函館本線~室蘭本線と進んで、一気に登別まで行きました。クマ牧場と登別温泉の混浴風呂が目当てで、身長2mのヒグマをたっぷり見て、それから夕方、よっしと混浴へ行ったら、外来湯は4時までだった、ガ~ン。

マジで途方に暮れて、行き場を失った吾輩は、深い意味も目的もありませんがアイヌ村のある白老へ行く決心をした。駅5つ先だが、道南バスが来たのでそれに乗ると、運転手が「兄ちゃんはカニ族か」といい、大型バックパックを背負った当方の旅姿をほめてくれました。カニ族というのは、昔ながらの布製リュックを背負って狭い車内を横歩きする若者旅行者らを指して呼んだもんで、80年代になってからは絶滅した旅族だった。

「やっぱカニ族なら、ここの名物のカニ食べろ。道っ端で5ハイ1000円ダベ。安いから食え」と、運転手はしきりにカニを勧めた。海岸線を真っ直ぐ走り、白老バス停でストップ。どうもどうもと、480円を運賃箱に入れようとしたら、白手袋で制して、また「その銭っこでカニ食え」といいました。バスでヒッチハイクしたのは未だにあの時だけだが、当時すでに珍しくなっていたカニ族に、カニを食べさせたい一心が伝わって、ジ~ン。

小生いたく感激して、苫小牧方面へ走り去るそのバスを見送ったものだ。ありがとう、運ちゃん、さようなら~の旅。その後、道南の旅を続けました。ムツゴロウさんの王国の近くの霧多布岬へ行ったもんです。そしたら、先端の岩場で自殺しそうなアンチャンがいて話しかけ、牧場で働きたいというものだから中標津の牧場へ連れてったりして、青春の旅をしたんです。

だから吾輩にとってのカニは、道南バスのカニ食え運転手さんの思い出と結びつけられててね、いまだになつかしいのです。27年後の今、ちょくちょく出歩く新宿にも蟹道楽の巨大な電動カニ看板が爪を交差させていますが、それ見るたびに思い出す。運ちゃんとの約束どおりカニ食いにいくべか。実は、あの時、バス代で食べたのはイカめし弁当だった。今の季節はカニが旨い。旅はほんとにいいもんです。


乾物カレー

2010年01月14日 11時07分06秒 | ソウルフード
       乾物カレー。見た目は地味だが、旨い!

最近、各地で地震が頻発しているなと思っていたら、ハイチで大きなのが起こって、そういえば阪神・淡路大震災は今ごろだったかと。1995年1月17日なので、15年前の明明後日だった。そこで思い出した。大震災の翌年に雑誌の取材で神戸を訪れたのだが、テーマは地震ではなかった。神戸ポートアイランドに住む津村喬さんを訪ね、いっぷう変わったカレーの作り方を教えてもらうというのが目的だった。津村さんは評論家だが、気功家としても知られる人物で、地震の被災者でもあった。

1年半ほど経った神戸は、駅を降りて一見するかぎりでは、本当にあんな大震災が起こったのかというほど復興されていた。しかし、被災地へカレーの作り方を習いに行くなどという自分に、後ろめたさのような感情がつきまとっていたものだ。ただ、そのカレーのレシピは、震災で生まれたというのだから、ドキュメント性があった。レシピを載せるのは、自分が編集長を務めるアウトドアクッキング雑誌だが、ぜひとも津村さんが震災で思いついたというカレーを紹介したいと思い、神戸の地を踏んだのだった。

津村さんが住む神戸ポートアイランドの高層アパートは、液状化現象で大変な揺れだったそうで、部屋の中が滅茶苦茶になった。交通も途絶え、孤島状態になり、さあ食料をどうするかが即時、起こった問題だ。しかし、津村家には日頃からストックしてある食料品があったので、当面はそれを調理して食べたという。とくに好きな乾物を、いつも多めに買って棚に仕舞っておいたのが功を奏した。

その一品が、「乾物カレー」である。
作り方は、簡単。まず、高野豆腐を油で揚げておき、麩、切り干し大根、干椎茸、ちりめんじゃこ、唐辛子をカレールウで煮込む。高野豆腐が肉の代わりで、切り干し大根のシャキシャキ感もあって、想像以上にグンと旨い。日常なら、これに玉ねぎ、ニンニク、茄子、エノキなどを加えれば、変わりカレーのメニューになること請け合いだ。津村さんから震災の話を聞きながらいただいたカレーは、日本の伝統食品である乾物の滋味深い味わいだった。ぜひ、お試しあれ。そして、いざという時のためにも、乾物を買って棚にストックしておくことをお勧めします。


テレビぼやき2

2010年01月13日 13時30分44秒 | 航海日誌
昨日に続き・・・今日もテレビと報道の問題。以前、現地で聞いた話をする。現地というのがどこかは、「ここだけの話」だったので、伏せる。とある地方都市のお寺さんが、高級外車を何台も所有しているといった噂があり、それを某テレビ局が取材しようとした。ところが、お寺だけに門前払いをくらい、それでも取材を試み、近所の商店を回って取材をかけたそうだ。まあ、どこのお店も、その大きなお寺さんとの長年の付き合いがあるから、「そうですか、知りませんなあ」である。

ところが、ある一軒は、「ああ、外車がいっぱい」だと話してしまった。だが、テレビに映るのは困ると気づいたが、ムービーカメラで写されているのを知らなかったのか、それが、放映されてしまった。で、その古くからの商店はすぐに店をたたむことになったそうだ。たとえ顔がボカされたとしても、地元民にはすぐにわかってしまう。その店が「ちくった」となって、商売を続けられなくなったのである。全国、どこでも大寺院のある町なら、大抵はそういう共同体関係が何百年も前から出来上がっているのだ。坊主だけが儲けているのではない。

取材クルーは、取材相手に配慮というか、容赦のなく、坊主丸儲けを暴いてやるという正義感(?)で、報道の権利とばかりに、ワイドショー番組を制作して放映したのだろう。下請け制作会社の彼らは、自分たちの仕事と思っているから、そういうことをやり、テレビ番組を作って納品した。テレビ局の方は知らぬ存ぜぬであろうが、店への影響などわかった筈だ。当事者にしてみれば、生活を破壊されたのだ。どれほどの怒りと、うかつな自分への嘆きがあったか。寺の実態を伝えるには、犠牲もやむを得ぬのか。「ベンツやポルシェに乗る坊主はけしからん!」と訴える、そんなものが社会正義? 権力の番人だろうか? もし、本気で批判するなら、宗教非課税問題にメスを入れるべきだが、そんな番組は作らない(作れない)。

何度も何度も同じ事件を各局こぞってタレ流しているのも、マスコミという商業活動である。私も印刷媒体というマスコミジャンルで生活している者であるからこそ、あえて声を大にしているのだ。ペンの責任は重く、映像ともなれば人は簡単に信じ、大きく誤れば、ときに人を殺す。アタリマエや常識は、かなりの度合いでテレビが創り出している。近年のテレビは可なりおかしくなっているが、日々、何気なく観ているテレビは、凶器(狂気)の箱でもあるということだ。どう怖いかは、当事者にしかわからないだろう。例えば、痴漢にされてしまった経済学者、植草一秀氏のように。それを信じて観ているのは、誰だろうか。


テレビぼやき

2010年01月12日 11時08分51秒 | 航海日誌
テレビを余り観ないし観ないようにしている私が、ちょくちょく観るのはニュースだが、それは余りに偏向だと思えるので、ついつい観てしまうという状況である。何が偏向かといえば、民主党に対する報道姿勢である。去年の事業仕分けは祭典のごとき賑わいの中継であった。科学や文化事業の予算を削減する方向に、それでいいのかニッポン的な警告コメントが多々あったように思うが、今、それどころの状況か? 科学や文化の発展は国益にも重要であるが、派遣労働問題を始め、中層~下層の国民がまともな生活が維持できないといった危機的状況下にあるのだから、とりあえず科学・文化は脇に置いて、国民の「生きる権利」を守ろうとする仕分けに、文句をいっている場合か!?

という去年であったが、仕分け問題が終わって、鳩山総理の政治資金は母ちゃんから出ていた問題・・・最近はいよいよ小沢一郎の世田谷の土地購入金問題への攻撃が激化している。その前はやんばダム問題もあった。天皇閲見問題もあった。可笑しいでしょ。自民党の連中がまったく清廉潔白なのに、民主党の党首や幹事長は金問題がヒドイといったような印象を植え付ける報道合戦。はたまた、小沢一郎は裏から民主党を動かしているとか、鳩山さんはいいなりだとかといった偏向(偏光)フィルターを掛けて、何だか民主党は結局マニフェスト不履行で金権政治の自民党よりダメな政党とでもいわんかのようなバラエティ番組的報道。

心と頭のある視聴者たちは、みんなそのように感じ、思っていると、思われるが、どうだろう。唯一、テレビ東京の「カンブレア宮殿」で、村上龍が小沢一郎から真摯に話を聞き出していたが。小沢さんは、こういった報道をどう思うかと。自民党時代と民主党に代わってからの、特にテレビのニュースや関連番組の温度差には、驚き呆れるばかりだ。商業主義的マスコミにも程がある。度を超している。現場では、一体何がどう指示されているのだろうか。いくら温厚な私でも、怒ります。


成人式の記憶

2010年01月11日 16時37分52秒 | 航海日誌
       青年よ、牛を飼え! 

成人式が始まったのは、戦後のことです。埼玉県の蕨市で1946年におこなわれた青年祭が発端になり、国が1948年1月15日を成人式と制定し、「おとなになったことを自覚し、みずから生きぬこうとする青年を祝いはげます」を旨としたとか。自覚ってったって? おとなって何だい? そりゃ、きみ立派な社会人だよ。社会人って税金を払っていることですかと。それに立派って意味わかんない。立派てのは、派に立つだから、どこかの会社か団体組織に所属してだな、その役に立つってことだ。じゃあ、まだ学生だから先の話だなという若者も多いかも。

で・・・自分はどうだったか、30年前の話ですが、これからどういう人間になって生きていこうかわからない、何をしたいかもわからない。成人式には出ませんでした。酒は飲んだけども。それで、夏休みになり、ぶらりと旅に出ました。東北~北海道へのバックパッカー放浪の旅でした。

北海道中標津の牧場で、一週間ほど居候したときのことです。その牧場主と夜、焼酎を飲みながら聞いた話です。都会へ出たいという長男にソアラという高級車を買い与えて繋ぎ止め、牧場主は黒のクラウンに乗っていました。「息子に嫁を見つけてやれるかどうか。大型農業機械に比べればクルマなんか安いものだ。農協に借金が何千万円もある」と、こぼしていました。

牛を何百頭も飼っている大牧場の経営主を、単純に幸せな金持ちと思っていましたが・・・牛の世話は朝昼晩の繰り返しの単調でしんどいものでした。楽しみは夜の酒。町まで15キロの距離がありました。牧場を去る日、駅まで送ってもらい、牧場主が別れ際にポケットからしわくちゃの千円札と小銭を出して、旅の足しにしろとくれました。そのお金で買ったホタテ弁当が旨かった。

そもそも、その牧場へ行くことになったのは、霧多布岬で出会った青年がきっかけでした。夕方、誰もいない岬に彼は佇んで、ずっと海を眺めている。手には昔流行った古いマジソンスクエアバック。その姿をみて、ひょっとしてコイツ飛び込むんじゃないかと思い、声をかけたのです。同い年くらいのM青年は昨日、東京を出て来たといいます。高校を出て小さな印刷会社に勤めていたが、その仕事がつくづく嫌になって辞めて来たと。どこへ行くかも何も決めていないが、牧場で働いてみようかというので、近くの民宿に泊まり、翌朝役場へ出向いて牧場を紹介してもらいました。その行きがかりで自分も牧場体験をすることになったのでした。M青年は、その後も働き続けていると手紙をくれました。こんな辛い冬を越せれば、自分もきっと成長するだろうと、冬の北海道の厳しさがとつとつと書いてありました。

翌年の春、彼は東京へ戻ってきました。再会を祝して渋谷で酒を飲みました。半年余りの牧場体験で何か結論が出たようでしたが、やりたいことはまだ見つからないと話しました。とにかく、あんな厳しい生活もあるのだから、やる気になれば何でも出来るだろうというようなことを彼はいいました。私も励まされて、やる気だと思ったものですが、まだ、何をしたいのかわかりませんでした。だから、やる気が問題なのではなく、何がしたいかが問題だとわかりました。20歳の頃は、まあ、そんなものです。やる気が先か、したいが先かと、悩めることが若者の幸せというもんです。やりたいことに、やる気が出るのは、おっさんになっても同じです。


鏡開き

2010年01月10日 17時58分19秒 | 合氣道のすすめ
今日は、合気道本部道場の鏡開きでしたので、先ほどまで式典と直会(なおらい)があり、道主の奉納演武後に供物を頂いて宴会をして参りました。樽酒で、ほろ酔い、仲間と語らうひとときは実に楽しいものです。今日が今年、最初の稽古でしたが、正月で眠っていた身体が、ぴしゃりと起きて、道場で活気づいて、気持ちが良くなりまして、その後の酒宴ですから尚更です。

大本の教主、出口王仁三郎翁は、合気道開祖、植芝盛平師が若い頃に、「あんたは、合気道で、和合を伝えなされ」と語ったという逸話が残っています。元々は京都綾部の大本で合気道は発展したという歴史があります。頭で考えるだけでは不足。身体で知るだけでは不足。心身が統一されて成就するのが、この世です。

昨日まで、温泉の話を書いていましたが、合気道も、温泉とは違いますが、身体に染み通る「氣」が、実に素晴らしいものであります。これはやってみなければわからない。私は42歳の厄年から始めましたが、もしも、御興味があられるなら、試されることをオススメします。大和が生んだ戦わない武道の、真価を、ぜひ、多くの方々に知ってほしいと思います。50、60歳から始める人もいらっしゃるので、まだまだ遅くはないですよ。思い立ったが吉日。身体が知れば、早く始めれば良かったと思うくらい、心身心地よい稽古後を体験できる筈です。