『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

世界文明の終焉

2009年09月30日 18時29分52秒 | 航海日誌
いま、世界はどうなっているのか、この日本はどうなっているのか・・・そんなことわかりっこないと。

いえ、世界文明の終焉だと言えば、そんなバカなと一笑でしょうか。ところが、いま世界は終わりつつあるのだと。アメリカは金融という大爆弾を爆発させてしまい、その爆風がヨーロッパへ吹きすさび、その余波がアジア大陸へ渡り、日本も煽りを受けていて、青色吐息だと。

「国敗れて山河あり」と言ってもよく、先の戦争のような原爆投下と違って、山河は変わりなく、清々しいまでの秋風を吹かせています。ところが、人々の顔は青く、これからどう生きていけばいいのかと。

あなたは違いますか。隣の人はどうですか。私の隣人は仕事ゼロとなり、ライフスタイルの行く先が見えないと嘆いていますし、この私だって、仕事など殆どない。しかし、今日もご飯は食べられた。だから生きている。さて、明日は?生きていく覚悟でおります(笑)。

文明は500年周期・150年周期・60年周期・10年周期・3年周期といって、それぞれエネルギーの差異がありつつも、サイクルしています。では、いまは? 列記した周期がいっぺんに訪れていると。目先の事々だけを見れば、今日明日の話です。遠望すれば、500年の物事の流れが見えます。それで、ドンと目の前に500年周期の現象が起これば、全員がバンザイ。お手上げ。

そんなように思っていてまちがいないと。なぜ、そんな酷い話をするのかといえば、「大安心」の心境に至るには、最悪を味わい尽くす覚悟がいるということだからです。まだ平気だろう、何とかなるさも限度があり、来るときは来るのだと。まだ、自分の天寿があると思えば、どんな状況となろうとも生きてやろう、生かしてもらおうと、気概が湧いてくる。恐い恐いで足をすくませ、目をつぶっていて、どうなると。そうか、500年周期の文明の終焉か、すごい時代の狭間に生きているのだと、腹をくくる。そんな心境でしょうか。


腹を決める

2009年09月29日 09時37分16秒 | 合氣道のすすめ
人というものは、大きくいうと頭と腹で生きている。頭で考え、腹で動く。人体的にそう出来ている。考えだけでは生きられず、何かを食べて栄養にしているとおり。食べるものは食物だけではない。考えの素も食べているから、腹に「氣」として溜まる。人体の栄養になる氣もあれば、毒になる氣もある。

「あの人は腹がある」と言われる場合は、腹に溜まった毒素のことを指されている。裏腹である。また、「あの人は腹がない」と言われる場合は、心身が清潔なのである。いわんや、人は誰しも清廉潔白を望むが、なかなかそうはならない、出来ない。それは腹というものの有り様を知らないからだろう。知らなければ、腹を決めることは出来ない。武士が切腹するのは、腹の中を見せていさぎよしとする最後の儀式である。

胃袋が第二の脳と呼ばれるのは、まさしく。考えるのは頭の仕事だが、それ以外の思い「氣」を受け止めて溜めておくところが腹だ。腹がすわっていれば問題ないが、これが過ぎれば身体が壊れる。胃潰瘍はそういう現象である。さらに酷くなればガン化してしまう。物事がきゅうきゅうとなれば、腹が痛くなるのは腹が受け止めているからである。やせ我慢で、片腹痛いなどとも言う。

だから、今の世で腹に黒い氣を溜め込んでいる者は、早かれ遅かれ自分を腐らせて自滅していく。恐らく、その覚悟などなく、腹をくくることなく、無自覚にそうしているに違いない。どんな言い訳も、自分の身体には通じない。自業自得というよりほかはないのである。天が罰を与えるなどという必要もない。それが人間に与えられた自由平等の、ほんとうの有り様である。


口先と腹の中

2009年09月28日 10時45分22秒 | 合氣道のすすめ
人には考えというものがある。これは頭の中にある。一方、意見というものがある。これは喉先に待機している。さらに、思いというものがある。これは胸にある。では、腹の中にあるものは何か。考えやら思いやらをひっくるめた私意・思惟・恣意だろう。どれもシイと読むが、私利をおもんばかり、それに思い巡らせ、思うままに腹に溜まっているものだ。

さて、人に意見を問われ、それに答える中身は喉先に待機している言葉だが、それは頭の中で考えた言葉で、TPOにより温度差があるにせよ、余り遜色がないように調整して吐き出される言葉である。これが出来る人が大人と呼ばれる。たまに胸の内までを語れば、それは感情論となり、気持ちはわかるが、それを言っても始まらないと慰められる。さらに、腹にあるものを喉元まで上げれば、馬鹿者になり、相手にされない。

人というものは、意見と腹の中の二重に考えと思いに生きている。ふだんはそんなことなど意識もしないが、時に、切羽詰まったりすると、一気に腹の中のものが胸内のものといっしょくたになって込み上げて、自分でも何をどうしゃべればいいのかわからなくなって、自暴自棄に陥ってしまうこともある。人には人の性格性質があるから、個人差の大きな話だが、おうおうにして大概のこととして述べているである。

だから、事の重要度が増すごとに、人は腹を探り合うことをする。なぜなら結果、最終的に人は腹で動いているからだ。だから、ウソが生まれる。言行一致は理想論である。複数の人間が絡めば、ウソの相乗効果というやつで、誰がついたウソかも分からなくなって、社会に表出している。その表出したものが事実として語られてマスコミに垂れ流される。報道がよく使う、事実関係という話とは全く別次元の、どちらかといえば心理学的な問題の事である。

そういう人間学というものを抜きにして、どれが真実か、正しいのかと議論していても愚の骨頂だ。人は自己を防衛して生きているのだから、必死なのは当たり前のこと。だから、真剣勝負なのだ。腹のない人と呼ばれる人であっても、腹がないわけではない。腹の内を見せないスマートさが備わっているか、もっとスゴイ人はなるべく腹に溜めない術をもっているのだろう。政治家でいえば亀井静香氏などがその代表か。竹中平蔵氏を指して、「ハゲタカの代理人」【注】と公然と、ましてやテレビで言える政治家がほかにいますか? あのような人は特別なのである。もちろん、亀井氏の腹の中など見ようがないが、合気道の大先輩として、また同県人として誇りに思います。

【注】:ハゲタカとは、米国大手ファンドを指す。郵政民営化と4社分割は郵貯・簡保の国民資産340兆円を吸い取る策略として、アメリカが竹中平蔵を代理人として使い、施行させたとされる。ハゲタカという用語は、ネットではかまびすしく語られるキーワード)

亀井静香公式ウェブサイト
      ↓↓↓
http://www.kamei-shizuka.net/

ネットは諸刃の刃

2009年09月27日 18時27分00秒 | 航海日誌
私も日々、情報を得るために幾つかのネットを見ています。すると、そこには様々な事柄が書かれています。基本的には良識をもって書かれていると思えるものですが、枝葉に入ってみると中には、これはどうだろうか? というのもありますし、どう考えても作為的なものもあり、渾然一体とした世界がネットに見受けられます。

ネットは世界のスクランブルであり、有象無象の賑々しい世界です。責任論でいえば、どこも責任をもっていない。それは、そのサイトの管理者のみの責任ということですが、社会的な責任はないところで、様々な情報が流れています。それは周知のことと了解されてのことでしょう。

だから、面白い。ですが、それをどう判断するかは、すべて見る側に掛かっています。こういう形態は、以前のメディアには無かったことです。校正校閲も、既得権侵害のチェックもなにもないといっていい。これをメディアと呼んでいいのかと、議論は続いていますが、あえていえば、まったく新たな媒体であると否定できない。既存しているからです。

そこで問われるのは、読み手の問題です。どう判断するか。諸刃の刃であると。作為的なウソもあれば、どこかでリークされた情報もある。また、個人的ではあるが、何かを伝える情報もある。つまり、ネット世界と対峙することは、真剣勝負だと言えるかも知れません。自由であることの危うさがあります。ですが、得られなかった情報が一家繚乱のごとく開陳されているのもネット世界です。さあ、どう見ますか? どう読みますか? それが貴方に問われていると。こうして私が書いていることも、貴方との一対一の勝負だ。

ということで、明日は、その先を書きます。


尾瀬の山の神

2009年09月26日 12時53分46秒 | 未知への扉
       尾瀬の夕刻ひとり歩く。向こうに至仏山。その時!

一昨年の9月11日、10年ぶりに尾瀬へ行ったときの話です。午後に尾瀬ヶ原へ入り、ビジターセンターに立ち寄り、山荘に荷物を置いて夕食までの時間、独りで木道を歩きました。夏休みが終わり、人影もまばらで行き交う人も数人。広い尾瀬ヶ原を1時間も歩けば、もう誰もいませんでした。牛首という場所が尾瀬ヶ原の中間地点で、さらに木道をコツコツ鳴らせて2キロ歩き、竜宮まで行って折り返しました。時計の針は5時をまわり、辺りはうす暗くなっていました。

 おれは、この広い尾瀬ヶ原で、
 ぽつんと独りだ! 

人っ子ひとりいない大自然の中で、感覚が開放されました。すると、おかしなことに何だかむしょうに、股間のあたりが、むずむずむくむくし始めるのです。そんなこと初めての経験です。オイオイなんだよ、コレ? 男という生き物は視覚動物でして、女の方がいない場所で、そんなことにはなりません、ふつうは。 

ただ、山仲間から、そういう話は聞いたことがありました。「山の神って、女の神だから、男は自分の道祖神をさらすと喜ばれるんだってよ。山にいて、わけもなくそういうことになると、木こりや猟師たち山人はそうするんだそうだ」

山人にならいました。尾瀬ヶ原の真ん中で、おかしなことをしているなと思いつつも・・・それからロッジのある方へ木道を急いで歩きました。その方角には、至仏山がそびえています。そうか、あれは神の山だ。そう思い、自分の精神を広げるというか、祈るような感じで歩きながら山を眺めていると、にわかに空の雲が割れ、夕陽がさし込みはじめ、至仏山の谷間に、光の玉のような白いものが降りてきました。

その谷間の神々しい光景に、言葉にならない、何かエネルギーのようなものを感じました。山が笑うというか、喜ばれているような、受け入れられているような、そんな壮快な気分でした。

さて、翌日。ビジターセンターへもう一度、立ち寄ると、職員の人たちが朝から忙しそうにしています。昨日と様子がちがいます。
「今日は何かあるんですか?」
「今日9月12日は、至仏山の十二さまという山の神のお祭りで、その準備があるんですよ」
「はあ、どんな神さまなんですか」
「なんでも、12人の子を産んだ山神さまで、それで十二さまと呼ばれています。豊穣の神さま、私たちからすれば、山の安全を守ってくださる神さまですね」

では、尾瀬ヶ原で感じた何かは、あながち・・・

さすがに例の話は、センターの女性職員にはしませんでした。ただ、山の神は女神なんですねとひとりごち、昨日の奇妙な体験を胸に仕舞い込みました。あれは実に、山の神という、目には見えぬ存在エネルギーを感じる山旅でした。夕暮れの尾瀬を歩けば、そんなふしぎなこともあるという話です。

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【お知らせ】
8月末に取材で登った月山の記事が、本日発売の『男の隠れ家』11月号に掲載されています。特集「週末、山へ」の中の「信仰の山を旅する」です。本ブログのようにディープな部分には触れていませんが(笑)。書店で手に取ってご覧頂ければ幸いです。


霊性と宇宙

2009年09月25日 09時25分25秒 | 未知への扉
       縄文人がみた何者か


『霊性と宇宙時代の到来』
思考限界を超えて人類が至る道

真の霊性と宇宙次元への目覚め。それは、この世とあの世とを含め、幻であることを知覚すること。幻のとりこを終焉すること。般若心経で云うところの、「遠離一切顛倒夢想」である。

霊的なものと、宇宙とを、ひとつのものとして捉えることができるでしょうか。

霊的なものは、仏教、または神道、あるいはキリスト教などの宗教イメージで思考します。一方、宇宙について考えるときは、天文学的に、またはSF(サイエンスフィクション)的なイメージとなります。

われわれは、二分する思考が強固ですから、霊と宇宙という二大重要事項を別々の事として思い、どうしても「ひとつのもの」として考えることができないのです。

霊と宇宙を、「霊宇宙」として、差異を超えて、ひとつのものとして考えることができないのではありませんか。いえ、考えることはできます。今、考えているのですから。しかし、考える、その先へ思考を飛躍させ、イメージを発展させることができない。

これを「思考限界」と呼びます。どうも、この思考限界がわたしたちを現状に縛り付けている原因ではないかと思うのです。

大本の出口王仁三郎が面白い話を残しています。この地球は大昔は地軸が真っ直ぐだったが、辛苦の環境となって人間が進化発展をするようにと、神が地軸を傾けたと。その地軸がまた真っ直ぐになる日が来る。そのとき人間は神人となると。

ここで語られる神とは? 宇宙神でしょう。サイエンスの宇宙と宗教の神ではありません。ウチュウカミです。ウチュウジンでもいい。われわれが知るところの名前などないのですから、不可知なのですが、話をするのに仮に名称を付与しているに過ぎません。イメージの外側にある何者か、何か、です。ただ、わたしたちは、その話を面白いと思うかどうかだけです。

二分思考はDNA二重らせんの影響かも知れません。本当かどうかわかりませんが、米国では三重らせんの子どもが発見されているという話もあり、インディゴ・チルドレンと呼んでいるそうです。天才的なのだとか。それが本当として、かれらならイメージの向こう側がリアルかも知れません。

出口王仁三郎が、神人時代はもうすぐじゃ、と語ってすでに半世紀以上となっていますが、間もなくの事かも知れません。神人か霊人かに生まれ出る一瞬の産みの苦しみを母・地球が耐え忍んでいるのが今かも知れません。

今日は、いつもですが、「と思う」の話をさせて頂きました。


土地の味

2009年09月24日 11時40分49秒 | ソウルフード
       名物の芦名サラダ

昨日、連休ラストは家族で神奈川県の三浦半島へ出かけました。半島先端の佐島にある天神島は県の天延記念物として保護される海岸で、ここで弁当をひろげて太平洋を眺め、潮風に和みました。すぐ近くの佐島漁港は、地域の良港として知られ、東京でも佐島産の魚といえば、旨そう!となります。

その佐島から歩いて15分ほどの丘陵地が芦名です。芦名という地名は、半島地名にもなっている三浦一族から分かれた氏族として知られます。戦国武将の石田三成も芦名氏の流れをくむといわれます。三浦氏枝分かれの系統には、相模芦名氏と会津芦名氏があります。鎌倉の地にほど近い土地柄ですから、名門の武家氏族が多く排出されてしかり。源氏に縁のある私としては、まあ、気になる土地ということになります。歩いていると、いつしか800年前の世に心が飛んで、一緒に歩いている家族は、ははあ、またいつもの調子でと(笑)

さて、その丘陵地を歩いた県道脇に「カフェ・エ・カーネ」という名の店があります。実はちょうど2週間前に取材で訪ねた店で、ここの気さくなご夫婦と名物料理がすっかり気に入って、また訪れました。イタリアンスタイルの料理に使われる野菜や魚は、ほとんど地物で、味つけもナイスです。なかでも気に入ったのは、大皿いっぱいに盛られた「芦名サラダ」(1200円)。近所の農家さんが作った無農薬野菜がホント旨い。野菜が苦手の息子も旨いとのたまうほど。ご主人手作りのスモークチキンがまぶしてあって、これをつまみにワインが一本空いてしまいます。(詳しくは、「クラリス」という雑誌で紹介)。

三浦は魚だけでなく、野菜が旨いとは周知のことで、いい土地だなあと憧れます。NHKで放映していた「白洲次郎」のように、自分もこの辺りに土地を借りて百姓をやりたいと、ワインを飲みながら放言していると、ご主人に「探しておきましょうか」と言われて本気になっているのですが、いつものように家族は笑っております。晴耕雨読に憧れ、早や幾年月か。待てば海路の日和あり。とはいえ、説得と実現方法を見つけねば。


と思う

2009年09月23日 07時52分58秒 | 航海日誌
改めてと申しますか、おことわりしておこうと思うことがあります。このブログでいろいろの事を書いていますが、「ナニナニである」といった文体で書く場合も、じつは、その尻に、「と思う」が付いているということをです。

何か言い訳をしているように聞こえるかも知れませんが、文章というものは、本来的にそういうものだということです(と思う)。断定した言論であっても、それは個人の考えであって、どう思うかは読み手の判断であり、強要できるものではありません(と思う)。ですから、私の文章に限らず、すべての文章には、「と思う」が尻にくっついているのです(と思う)。

ご覧のように、いちいち(と思う)を付けていると、余りに煩いし、何か迫力もなくなり、自信のない文体になってしまうので、大方を省いているわけです。(と思う)を(と考える)に変えても同様です。さらに、(と思う)の後ろに続く言葉があります。「(と思う)が、あなたはどう思いますか?」です。よって自分の考えを表明するような文章というものは、と思うことに対して、読み手に何かを投げ掛けて、その返答を待っているという形式なのだと思います。ですから、私が書くことは、常に尻に(と思う)がくっついていると思ってください。その、「と思う」ことに対して、何かを思って頂ければ有り難い。


墓参り

2009年09月22日 13時13分47秒 | 航海日誌
今週一週間は「お彼岸」です。年に2回、春分と秋分の日を中日として、その前後3日を合わせた7日間を彼岸会(ひがんえ)といい、お寺さんでは仏事をおこない、檀家さんはお墓参りをします。私も昨日、妻の実家のお墓参りに同行しました。郷里のお墓参りは、母を連れて妹が代参をしてくれました。実家の長男である私からすれば、妹に頼むことは代参となります。また、妻の実家の墓へのお参りは同行なのです。男子は男筋の家系が本流となり、女子は嫁いだ先を第1として、実家は第2にと考えます。日本の仏事の慣例です。

最近では、お墓参りの代行サービスもあるようです。遠方にいれば諸々の事情で行けない場合もあり、しかしお墓の掃除もせねばと気がかりです。赤の他人にお墓を任せるのも気が引けるけど・・・何より大切なのは、その気持ちを持ち、故人、先祖へ心を向けることです。事情で墓の前に行けなければ、ご自宅で祈ればよいと思います。思い出し、思いを寄せ、感謝する心を向ける場がお墓ですが、墓前でなくとも同様に心を向けた祈りは伝わると思います。

さて、先祖がいる彼岸とはどこのことか。向こう側の岸。つまり、あの世です。こちら側の岸は此岸(しがん)といいます。ですから、お墓参りとは、こちら側からあちら側へご挨拶をする行為ともいえます。そのご挨拶の中身は「こちら側で生かして頂いて、ありがとうございます」です。故人となられた方々、ご自分が繋がっている先祖さんたちへ向けての感謝の念を送るわけです。この「感謝想起」を基本とすると、生きている人間どうしで円滑に交流が叶うようになります。「有り難う」が、縁を繋ぐ感謝の言葉だと。お墓は、そのことを無言で教えてくれる先祖からの伝言板です。


テレパシー

2009年09月21日 09時46分37秒 | 航海日誌
何かの拍子に、パッと思い浮かぶ人の顔があります。そういうときは、電話してみることにしています。ふだん私は余り電話をかけることがありません。世間話で電話するのがおっくうです。ところが、気にのぼった時はかけます。すると、相手もこちらのことを思っていたというケースが多々あります。

思い浮かんだ場合は、たとえ10年振りでも気兼ねなく電話します。すると、相手のほうが驚いて、今さっきあなたの話をしていたところだったと。いやいや、お久しぶりでしたとなり、かといって何か重要な話になるということでもありませんが、その時のそのタイミングを受け入れるのです。これは縁というものを息吹かせることに通じます。そこからまた交流が再生されます。

テレパシーというものが、実際にあるのかどうかと話題になることがあります。私は、これまでの経験で、あると確信しています。極端な例では、電車のホームで相手が思い浮かび、電話をしようとしたら、本人が立っていたということもあります。逢いたいと強く思ったら、先の道から本人が歩いてきたり、また、ベンチに座っていたという例もあります。これらの例を偶然と考え、確率論で数字を述べても意味はありません。逢いたいと思った事が現実に引き出されたという事実に意味があります。

また、人間界に限らず、生物の世界も同様の現象が認められます。東南アジアのフタバガキという樹木は、半年も先の気候変動を察知し、それに備えて例年より早く一生開花するといいます。一地域のみならず、広域のフタバガキが同じように開花することを学者は説明できません。「まるで、先の情報を受信して、それを仲間同士で連絡しあっているとしか・・・」。なにかの通信手段をもっているとしか思えないと。魚でいえば、何万匹もの群れが敵に追われて、いっせいに方向転換する動態反応も、何か電気的な伝達方法が使われていると考えられます。木も魚も、生体に通信機能を隠し持っているようです。

今日も、ふと頭に上った方の顔があります。数年ぶりに電話をかけてみようと思っています。さて、どんな反応があるか・・・縁に息吹を送る行為は、人生において深い意味をもたらすものと。


武とは

2009年09月20日 13時30分18秒 | 合氣道のすすめ
       ハワイ合気会道場の「武」

「武」という字は、分解すれば、「戈(ほこ)」を「止」めるとなります。戈とは、古代中国戦国時代の、兵卒(多勢)の武器です。槍のような、離れて戦う武器と思ってください。つまり、いちばん多くが戦う当時の大量兵器です。

それを武と呼んだ。なぜでしょうか?

兵士は戦いたくなかったからです。死にたくなかったし、殺したくなかったと感じます。だから、武という字が古代中国で創られたのだと。戈を止めるのが武であり、止める者たちを武士と云います。いちばん戦いたくない人々です。なぜなら、いったん戦いが起これば真っ先に戦う人々だからです。誰よりも最前線にいるということを経験すれば、理解できる心境でしょう。 

もちろん私には戦争経験はありません。経験しなければ、わからないことです。私は長年の武道経験から語っています。武士は、戦略など、最後は微塵も持っていない。戦うだけです。誰がそうさせるのか。金融を牛耳る戦争屋です。彼らは、戈で戦いません。自分たちは死なないところで、好き勝手に戦略を立てて、笑っています。だから戦争を起こせるのです。その戦争を止めるのが、万民から求められる本物の武士です。

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天木直人氏の本日のブログ「鳩山民主党対米外交に『冬の兵士』を捧ぐ」も
併せてお読み頂ければ、「武」のことが理解できると思います。
http://www.amakiblog.com/blog/


歴史的戦争の謎

2009年09月19日 11時37分23秒 | 航海日誌
       ワイキキの夜景、遠くパールハーバー

歴史認識とは・・・昨日は満州事変勃発の日(1931年/昭和6年9月18日)でしたが、南満州鉄道線路爆破がそのきっかけとなり、関東軍(日本陸軍)が満州へ侵攻して「満州国」を擁立します。しかし国際連盟は、鉄道線路爆破は関東軍の自作自演だとして、満州国建国を認めず、日本は国際連盟を脱退。世界から孤立します。これにより抗日運動が激化し、日中戦争へと向かいます。と、いうのが歴史教科書の内容です。

日本陸軍である関東軍の自作自演だったのか。それが事実かどうかは謎です。中国側か米国の工作員だったかもしれない。とにかく国際連盟は満州国を認めません。中国市場へ積極干渉したい米国には好都合です。今だから謎とかたずけているのですが、当時の日本は苦虫を噛む思いだった筈です。振り返れば、有事には数々の「謎」絡み、はっきりしているのは歴史の流れだけです。

次いで大東亜戦争(後に太平洋戦争と改名)です。真珠湾攻撃が開戦の火ぶたとなりました。今度は自作自演といいがかりをつけられるまでもなく、日本海軍艦隊がハワイへ向かい、放火を浴びせました。山本五十六は、海戦で1度は勝つ自信があると云ったそうです。後は責任は持てないと。日本はオイルラインや資源を止められ、窮鼠猫を噛むの状態に追いつめられていました。ここにも大きな「謎」があります。戦争など出来る状態ではないことがわかっていながら、なぜ開戦したのか。「神国にっぽんは神のご加護あり」と、戦ったという喧伝は、ウソだと思います。そんな輩はほんの一部だったでしょう(今だってそうでしょう?)。戦わずにはいられないところへ追いやられたのです。それが戦略というものです。戦略とは、欺し合いのことですよ。だませると思ったら何でもおこないます。そこにルールなどない。あるのは密約だけです。「内側から鍵を開ける者ら」がいるらしい(米内海軍相ら海軍トップ連中だと、副島隆彦説で看破)。日本人が日本国民を騙すのです。どうやら、そのようなことが行われ、今も続いているようです。目をぱちくりさせている場合ではありません。

さて、誰が戦略を立てるのか? 軍人だと思いますか? 敵前では軍人が軍事戦略を立てて戦います。では、政治家でしょうか? 政治家は国内国際情勢を鑑みて目下の調整をするだけです。では、誰がほんとうの戦略を立てるのか。それを考えるヒントは、世界が何によって動いているかを知ることです。何によって世界は動いているのでしょう? 歴史の流れの大局を理解するには、それが分からなければ見えてきません。戦争立案者は? 軍人はタダのドンパチ組の駒です。答えは、「戦争屋」です。そやつらとは誰のことか。戦争でいちばん利益のある人間たちです。表看板の商人でもありません。歴史教科書には書かれていない人々です。そこに最も大きな「謎」が全て封印されています。

歴史話はいいけど、一体今がどうなっているのか。どうなるのか。それをいちばん知りたいと。同じです。パターンが繰り返されます。手を変え品を変えです。「分断して統治せよ」です。仕掛けられ、乗せられて、手を出せば負けです。それが分からなければ、またもや、いいようにやられてしまいますよ。いいのですか? 俗に言われる陰謀論も戦略だと思いませんか?


シルバーウィークの節目

2009年09月18日 19時26分43秒 | 航海日誌
       月山・月読宮

ゴールデンほどではないが長い連休をシルバーと呼んで、明日から5連休ですね。夏休みはお盆の里帰りか、海や山へお出かけレジャーで慌ただしかったでしょうから、この連休をどう過ごすかと。激務でお疲れの方は、半分寝てようウィークでしょうか。

私はどこへ出かける気もなく、金欠も理由ですが、何よりこれからの世の動乱に備えて身辺をすっきり片付けたり、いらないものを処分したりと、生活レベルの禊ぎをしておこうと思います。あとは、お彼岸ですからお墓詣り。それと家族とじっくり膝を交えて話す時間を持ちたいとも思います。

この5日間は、節目のような気がします。そう感じている方も結構いらっしゃるのではないでしょうか。私が感じるのは、温故知新です。これからを知るには古きを手本としろと。未来を書いた本は、本当の意味では存在しません。ただ、過去の本には未来が映し出された「型」が存在します。これを現象として捉え直せば未来が見えます。歴史学は未来学です。ただ、誤り歪められた歴史が、残念ながら多いため、本道が見えにくいのは確かです。では、歴史に何をみるのか。100年スパン、あるいは500年スパンで大きな流れを読み取ることです。戦争が起こり(起こされ)、混乱期があり、やがて平和な時代が訪れて・・・

アメリカの経済学者、ラビ・バトラ氏が著書の中で、今は「武」の時代へ入っていると書いていたと記憶しますが、動かなかった物事を動かす力としての「武」と解釈されます。神道的にいえば、スサノオの力が発動されると。その解釈は簡単ではないし、ここでちらりと書いたところで誤解は免れないと感じます。メキシコ由来の豚インフルエンザにも、武の匂いがぷんぷんします。人間界のこざかしい武に、天の剣(スサノオ)が一振りされるとだけ申しておきます。


暑さと刹那

2009年09月17日 12時52分09秒 | 航海日誌

今日の東京は気温が28度くらいあります。9月も半ば過ぎ、初秋のはずですが、ジリジリ暑い。地球温暖化という表現は、どうも正しくないのではないかと、ふと思いました。温暖化というのは地球全体で2~3度の気温上昇らしく、しかしそれは平均値の話。先月8月の猛暑日で、北海道釧路あたりは20度ちょっとで、関東は35度ということは、15度も差があって、大変なちがいです。温暖化などというゆるい日本語表現はやめて、猛暑化だとか、何かもっと真に迫る言葉を使うべきだと思いますが。

じつは、地球は寒冷化へ向かっているという説もあります。温暖期が過ぎつつあり、氷河期へ移行しているという寒冷化は、80年代以前は学会の定説でした。温室効果で温暖化が進むという現在の説に転換して以降、寒冷化説は表に出なくなっています。しかし依然、寒冷化を唱える学者も少なくないようで、現在気温が上昇しているのは、太陽の黒点活動活発化の影響だと主張しています。どちらが真実なのでしょう? 

書店で見かけた本で『あと10年で地球は終わる』という極端なのがありました。そうか終わるのか、と思う人はほとんどいないから、そうなの、という感じでしょうか。でも、ひょっとしたらそうかもしれない。だれも断言できない不都合な真実というやつですね。しかし、これにひと言えば、まだ地球は終わりません。終わるとすれば現況の文明が終わるのであって、われわれはまたもやノアの箱船に乗って上昇海面を流れていくのでしょう。人間が物質的に造ったもので永遠に残っているものはないわけで、せいぜい4500年前のピラミッド(12000年説もある)。それも、いずれは消えるのです。物質は、破壊と再生を繰り返すのが3次元世界の定め。仏教が末法を説き、また、刹那というものを教えます。兎に角わたしたちは有限の中で生き、生かされている。永遠の中の一瞬、今をいかに有り難く生きるか。


注:刹那(せつな)=数の単位、分(ぶ)から始まる少数の18番目が刹那。最終24番は涅槃寂静。逆に、大数は一から始まり、億、兆、京と続き、最終は21番で無量大数。


今日は縁日

2009年09月16日 09時53分40秒 | 航海日誌
       宮古島から大海原へ出航!

本日は民主党新政権誕生日です。これは、全ての国民にとっての縁日といってよいものです。昨夜の小雨も止み、秋晴れを迎えました。

戦後昭和史を貫いた自民党55年態勢とは、何だったのか。これからそれが表面化しながら、国民に真を問う政治が発動します。本当にこの国を善くしていくための政治であり、経済活動であり、国民生活の改善です。これは表面上の奇麗事ではありません。まず、大掃除をして、チリゴミを片付け、すっきりせねばなりません。いい加減な掃除で、お部屋のレイアウトを変更しても、改変したことにはならない。だれが見ても、ああ、綺麗になったというレベルに高める。これが肝要です。そこからスタートです。

昨日、テレビに出ておられた、初代女性議員の園田天光光さんの談話で、「野党のときは何でも言えますが、与党になるとそうはいきませんよ」という言葉が象徴していました。与党と野党の対立レベルの話ではありません。官僚との対立だけでもありません。経団連の圧力だけでもありません。それらは表面上の問題です。我々、国民があずかり知らない次元での問題を自民党は山積してきました。それをどうするか。鳩山政権の肩に重くのしかかっています。

新総理、鳩山由紀夫さんは宇宙人の異名がありますから、次元を超えるお仕事をなさると期待します。奥様の幸さんも、ご著書で「私は魂が離れて金星へ行ってきたと思っていて・・・」と書く文章からして、同じく宇宙人ですから、ご夫婦で次元超えを発揮して頂きたいと思います。冗談ではなく、それくらい大きな視座からの取り組みでなければ、真を問う改革改善は叶いません。

今日9月16日、門出を迎えました。国民の縁日として共に祝い、それぞれが真を問うことといたしましょう。大海原へ、ボンボヤージュ!