『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

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見えない存在

2009年05月09日 11時37分15秒 | 航海日誌
年末、日比谷公園が派遣村となり、その支援者の代表的存在として注目されたNPO法人自立生活サポートセンター・もやい事務局長、湯浅誠さんが書いた本『反貧困/すべり台社会からの脱出』(岩波新書)を読み、見えない存在について考えた。

貧困状態に陥っている庶民がいるにも関わらず、国(各行政機関)が、日本にはまだ社会的に大問題となる貧困はないという認識にあり、セーフティーネットとは名ばかりで、どんどん滑り台を滑ってどん底へ落ちていく人々が増えているという。その実数がどれほどなのか、行政レベルの本格的な調査がないのでわからないという。

社会問題となるほどの貧困はないとして調査が行われていないようだが、調査しないで、なぜ、問題なしと断言出来るのか。実は、国は貧困化を認めたくないようだ。認めると本格的な対策を打たなければならなくなり、財源確保がいよいよ大問題となる。消費税15%も夢じゃない? ということで、貧困者は現況、見えない存在ということにされているようなのである。

官庁街を行き交うネクタイサラリーマンの中に、ベビーカーを押す主婦が混ざっても、それは場違いな存在であり、誰もその主婦など見えていないという喩えがある。目に映っても、見えないということはあるのだ。社会の中の貧困者もまた見えない存在となっている。年末の派遣村は、その見えない存在が一瞬、テレビ画面に映され、年末助け合い救世軍っぽい気分の高まりで熱気を帯びただけで、年が明ければどこかへ霧散して、あれからどうしたのだろうと思うのは当事者、関係者だけである。

未だに、テレビなどで自己責任論をかざす評論家もいるが、社会正義っぽく、「本人の問題」でかたづける底の浅さはイカガナモノか。本人の努力が足りないのだ、人生観が甘いからだ、社会に甘えるな、といった苦言はよく切れる刃だ。簡単に切れるからその道具を使って人を切るのだろう。切れば、それで済むのか? ご本人の気は晴れるかもしらんが。

湯浅氏の『反貧困』の中に、「溜め」という表現が出てくる。人それぞれの人生背景には、「溜め」の差異がある。お金の溜めは分かり易いが、家族、友人知人との人間関係も「溜め」と表現でき、それのいかんで人生の方向が違ってくるのだ。生まれてくるところから条件は異なる。また、時代背景で変化する。「俺たちの時代は・・・」は通用しない。横一列のスタートラインに並べて自己責任を問うのは単なる理想主義の観念でしかない。そんな論で人は救われない。「溜め」という表現には、なるほどと思わせる感覚がある。しかし「溜め」という感覚が呼び覚まされるのは、相当に切羽詰まった状態になってからかもしれない。だからこそ、あえて人生の溜めを想ってみたい。「溜め(人徳)」があるだろうか・・・と。