『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

宮古島のシャーマン4

2009年05月17日 18時29分30秒 | 宮古島のシャーマン
父は広島から、私は東京からそれぞれ飛行機で宮古島へ飛び、空港で落ち合った。翌日、昼間の2時に宮古島市内にあるNさんの家へ伺った。牛買いの先祖の件もあるが、山上にある代々の墓問題を抱えていた。その山はすでに開発業者に譲渡していたから、墓を移転する問題が残っていた。これをどうしたらいいものか、その相談だった。

「墓は簡単じゃないんだよ。動かすと、みんなを起こすことになる。古い墓なら、いったい何人の先祖が眠っているかわからんでしょ」とNさん。
「土地はもう人手にわたっているから、下ろさないわけにもいかんし」と父。
「これは困った問題を抱えたもんだね」
買い戻す方法はないか考えるべきだという結論だが、何千万円もの金もない。とにかく先祖に詫びをして、何とか努力するからと祈る。先祖のことは、その子孫がやらねばならない。

私の一家が抱えた墓問題は、Nさんに祈ってもらってどうかなるといった話ではないのである。Nさんからは、アドバイスをもらうだけで、それをどうするかは自分たちに掛かっている。代々の墓は、かなり古くからのもので、墓石だけを移転して済ませるわけにはいかないようだった。適当なことでやれば、村全体へも影響が出ると言われ、頭を抱えるしかなかった。

カンカカリャへの相談は、大抵が先祖事に関わってくる。最近では、「先祖ってなんですか?」と真顔で聞き返す本土からの若者もいるとNさん。核家族化がすすみ、祖父母や親族とも余り交流がない家に育てば、そうなっても仕方がない。また、自分がどういう家系から生まれたか、その親もほとんど話すことがないのだろう。家庭内に不和がうまれ、親子関係がうまくいかないのは、そうした根っ子の繋がり感覚が途絶えているからだと思える。先祖とは、今生きている自分たちの親のまた親であり、そのひと連なりの生命の流れなのだ。世界中のどんな民族でも、宗教以前に、先祖崇拝が基本になっていることを、私たちは忘れがちではないだろうか。
(つづく)