『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

農リターン

2009年01月31日 18時47分01秒 | 航海日誌
 私が毎月、記事を書かせてもらっている雑誌「食楽」2月号の記事で、女優の工藤夕貴さんが経営する、静岡・富士宮のレストラン「カフェナチュレ」を紹介しているのが目に留まりました。その店で出す野菜類は、すべて工藤さんが畑で育てたものだそうです。3年前から農に取り組んでいるとか。無肥料・無農薬栽培にも挑んでいて、田んぼも借りて無農薬米も作っているといいます。
「ハリウッドで身につけたことは、セルフビルド。自分のことは自分でやる精神です。生きるために一番大事な、食べることを自分で賄うのは、究極のセルフビルドだと思います」
 セルフビルド精神を貫く先に農耕があったと語る、ハリウッド女優、工藤夕貴、カッコいいね。記事のコメントを読むと、女優さんのお遊びではないことが伝わってきて、感心しました。彼女の半農半女優の生き方に共感を覚えます。
「こりゃ、わしもオチオチしとられんわい、そろそろマジで農リターンの準備を始めにゃならんのう」と、広島弁の本音です。

人生の解決法

2009年01月30日 14時27分01秒 | 航海日誌
 砂漠の郵便飛行士であり、『星の王子さま』の作者、サン=テグジュペリの言葉に、「人生には解決法などない。前へ進んでいくエネルギーがあるのみだ」というものがある。

 スルッと読むと、まあ、そうだろうな、というくらいのセリフに思える。だが、この言葉の深さに、ハッとして、気づいた。人生は、解決するものではないということに。解決すべきことというのは、人生を問題として考えているからだと。人生は、問題なのか? 

 人生というものが、ある種のレールの上にあるか、または約束事から逸脱しなければ成り立つ予定調和的なものか、はたまた決して満足とはいかないが、それでも我慢できないというものでもない、といった受け身がちでいて、生まれてから死に至るまでの時の流れに乗っかっているような感覚が、こころのどこかにあるのではないか。

 漠然とそう思えているうちは、たしかに人生はゆったり流れる川面のようなものだろう。だが、いったん何か事が起これば、とたんに、どうしたらいいんだ!となり、何か解決法はないのかと慌てふためくことになる。問題化した瞬間にそうなる。そのとき、サン=テグジュペリは、解決法などないと断言するのだ。
 
 人は、問題化した人生に、自分が知らない解決法というのもが、どこかにあると信じている。これこれこういう方法があると。だが、それは論であって、解決を約束する魔法ではない。自分で考え、選択し、とどのつまりは前へと推し進める活力があるかないか。人生は、あらゆる可能性を秘めた白地のキャンバスだ。そこに思い切り自分を描けばいい。その思い切るエネルギーが出せるかどうか。

 レーダー誘導もなにもないサハラ砂漠を飛び続け、不時着を繰り返したサン=テグジュペリの言葉は真理を突いている。人生は解決するものではない。人生に解決というものはない。人生は謳歌するものだ。楽しみ切る限定期間だ。つべこべ考える私だが、大いに楽しもう。さあ、遊びをせんと生まれけん。


農林業で働くということ

2009年01月29日 13時20分56秒 | 航海日誌
 景気回復の対策以前に、まず就職支援が重要だと前回書いた。人手が不足している農林業への仕事斡旋を、地方行政レベルで取り組むことが先決だろうと。そう考えていたら、NHKの報道で、各県でその取り組みが行われているといったニュースが流れた。

 その番組によると、各地のハローワークでも盛んに斡旋していて、農業法人への応募者が増えているようだ。以前は募集しても数人程度だったのが、今月は50人の面接があると、関東のある畜産農家の社長が語っていた。そこで採用された人は40代の元営業マンで、家族を支えるには着実に働ける仕事が必要で、未体験の仕事だが、とにかく頑張りたいと語った。

 フリー稼業の長い私には、その気持ちがよくわかる。収入は最低限でも、まず安定することが生活の要だ。社会保険料、年金、家賃やローン、光熱費、食費、黙っていても金がじゃぶじゃぶ出て行く。多くの国民にとって、いまや生活を自己責任で保つことが困難な世情である。いつリストラの憂き目をみるか。ならば、心機一転、とにかく安定した仕事に就きたいと考えるのは当然なのだ。

 であるなら、農林業は新たな道だと思う。教科書で第一次産業と習ったが、その意味は言葉通り、第一次なのだ。二次、三次で潤ってきた日本だったが、農林業を見直す時期に至った。自給率が39%という食料生産最低国という事実は、否が応でも認めざるを得ない。一説によれば、自給率はさらに低いというデータもある。耕耘機などの農機具を動かすガソリンのエネルギーを加算すれば、自給率は1%になるというのだ。原油も輸入品だということを忘れてはならない。

 東京の真ん中で、裏金を動かしている連中に、こんなリアリティがあるのだろうか。「国民みんなで痛みを分かち合おう」などというセリフの中に、発言者自身が入っていないということを、もう皆がわかっているのだ。


江戸散歩

2009年01月28日 18時59分18秒 | 航海日誌
 先日、郷里広島の旧友Oが訪ねてくれた折、二人で江戸散歩を楽しんだ。荒川区の南千住駅から浅草までぷらぷら歩いたのだが、その界隈は吉原、山谷である。東京に住んでかれこれ30年が過ぎるが、当地を徘徊するのは初めてだった。興味はあったが、ついぞ機会がなく、ながらく処女地であった。

 江戸文学に明るいOのほうが土地の歴史に詳しく、地図を片手に小生を導くかっこうだ。まずは西を目指して、その先の交差点を南に下ろう、たぶん、その先が竜泉地区で、そこに樋口一葉記念館があるはずだ、といった調子で、自分はその後ろをついていく。一葉さんの記念館は立派な建物だ。一葉さんの美しい筆文字に見とれたり、展示5千円札のナンバーA000002(01は造幣記念館にある)とかを見て、ふむ。24歳で亡くなった一葉さんは苦労の天才文人だったな。長生きしていれば、日本文学史に残る作品がたくさん生まれただろうにと。あれこれ思った。

 それから山谷を歩いた。雪がちらついてきて、マフラーを忘れたのを後悔しながら、やがて泪橋に差しかかり、Oが、ここがあの、あしたのジョーの泪橋かあ、と感嘆の声を漏らした。ジョーおぉぉぉ、おやっさんの声が聞こえた気がした。寒さが吹き飛んだ。交差点向こうを路地に入ってみると、そこはアーケードで、しかし人間の往来がほとんどない。シャッターもほとんど下りている。角の一軒が開いていて、裸電球の下でおっさん達がコップ酒を飲っていた午後3時であった。

 吉原も初めて歩く。なるべく入り口は見ないようにしながら横目で見るとバレて、お客さんどうですぅ、小声で声がかかる。Oはその中を堂々と歩く。吉原は四方に門があり、江戸の名残を感じさせる場所である。そこから山谷堀を歩いて、待乳山でお参りし、浅草に出て浅草寺もお参りした。参詣が済んだら精進落としと決まっている。煮込みの旨そうな店を探してカウンター席に腰を据え、帳の下りる浅草にとけ込んでいったのだった。O君、お江戸案内ありがとう! 立場がひっくりかえっておりますなあ。

(散歩話のおまけ/その店で知った超簡単つまみ。クリームチーズに鰹節をまぶしてワサビ醤油で食べる。名付けてチーズ奴だ。意外に旨い)


日雇い派遣

2009年01月27日 12時24分20秒 | 航海日誌
 その日暮らしの日雇い労働者は、手配使が束ねる山谷、涙橋あたりの風景のはずだったが、ここのところは世情が変わって、派遣会社が手配してあちこちへ若いもんを送り込んでいる。派遣会社といっても、未登録営業もざらだから、手配使連中と内情はさして変わらないようだが。

 昨夜のNHK特番で、その日雇い派遣問題を取り上げていた。来春から30日雇用以下の日雇いが認可されなくなるという。それで最低30日間の雇用が約束される、わけがない。まっとうな派遣会社は別にして、手を変え品を変えに決まっている。手配使連中と同じことだ。昔は、タコ部屋というものがあった。入ったが最後、出してもらえない飯場生活だ。私が学生だった昭和50年代はさすがに噂のみで、ホンモノのタコ部屋は消滅していた。

 人は働かねば生きていけない。鉄則というか、そういう約束がある。だから生きていくために、日雇いだろうが何だろうが、働きにいくのだ。働きたいのに定職に就く仕事がないという若者が溢れ、日雇い派遣で得た賃金でその日その日を暮らしているのだ。月に5万円程度の収入で、1日1食では悲惨過ぎる。当人たちに責任を押しつけて済むような状況ではない。

 格差社会を生んだ政治の責任は重い。余りの重さですでに底が抜けてしまっている。そのうえ消費税など上げたら、どーんと景気が冷え込んで、ますます仕事が減ってしまうだろう。まず、経済を動かすことが優先だ。それには内需へ向かい、公共事業投資を行い、元気のある若者を人材不足の農林業へ向かわせることだ。とにかく飯が食えるようにすることだ。つまり今が、対米マネー敗戦の戦後復興渦中であると、私は思う。


徹夜明けの記憶

2009年01月26日 23時50分31秒 | 航海日誌
 あれは、冷気で身が切り裂けそうな明け方で、中古の厚手ウールのオーバーに首を突っ込んで、前屈みに歩き、住宅街の裏道から、ひょいと通りに出たところで、
「オイ、兄さん、並ぶのこっちだぜ」
 と、声が掛かった。
 みると、ガード下で数人の男が列をつくっている。
 ああ、そういうことか、間違えられたのだな、でも、この風体なら、そう思われてもなんらふしぎではないな。そのまま並んでみようか。どこへ連れていかれるのだろう。埼玉あたりの現場か、千葉の臨海あたりか・・・どこにしても身体を酷使して一日中動き回って、へとへとになるまで扱き使われて、半分抜かれて、また来いでお終いさ。
 ああ、また今度頼むぜ。
 そう捨てぜりふを吐いて、蛍光灯と朝靄が混じり合った青白い新宿駅の改札に消えた。29歳。徹夜明けの、2月の記憶だ。


人生行路の節目

2009年01月25日 13時23分03秒 | 航海日誌
 人生行路には、節目というものがあります。竹がすーっと伸び、節ができ、また伸びるように。一生に幾つの節目があるか、またどの時点を節目と感じるかは人それぞれでしょう。しかし、節目の無い人はいません。生まれた瞬間から、一節太郎か花子の始まりです。では、その節目って何でしょうか。私は、人生行路の点検期間だと思います。いけいけドンで進んできて、ハタと立ち止まり、後ろを振り返り、行く先を見つめる。コレデ、イイノダロウカ? と。

 メキシコへ行ったのが、29歳のときでした。新卒で入った編集部に丸5年勤め、仕事の悩みもピークに達していた時期で、このままでイイノダロウカの節目でした。世界一周旅行が夢でしたが、金もなく、でも旅に出たかった。ちょうどメキシコの話が舞い込んできました。友人が、面白そうなコミューンがあると教えてくれたのです。その友人の友人がメキシコに住んでいて、現地案内役もいると。エーイッ、行ってやれ! 3週間の休暇を取るというのは勤めていた会社では異例というか、辞めるというのと同義でしたが、取材仕事もするからという名目が立って行かせてくれました。上司や編集仲間には今でも感謝しています。旅の中身は、前の記事で書いたとおりです。

 やはり、節目の旅でした。ふしぎな体験とともに自分の人生を振り返り、今後をどう生きるか真剣に考えました。帰国して、10ページの記事を書き、半年後に会社を辞めてフリーライターになりました。その後、30代の終わり頃に沖縄・宮古島での大節目がありました。自分にとっては、どうも10年単位で大節目が訪れるようです。今49歳となり、またもや大節目を迎えています。世の中を見回しても、大節目です。どんな展開になるのか、不安より、好奇心が膨らんでいます。思いも寄らない事々が起こることが人生の刺激です。それが旅の醍醐味というもので、人生は旅そのものだと。今生一度きりの旅ですから、泣き笑いながら、味わい尽さなきゃモッタイナイと。

 さて、今日ここ東京は、小春日和なので、
 太陽を浴びに散歩に出かけますか。


『旅のカバン』(再録)

2009年01月24日 22時02分22秒 | 短編「メキシコの犬」
メキシコの犬  


     ――1――

 砂ぼこりを巻き上げて定期便バスが悪路を飛ばしていた。山あいの坂道にさしかかっても運転手は忙しくギアを変え、スピードをほとんど落とさなかった。
 赤茶けた斜面に沿ってレンガ造りの小さな家がびっしりと立ち並んでいた。家々の周りには、大きなサボテンが庭木のように生えて一角に日陰をつくり、老人たちが古木にように佇んでいた。窓越しに見る景色は、百年も変わっていないにちがいなかった。

 車内は客で満杯で、みんな黙りこくっていた。唸るようなエンジン音と、ギアの悲鳴が耳に響いていた。どの客も、無表情だ。メキシコ人は陽気で明るい、という風評など嘘っぱちだった。
 隣の席には、肌の浅黒い無愛想なヒゲづらの男が両腕を組んだまま、揺れに任せて座っていた。僕はもう、二時間もこの男と隣り合わせて座っていた。やがて平地となり、左右への揺れがおさまって、隣のヒゲ男に寄りかかる気苦労もなくなった。男は小さな村でバスを降りていった。

 運転手が後ろを振り返りながら、
「ピラミドース、テオティワカン」
 と、しゃがれ声を張り上げた。
 運転手が何か言うたびに耳をそば立て、ガイドブックに出ている地名を聞き分けなければならなかった。バスが停車すると、みな席を立ち、前方の出口へと向かった。終点がテオティワカンだったのだ。バスはすべての客を吐き出し、土煙りを立ち上げて走り去っていった。

 テオティワカンは、メキシコシティに最も近いメキシコ最大級の古代神殿都市遺跡だ。ここには太陽と月をシンボルとする巨大ピラミッドがあるとガイドブックに書かれていた。つまり、メキシコ人にとっては、日本人が神社仏閣に詣でるようなものなのかもしれない。今しがたバスから降りた客たちは、僕をさっさと追い越して、テオティワカン神殿の入場口へと消えていった。

 街道に一匹の犬が現れた。
 大型とはいえないまでも体高のあるしっぽの長い茶色犬で、少し痩せていた。ノラ犬、というのは一目でわかるが、飢え切った風でもなかった。
 犬にも、性格のいいのと悪いのがいて、一瞥してわかるものだ。性悪犬は、道で会うと険悪な眼を差し向けるか、さもなくば妙にコソコソするか、どちらにしてもいい印象を与えはしない。
「おい、こっちへおいで」
 地面を嗅いでいた茶色犬は、その呼びかけに応じてか足元にやって来て、僕の靴を嗅いだ。
「お前どこから来た?」
 頭を撫でてやりたかったが、手を出さなかった。
 子供の頃、手首を噛まれたことがあった。狂犬病が恐れられていた時代だ。すぐに病院へ連れて行かれ、噛まれたときよりも痛い注射を打たれたのだった。メキシコでは、まだ狂犬がいるかもしれない。その態度を察してか、奴も間を置いて前を歩き始めた。
「案内でもしてくれるのか?」
 ピクッと耳を動かした。シェパードのようにピンと立った耳だ。犬は神殿都市のゲートまで一緒についてきたが、もと来た道へ帰っていった。妙にサバサバしていて、暑い国の犬というのは、ああいうものなんだろうと思った。


     ――2――

 ゲートをくぐった広場には博物館と土産物屋があったが、それらを通り越して真っ直ぐ神殿を目指して歩いた。古代都市というものを早く見てみたかった。
 巨大な石像建築が目の前にあった。ケッツアルコアトル神殿だ。階段状のステージに、獅子のような顔が並んでこちらを見据えていた。沖縄のシーサーに似ていなくもない、その彫像に見入った。
 彫像の前で左に向くと、敷地の中央に一筋の路が伸びていた。「死者の通り」とガイドブックにあり、ずっと先にピラミッドが頂を見せていた。ピラミッドへ向かって死者の通りを進んだ。通りの両脇には半ば崩れかけた住居跡が続いていて、かつてここが都市であったことを物語っていた。

 歩いても歩いても、なかなかピラミッドには近づけなかった。次の広場に出ることができたときは、かなり息が上がっていた。メキシコシティで標高が二二四〇メートルだ。ここはもっと標高がありそうだった。
 太陽のピラミッドの前に立った。エジプトのものとは形が違い、どっしりと裾を広げた台形をしていた。高さもありそうだが、横幅もあった。登る人間が蟻のように見えた。
 石段は真っ直ぐ頂に向かって伸びていた。神社の石段とは比較にならないほどの角度があった。石段に手を突き出して四つんばいで登るのは女たちだ。男はそんな真似ができるかといった調子だが、それでも慎重に足を運んで登っていた。踏み外せば下まで転がり落ち、体中の骨がバラバラになるだろう。ぐっしょり汗をかき、二五分かかって頂上に辿り着いた。

 絶景だった。
 テオティワカンの全容が一望に見渡せ、下界のパノラマ風景には区画された都市の面影が映し出されていた。紀元前一五〇年頃に誕生し、およそ九〇〇年後の西暦七五〇年頃まで栄華を誇った古代国家の遺影だった。
 ピラミッドは王の在位を象徴した墓などではなく、太陽神を祭った巨大な宗教装置で、ここは太陽の高みだ。この国は、宗教が一〇万人もの住民を束ねていたという。かつて神殿を中心に、商業が栄え、文化芸術が開花していたのだ。
 その宗教都市が、一二〇〇年の昔、忽然と消滅している。スペインからエルナン・コルテスがやって来て、アステカ国家を征服するよりも七五〇年も前の話である。侵略があったのならわかるが、なぜ、テオティワカンは消えたのか、理由は謎に包まれたままだ。
 ピラミッドの頂きに腰掛け、下界に広がる遺跡群をじっくりと見下ろした。ここの謎は想像する取っ掛かりが何もない。ただ、廃墟となった都市の遺構が横たわる風景があるだけだった。

 へっぴり腰で広場まで降り、最奥にある月のピラミッドへ近づいた。太陽に比べて小振りだが、こちらの造形のほうが洗練されているように思えた。ここも急角度の石段だったが、太陽の神殿よりも楽に登れた。太陽からよりも月の頂きからのほうが古代都市の全景を見渡すことができた。ピラミッドの配置には、必ず何かの目的や意味があったはずだが、ガイドブックは、そのことについて何も触れていなかった。
 月は中央の太陽からの光を受けて都市のすべてを映し出す役割を担っている。月は鏡だ。中国では陰陽というけど、宇宙的なエネルギーバランスが取られて、この古代都市を支えていた・・・
 そう、もっともらしい論をひねり出してみたが、応えてくれる人間はだれもいない。ただ僕は、このピラミッドを言葉でまとめずにはいられなかった。黙っていると、何者かに足元をすくいあげられ、自分が世界から消えてしまいそうな危うさを感じていた。そもそもピラミッドというものは、神への生け贄が供された場所でもある。石のナイフで心臓をえぐり出し、血の溢れる石の盃が供えられたのだ。ただし、その生け贄には永劫の栄誉が与えられたという。テオティワカンとは、王が神に変わる場所という意味なのだ。
 太陽よりも、月のピラミッドがなぜか心地よかった。一時間はいただろうか。頂の中央に座り、しばらく瞑想して、目を開けると、もうだれもいなくなっていた。ボーボーと風が吹き続けるばかりだ。


――4――

 古代都市に降りると、すっかり人影がなくなっていた。腕時計の針が五時近くを指していた。ここに八時間もいたことになる。閉場の時間が迫っていた。入り口まで戻るには急いでも三十分以上はかかる。それに死者の通りに戻るのは気が進まなかった。案内図を見ると、遺跡を囲むように外周路があった。そこからもバス停まで戻れそうだった。月の広場から、ケッツアルパパロトル宮殿を抜けて外周路に出た。

 サボテンの林に土の道が伸びていた。野生のサボテンは観葉植物とは違い、樹高が五メートルもあろうかという大木だった。根元は黒っぽく角質化していて、イチョウの木の樹皮によく似ていた。それが上へ行くほど青さを取り戻し、サボテンを枝葉のように繁らせていた。
 行けども行けどもサボテンの林が続き、ほかに道らしきものはなかった。五時はとっくに過ぎていた。メキシコ行きの最終バスはもう出てしまったかも知れない。薄日の中で影を落とすサボテンが、まったく別の生き物のように見えた。バスに間に合うかどうかなど、もうどうでもよかった。早くひと気のある場所に出たかった。

 足を取られ、その場につっぷした。
 遺跡のカケラが散らばっていた。その赤茶けたカケラは土器の破片だった。
「どこまで遺跡が続いてんだ・・・」
 ズボンの砂をはらいながら、そう吐き捨てるようにいった。視界の際でサボテンの影が動いたように見えた。息を止め、それが何かを確かめようと目を凝らした。サボテンの影から出てきたのは、犬だった。

「おい、ポチじゃないか!」
 ノラ犬は、僕の周りをウロつきながらついて来た。犬がいてくれて、心細さがいくぶんやわらいだ。やっと入口の裏手に出ることができたが、観光客の姿はなかった。バス停へ行くと一台も残っていなかった。日は落ち、真昼の暑さが嘘のように肌寒い風が吹き渡っていた。

「おまえ、近くにホテル知らないか」
 犬は僕の顔を見上げ、前を歩き出した。あてもなく犬について歩いてみたが、眼前にはトウモロコシ畑ばかりが広がり、建物らしきものは見当たらなかった。そのまましばらく歩いていると、布包みを抱えた女に出くわした。

「ドンデ エスタ アル オテル?」
『旅行者のためのスペイン語』を片手に、近くにホテルがあるかとたずねると、道の先を指さし、「オテル」と言った。
「グラシアス」
 礼を言い、寝床の心配はいらなくなったと思うと急に腹がすいてきて、昨夜メキシコシティで食べた細切り肉の詰まったタコスと冷たいビールが恋しくなった。

 ホテルは、白壁のコロニアル・スタイルの高級そうな構えだった。門から庭を通って建物に入るとフロントに女が立っていた。英語で部屋が空いているかと聞くと、意味のわからない返事が戻ってきた。とっさに一つ覚えのスペイン語を口にした。

「ノ エンティエンド エスパニョール(スペイン語はわかりません)」
「英語で、話して、います」
 彼女がゆっくりと、訛りのひどい英語でそう言った。
 バツが悪く、うつむき加減に部屋はあるかと聞いた。犬は横で待っていたが、フロント嬢からは見えないようだった。
 ボーイが現れて部屋へ通してくれようとしたが、足下を見て、「お客さんの犬ですか」と聞くので、そうだと答えるよりなかった。案内されたのは中庭に面した一階の部屋だった。僕はドアの前で犬を制して自分だけ中に入った。友だちを裏切ったような後味が残った。

 部屋は一人旅にはもったいないくらい広く、キングサイズのベッドと革張りソファのセットがあり、テレビと冷蔵庫もあった。メキシコシティでの一週間、僕は一泊四ドル(宿泊料はドルで請求された)の宿に泊まっていた。部屋にベッドがひとつだけ置いてあり、あとは風呂もトイレも共同という簡素な宿だ。それに比べると、この部屋は超がつくほど高級だった。
 一泊三五ドル(ここもドル払いだ)というのは、メキシコ人にとってどの位の金なのかよくわからなかったが、一日で稼げる単位ではないだろうと思った。古代都市からこの高級ホテルへという流れは、どうにもギャップが大き過ぎる気がした。

「やっぱり、バス停で野宿すりゃよかったか」
 ホテルの前で一瞬立ち止まり、迷ったが、空腹と疲労には勝てなかった。本当は、怖かったのだ。あの古代遺跡で夜を明かすには、相当の勇気が必要だった。月のピラミッドに戻ろうか、とも思ったのだ。
「贅沢なメキシコの夜があってもいいか」
 バスダブにとっぷりつかり、自分を納得させた。
 腹が鳴った。なにか腹に詰め込みたかった。ドアを開けると、犬が床にうずくまって僕を待っていた。

「おまえずっとここにいる気か。待ってろ何か持ってきてやるから」
 レストランは中庭を挟んだ反対側にあり、ほかに客はいなかった。ウェイターにビールを頼み、それから食事がしたいと言うと、
「セニョール、申し訳ありませんが、調理場の火を落としたので温かいものはお出しできません」と言った。
 ビールのつまみになりそうな生ハムと、チーズ&クラッカーを注文した。ビールはボヘミアという銘柄で、そのどっしりとした味わいが気に入っていた。シティで、マリアッチと呼ばれる流しの楽団音楽を聴きながら飲んだこのビールの味は最高だった。

「お客様の犬ですか?」
 ウェイターも、ボーイと同じ質問をした。男はしげしげと犬を見つめ、いい犬ですねと言った。
 僕はそうだと答えて、生ハムのひと切れを足元の犬に食わせてやった。向こうが透けそうな生ハムなどひと飲みだったが、この犬は次を催促するような素振りをしなかった。
 いい犬。ウェイターのいう通りだった。旅の相棒に生ハムとチーズを二切れ放ってやった。

 茶色犬は、僕が知っているどの犬とも違っていた。ノラ犬にしては静か過ぎた。それが個性といえば個性だが、犬は、僕の心に一定の距離を置いていて、決してそれ以上近づこうとはしなかった。もちろん生ハムをやると嬉々として食べたし、長いしっぽも振った。しかしすぐに元の静かな犬に戻り、両手をきちんと重ねて床に座っていた。
 ノラ犬なのに臭いがしないのも妙だった。それに、僕は奴の声を、一度も聞いていない。吠えるのを、まったく聞いていないのだ。そんな犬がいるものか? 目の前にうずくまる犬を見つめ、そう思ったが、小さく小刻みな息をもらして、テーブルの下からこの僕を見上げるばかりだった。


――5――

 その夜、僕はキングサイズのベッドの中で夢を見た。
 明け方の夢だった。

 深く暗い森の中を歩いていた。森は臭いに満ちていた。落ち葉の積もった土壌から湿った臭いが立ち込めていた。それは複雑にあらゆるものの混ざり合った土の臭いだが、とても静かな臭いともいえた。
 突然、風の来る先からケモノの臭いがした。魅惑的な臭いだ。僕は用心深く、ていねいに、風に向かって駆け出した。臭いはどんどん近くなった。甘い乳の香りが漂っていた。草むらの中で、赤ん坊が眠っていた。
 僕は泣き叫んだ。頭を振り、その場でグルグルと飛び回った。赤ん坊を包むように生えた草を掻きむしり、むさぼり食った。それは茎も葉も細長く、先に実のある草だった。食えども食えども草はなくならなかった。

 その時、赤ん坊が僕にこう言った。
「あんたは、この草を永遠に食べにゃいけんよ」
 広島弁だった。

 目覚めた僕の耳に、ハッキリとその言葉が残っていた。広島弁は年に一、二度、東京から帰郷したときにしか使わないから、妙に生生しかった。僕はとてつもない空腹感を覚え、胃袋のあたりを押さえてみた。腹部がぽっかり空洞になったような錯覚に襲われたからだ。

 ドアを開けると、犬はいなかった。中庭の噴水が光を浴びて眩しかった。庭にも犬はいなかった。レストランへ行き、僕はコーヒーを飲み、パンをかじり、チリのきいた豆料理を食べた。どれも美味かった。こんな素晴らしい朝めしは経験したことがなかった。
 胃袋が満たされると、今朝の夢を思い返した。
 色がなく、臭いが形づくった世界だった。あの草? 音? 音は声だけだ。あの赤子は、一体だれなのだろう?

 草は、米だ。確かにそうだとわかった。なぜ、米の夢を見たのか。そのわけを考えてもわからなかったが、米が大切ないのちの要なのだということだけは理解できた。僕は犬になって、その米を食い、赤ん坊に教えられたのだ。

 何だか、あの犬までもが夢の一部のような気がしてきて、僕は頭を振り、首のうしろを指でほぐした。夢じゃないのは確かなのだ。先ほど朝食を注文したとき、夕べと同じウェイターが「今朝は犬は一緒ではないのですか」といったばかりなのだから。
 どこへ行ったのだろう?
 置き去りにされたような寂しさがあった。もう一度会えば、あの犬の心が読めるかも知れない。そんな気がした。しかし、ウェイターにたずねてみるのも気が進まなかった。自分の犬だと、きっぱり言ったのだ。


――6――

 ホテルを出て、バス停へと向かって歩いた。メキシコシティから到着したバスが、大勢の観光客を吐き出していた。そのバスの客はほとんどがアメリカ人のようで、若いカップルや老年夫婦らが一団となって、テオティワカン見物に意気揚々としていた。ツアーの団体なのだろう。

「ヘイ、カマーン」
 若者が、どこからか現れた数匹の野良犬に向かって声をかけた。何かをねだるように、犬たちはアメリカ人観光客のそばに近寄っていった。尾の長い茶色の犬はいなかった。
 あの犬は、今ごろきっと月のピラミッドの下で眠っているんだ・・・
 僕は犬を、自分の胸のうちにそっと仕舞い込んだ。

 メキシコ行きの定期便バスには、僕のほかに数人のメキシコ人が乗っているだけだった。街に出かける田舎の男たちは、笑い声と共に盛んにしゃべくり合っていた。
 明日,九月一六日は、メキシコ独立記念日だ。一五二一年、コルテスによって征服され三〇〇年もの間、植民地だったメキシコが、一八二一年、スペインから自由になった日である。男たちも独立を祝いに街へ繰り出すのだ。
 シティでは、大通りで大パレードが催されるはずだ。今夜あたりから、そこらじゅうで花火が打ち上げられて、男も女も、大人も子供もお祭り騒ぎだろう。
 走り去るバスの窓越しに、古代都市から延びた街道をもう一度振り返った。土埃の中に、犬が立っているかも知れないと思ったのだ。どこにもその姿はなかった。

 デイパックからノートを取り出し、短文をしたためた。

 あれはもう、ずっと昔の話のようで・・・

 文字にしておかなければ大切な何かを忘れてしまいそうな気がした。
 頭をよぎりながら、すぐに消えてしまう、
 言葉になる前の微かな風のような、感触だった。


旅の始まり その3

2009年01月23日 09時40分04秒 | 海外の旅
 アルベルトが言うには、ペヨーテを体内に入れる体験は、マリファナなどをやるのとは全く訳が違うということだった。意識が拡大し、世界の裏舞台へ踏み込む体験は、呪術を理解した者が傍でサポートする必要があり、最低でも10日間の時間がいる。3日では無理だ、こちらの世界に帰って来られなくなるかもしれない、と言った。

 アルベルトが庭へ出て、ペヨーテの鉢植えを抱えて戻ってきた。象の皮膚のようにしわがれた黒っぽい茸が土から顔を出していた。これにそんな力があるというのか・・・
「この世界には、語られることのない秘密があるんだ。言葉は不完全なもので、世界が止まるといっても、何のことだかわからないだろう? だから、ペヨーテの力を借りるのだ」
 今度、君が充分な時間をもってくればと言って、アルベルトが僕の肩にそっと手を置いた。それを聞き、半分は諦め、半分の可能性を懐に収めた。

 翌朝、メキシコシティ行きのバスに乗り、また、あのスモッグの激しい雑踏の街に戻った。それから残りの時間を使ってシティの郊外に出かけ、アステカの古代遺跡テオティワカンを2日かけて見学した。それでエアチケットの有効期限21日間を使い果たし、メキシコを後にする日を迎えたのだった。

 しかし、古代遺跡テオティワカンで思わぬ体験をすることとなったのだ。遺跡で犬が現れ、道に迷うこの僕を案内するかのようにして導き、ホテルまで付いて来て、何年来の友のように傍を離れなかった。あれは、ただの犬ではない。ペヨーテは、見ただけでも何らかの作用をもたらすのかもしれない・・・

 また、いつかメキシコへ行けるのか。あれから20年が過ぎたが、記憶は鮮明なまま。未だにドン・ファンは、謎の笑いを投げかけたままだ。 (END)

(テオティワカンの話は、短編『メキシコの犬』へとつづく)


旅の始まり その2

2009年01月22日 10時09分59秒 | 海外の旅
 コヨーテの谷という名のコミューンは、メキシコシティ(標高2240m)から太平洋側へバスで1時間ほど下った、テポストラン(標高1800m)という片田舎の町外れの緑豊かな谷間にあった。リーダーは、メキシコ人のアルベルトという40代の男だった。日焼けした細面に長髪を束ね、涼しい目をした二枚目だ。米国ネバダ州のヒッピー「レインボー族」の元メンバーで、仲間たちと共に母国に帰り、このコミューンを興していた。「レーガンが大統領に決まって、アメリカを去ることにしたんだ」と語り、静かに微笑んだ。その夜からゲストハウスに泊めてもらい、彼らと数日を過ごすことになった。 

 コミューンのメンバーは子どもを含めて20人。家を建てる者、畑に出る者、民俗楽器を製作する者、ジュエリーを創る者、それぞれが思い思いの創作を楽しんでいた。こちらも思いつくままに、彼らの話を聞いて回った。彼らにとって生活とは手で何かを生み出すことだった。ジュニア達も、みなが家族の一員として伸びのびと育っていた。こういう生き方もあるのだと思った。だが、もしその場で、ここで暮らしたいかと問われれば返答に困っただろう。魅力は感じたが、リアリティがかけ離れていた。僕はゲストとして歓迎され、束の間の自由な滞在を楽しんだ。

 リーダーのアルベルトが、アメリカの大学で文化人類学を学んでいたと知ったのは、コミューンを去る最後の夜のことだった。そうと分かっていれば、カスタネダのドン・ファンについて、もっと早く訊ねておいたのにと思った。

「もちろんカスタネダは知っているし、ドン・ファンがいた村はここからそう遠くないよ」
 何気なくそう答えるアルベルトの言葉に耳を疑った。
 彼は、カスタネダやドン・ファンについて親しみを込めて語ったが、会ったことはないと言った。しかし、ドン・ファンと同じ中米ヤキ・インディアンの呪術師のひとりからレクチャーを受けているといい、しかも、呪術で使う茸のペヨーテも持っていると言う。
 つまり、アルベルトがカスタネダってことになる! 
 僕は興奮を隠せないでいた。
「望むならペヨーテを体験させてもいいが、君はあと何日ここに居ることができるんだ?」
 そう問われ、残りの日数を考え、3日と答えた。
 アルベルトの返事はノーだった。

 (つづく)


オバマ大統領誕生

2009年01月21日 09時40分12秒 | 航海日誌
1月20日(日本時間21日AM2:00~)、第44代米国大統領バラク・オバマ氏が誕生し、就任演説をした。全米から200万人がワシントンに集まり、新大統領の演説を聞いた。100年に一度といわれる恐慌状態に対し、「一部の強欲な人間による行為が、この国や世界に深刻な経済危機をもたらした」とズバリ語り、最善を尽くして経済の立て直しを図ると宣言した。また、「この国にはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教、宗教を持たない人々、様々な民族が住む国。対立ではなく、団結して、この困難な時代を乗り切ろう」。まさしく、チェンジの宣言だ。

ケニア出身の父を持つオバマ大統領は、「60年前はレストランで食事も出来なかった男の息子が大統領になる時代が来たのです」と語り、聴衆の中の黒人女性が涙するシーンがテレビ画面に大写しとなった。アメリカ初の黒人大統領誕生は、黒人や有色人種に希望を与える。人気ドラマ「24(トゥエンティー・フォー)」の主人公ジャック・バウアーが救うのも、黒人大統領だ。あのドラマを観た人なら、フィクション世界が現実のものとなった気がするだろう。ドラマでは、核テロと戦う場面もある。オバマ大統領は、「アメリカから核を無くす」と宣言している。平和を希望する世界の期待が高まる。世界はまさしく、66億人がキャストの、現実ドラマなのだ。参加しながら楽しめるそのドラマの展開は、これからである。


旅の始まり その1

2009年01月20日 21時58分40秒 | 海外の旅
 1989年、20代の終わり、初めての海外ひとり旅でメキシコへ行くことにした。ウィウィコヨットル(コヨーテの谷)という名のコミューンを訪ねるのが目的だった。ヒッピー達が集まって何軒も手作りで家を建て、有機農法の畑を作り、リサイクルを基本に自然に則したエコロジカル・ライフを実践しているという。日本ではまだ、エコロジーという言葉が一般化していない時代だった。

 当時、僕は『ウッディライフ』というログハウス専門誌の編集部に在籍していた。海外への取材費など出ないことは承知で企画を挙げ、自費で行くから3週間休ませてほしいと願い出た。エアー代だけで21万円。財布をはたいてでも行きたかった。コミューンを見てみたいということもあるが、ドン・ファンの国メキシコへ行ってみたかったのだ。

 米国の人類学者、カルロス・カスタネダが70年代に著した、メキシコの呪術師ドン・ファンについての本を読んでいた。カスタネダは、70年代のカウンターカルチャーとして、アメリカの意識構造に大きな衝撃を与えた人物と言われていた。著者自身が呪術師の弟子になり、修行の末に、ペヨーテという茸の作用で変性意識の世界を旅する。銀色のコヨーテが現れてしゃべり始め、世界が止まる。世界を止めたとき、見ることが出来る。見る者が知者だ・・・何を見るのだろう? 本の行間を追っても、体感など微塵も得られなかったが、強烈な好奇心を覚えた。メキシコへ行く。それは自分にとって、カスタネダのドン・ファンの地を踏むという意味だった。
(つづく)


創刊のご挨拶

2009年01月18日 18時25分20秒 | 航海日誌

昨年11月から今年1月上旬まで公開して、皆さまにお読み頂いた
『ソウルボート航海記』を創刊準備号として、今後の方向性などを
検討して参りました。ブログとしては長文過ぎる点や、
一般に理解し難い記事なども少なからず掲載していましたが、
より多くの方に楽しんで頂ける内容となるよう編集して、
1月20日(火)より随時、公開していきます。
なお、すでに公開済みの記事も一部を再録します。
ご購読(無料ですけど・笑)のほど、
よろしくお願い申し上げます。

【コンテンツ】
1航海日誌(エッセイ)
2ソウルフード(食に関する話)
3合氣道のススメ
4小説(短編中心/長いものは数回に分け)
                   ほか


『ソウルボート』著者紹介

2009年01月17日 12時56分42秒 | ソウルボート著者紹介
 1997年の春、私は、ある雑誌の取材で沖縄へ向かいました。沖縄の風水がテーマでした。那覇の風水研究家の案内で、首里城や地元の風水ポイントを巡り、沖縄の風水が中国伝来の伝統的なものであることを知りました。琉球大学民俗地理学の研究チームと合流し、沖縄の聖地「御嶽(うたき)」について教えていただきました。
 それが、沖縄の祖霊信仰に触れる入り口となりました。この縁から私は宮古島へ導かれ、神カカリャ(シャーマン)に出会い、ふしぎな世界があることを知りました。そして、ただ知るに留まらず、その世界へ私は自分の体験とともに歩いていくことになったのです。
 その体験から、私は本を書きました。いえ、書かざるを得なかったというほうが正直なところの心情でしょうか。「私はどこから来て、どこへゆくのか」と、自分の人生を根底から考え直すほどのショッキングな出来事だったのです。自分探しの旅の始まりでした。
 本を書いて10年が経ちました。このブログも、『ソウルボート』の続編と思ってスタートさせました。世を焦らずに、ゆっくり語って往きたいと想います。何を書くか、書けるのか・・・あまり精神世界に馴染みのない方には、「?」が多いかもしれません。まあ、そういう事もあるか程度でお読みいただければと思います。体験とは、当事者の内面の風景ですから。でも、ひょっとして、貴方にもふしぎな体験があるかもしれませんね。もし、あるのなら、私はとても興味があります。機会があれば、ぜひ、お話を聞かせてください。

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『ソウルボート・魂の舟』遊田玉彦著 平凡社刊 1600円
【目次】
1風水 2御嶽 3電話 4宮古島 
5神願い 6正夢 7骨拾い 8鬼王塚
沖縄文化の奥深さ 仲松弥秀(民俗地理学)

【略歴】
1959年、広島市生まれ。『ウッディライフ』、『アニマ』、『ラパン』編集部を経て、1999年、作家活動に入る。旅をかさね、メキシコの呪術師の地を始め、韓国のムーダン、ポナペ島のメディスンマンなどを訪ねる。1997年、沖縄・宮古島の巫女〈神カカリャ〉と出会い、2002年に精神世界をテーマとした本書を執筆する。


お知らせ・・・

2009年01月11日 12時18分25秒 | 航海日誌
           宮古島のポニョ(2008.8)


【お知らせ】

大変申し訳ございません。
只今、リニューアル工事中&充電中につき、
しばらく休止させていただきます。
もっと読みやすく、おもしろいものを掲載したいと
思いますので、しばしお待ちください。


「ネズミが残したチーズのカケラ」

年末年始で掲載した小説『地下鉄漂流』で、
ネズミが唯一、伝えたかったこと

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 ネズミがまたコップの水を一杯飲んだ。「さあて」と言ってタキシードの袖を払い、それから演台のうえに立って胸を張り、大きく息を吸った。堂々としたその雰囲気がまるでオペラ歌手がラスト曲を歌い始めるときのような感じにも見えた。トンネルの四方八方から拍手が湧き起った。ネズミたちの拍手喝采だ。それにつられてぼくも拍手をした。

「いいか、結論を言うぞ。耳をかっぽじって聞けよ」
 トンネルの天井に向かって大きな声でゆっくりと話し始めた。

「人間ってのはだな、呪縛から解放されたいって心で叫んでるくせに、そうはせず、反対に勝った負けたのゲームを繰り返してる。それが世界最大の嘘のコンコンチキなんだよ。嘘だと思うんなら聞いてみな。みんな隠し事なんてありませんって首を振るから。それが嘘だって自分で知ってるくせにな。なかには狂ってるのもいるが、多かれ少なかれ、みんな嘘の神経症なのさ。嘘がつけない世界を想像できるか? 何でもかんでもバレバレの世界だ。どうなる? 困るか? 不自由か? だったら自由とやらは嘘からもたらせられるんだな。嘘の隙間で好き勝手にやれる自由があるってわけだ。もちろん! つきたくてつく嘘ばかりじゃない。悪意の嘘だけじゃない。人を助けるための嘘もあるだろうさ。嘘も方便ってな。しかしだ。なぜ、嘘でなければ事態を回避できないんだ? 不思議だとは思わないか? 一度、人間は嘘の本質と構造を徹底解明してみたらいいんだ。嘘学だ。そのとっかかりはこうだ。嘘はな、たった一回も百万回も数には関係ない。嘘をできるだけつかないって問題じゃあない。嘘が世の中の隠し柱になってるかぎり、そう、堂々巡り。もう一度言うぞ。 嘘が世の中の隠し柱だ! その下でみんな巻き込み巻き込まれだ。嘘の連鎖反応だ。千年前の嘘が今だってまかり通ってるぜ。戦争を見てみろ。一人の殺人も百万人の殺人も、どんな理屈をつけても殺しに変わりないじゃないか。違うのは殺し方だけだ。それでもまだ正義の殺人か。平和のための殺人か。そんなゲームに付き合ってて幸せがやってくるか? 嘘に我慢する? 何かのために? その何かって何だ? 親のため? 尊敬する人のため? 愛する人のため? 国のため? 神のため? 開き直ったやつは金のためってか? ためって何だ? ためってのは自分のためじゃねえのか? 自分は違う? 自分だけは違うと思うか? 同じだね。嘘に麻痺してるだけさ。つまり、世界が嘘なんじゃなく、人間が嘘を演じているだけの話なんだぜ。その嘘とは自分に向けた嘘だ。嘘ってな、他人についても自分につくことになる。他人は騙されるだけだ。嘘は自分のものだからな。黙っていれば嘘はばれないか。ばれようがばれまいが嘘は生き続けるのさ。永遠に。嘘のうわ塗り。嘘のバームクーヘン。まあ、何と巧妙な嘘だこと。嘘の奴隷だ、呪縛だ。だれのせいでもない。全員が嘘劇の主人公なんだからな。子どもはひとつの小さな嘘がつけ、大人はひとつの大きな嘘がつける。子どもは宿題やったよって。大人は愛がわかったよって。子どもはママに叱られるだけ。大人は自分に叱られるだけ。笑止千万。以上、嘘学の講義はこれで終了。オシマイ!」

 ネズミの笑い声がトンネルの中に響き渡った。
 すぐにトンネルの中が静まりかえった。
 だれも拍手する者はいなかった。
 笑っていたはずのネズミが黒い瞳からポロポロと涙をこぼしていた。
 ネズミの姿が消え、深い沈黙の時が流れた。
 天井から水が一滴ずつ、
 ポトン、ポトン、 
 落ちていくのをぼくは眺め続けた。
 その水滴のひとつひとつにぼくの目玉が映っていた。
 水滴がぼくを見つめていた。

 ふたたびネズミが現れた。
「もう、わかったろう? 嘘なんか、どうだっていい」
「嘘こそ、嘘か・・・」
「嘘はな、消えやしない。嘘がなくなりゃ、本当もなくなる。だからな、嘘に囚われるより、自分にとっての真実を見つめて生きればいいんだ。嘘じゃなく、真実の主人公のほうが気分いいだろう?」
「そう、だな」
「さあ、おまえさんはどうする?」
「ああ」
「弟を巻き込んで母親についた嘘を、かたちを変えて今度は彼女につくのか? つまり自分に向けて」
「いや・・・」
「ここにとどまるのか? 嘘のトンネルに」
「もう嫌だ」腹からの声だった。
「よし。出口はわかってるな」
「大丈夫だと思う」
「入って来たんだからな」
「もう、ひとりで行けるよ」
「そうか、そうしな。今度こそ、きっとだぞ」

 ネズミが指さすトンネルのずっと先に、光の輪が見えていた。
 意識がスーッと遠のき、〈ヴィジョン〉が消えた。