『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

私たちは、どこから来てどこへゆくのか?    ゆうでん流ブログ・マガジン(エッセイ・旅行記・小説etc)

人類への警告と祝福

2012年03月28日 23時59分06秒 | 航海日誌
どうしたら、この長い歴史の意識操作を解除できるのだろうか。それをずっと想っている。気づけよ、民よ。

私のルーツは、120年前までの名は、遊田といった。ゆうでんと読ませているが、本当はゆうだ。音を詰めれば、ゆだ=ユダ。

信じようが信じまいが、1800年ほど前に、大陸から渡ってきた、ユダ族の末裔であろう。それが、安芸の地に根ざして、旧家として生きてきたが、菅原も寄ったし、源氏も寄って、何かを確かめていた。

旧約のユダの、後に変えられてしまったイズラエルの地の物語を誰も知らない。本当の歴史は違う。新約聖書はほとんどが改ざんされて、知るよしもない。

いわんや、この地の民が知るよしもない話だ。

ユダヤと呼ばれし民は、アシュケナージュの白ユダヤではないのだ。金融をむさぼっている少数の連中とは関係がないのだ。

嘘で創られる歴史がある。それが今の世界の常識となっている。

今、これを書いているのは、もう、それほど時間がないからである。

今まで、決して語らなかった話だ。

もう、言葉の情報に頼っている間は無い。

自分の感性、感覚を発露するしかない。

ソウルボートで書かれた話の、後に大事となる人だから助けようというのは、ここで書いている話を伝えるためだった。

知覚してほしい。あなたたちが目覚めるしか、この世界をすこやかな地にするすべはないのだ。

それをいうために、私はいままで生きてきた。それだけなのだ。あなたが目覚めなさい。ほんとうに感じることを正直に生きなさい。

今ある地位や名誉や金銭の悪夢から、解き放たれんことを願う。

あなたのなかの神を呼び起こしなさい。

多くの、真摯なキリスト教者が語るように、多くの仏教者が語るように、多くのイスラム教者が語るように、真摯に誠意をもって語られる言葉に偽りはないのだ。そうではない人々が運用を間違えているだけだ。

もう、間はない。

それを忘れることのないよう願う。

明日、世界は変わる。

ジェルソミーナ

2012年03月26日 22時32分03秒 | 航海日誌
10歳の頃、TVで放映された映画ではくちの少女が大道芸人の大男に買い取られて旅先の町で芸をみせ、旅をする物語を観た。フェデリコ・フェリーニ監督の映画「道」だ。

食い入るように観ているぼくのそばで、かあちゃんが掃除機をぶんぶん鳴らせて、うるさかった。日曜日の午後だった。うるさいからやめて、ぼくはこの映画をみているんだからと母に訴えたのを覚えている。

ぼくは、ジェルソミーナのことが心配で、どうなるのかとドギマギしながら、ああ、ジェルソミーナがどうなっちゃうんだろうと。そして、クライマックスは、あの鼻歌が聞こえてきた。いつもジェルソミーナが口ずさんでいたメロディーだ。

大道芸人の大男がその歌を聴いて、夜の浜辺で泣き崩れるところで、映画は終わった。「はくち女がいつも口ずさんでいたメロディーよ、もう、死んだわ」と。町の女は言った。

ぼくは泣いた。ジェルソミーナは死んじゃったんだと最後にわかった。

あれから、ずっと経って、ぼくはイタリアへ行った。その年、ジェルソミーナを演じた女優のジュリエッタ・マッシーナが亡くなったと知っていた。ぼくはミラノの夜の石畳の陰をみて、そこに彼女が佇む幻想をみた。そっと目と閉じ、彼女を想った。

遊ぶ

2012年03月25日 16時51分13秒 | 航海日誌
昨日、おとなはわかっていて遊ぶので邪気だと極論した。遊ぶに対して働くという対語でとらえれば、往々にして遊びは悪いこととなる。しかし、遊ぶということの意味がすべて悪いわけではないし、そも、遊ぶという言葉の由来は、別ものである。

漢字のつくりから解説すると、しんにゅうの中に旗があり、白川静の「字統」によれば、これは氏族が旗を立てて外へ旅をすること示す字とある。つまり、遊行移動することという。さらにいえば、自由自在に行動し、移動するものを遊ぶといい、朝廷につかえる遊部は神事を与り神につかえるもののことで、人間的なものを超える状態をいう語であるという。目には見えず動かざるものが動くことを「遊ぶ」とし、「あそばす」という敬語もそこからきており、神とともにあるという状態をいう。遊ぶとは、神遊びの事に帰結する。

長々と遊ぶという本来の意味を説明したのは、一般がイメージしている遊びの印象と、本来の意味のおおきく隔たったことをお伝えしたかったゆえ。この解説からすれば、昨日書いたことへの補足が必要だ。それは、こうなる。おとなは遊ぶことをわかっているようでわかっておらず、道(未知)を恐れ、歩み出て遊んでいない、となる。ゆえに無邪気を離れ、邪気をまとい、個我のなかに没入したままで、精神を眠らせた状態にある、となる。

「遊びをせんとうまれけん」とは、生まれいずるときに約束した人類の詩だった。おとなという埃を祓い、禊ぎを必要とする時期が今だろう。ここ一連の世のていたらくは、そういうおとなたちから立ちのぼる悪臭である。おとなが気づくべきは、我が身のうちにある純真無垢な神子の精神を発露すること。それができれば神遊びがかなう。新たな世が開ける。間もなく。

無邪気

2012年03月24日 19時38分14秒 | 航海日誌
こどもはなにも知らないで思うがままに遊ぶので無邪気である。

おとなは一応はなにがどうなのかを知っていて、それでも思うがままに遊ぶので邪気である。

わかっているのになぜ遊べるか。わからないふりをして自分を騙しているからだ。

やり過ごせると思い込んでいて、そんなことを何度もやってきて、物事の大小に関わらず、なんとかここまで来たのだから、平気さと言い聞かせて、でも、ほんとうは恐いのがおとなというものだ。

だから、聞いてごらん。無視するから。聞かないふりをするから。せいぜいが、そんなことを言われてもねえと困った顔をするから。

基本的に、政府のおとなも、東電のおとなも、御用学者のおとなも、学校の先生も、会社の責任者も、おとうちゃんおかあちゃんも、同じだ。だったら、あんた、そういうけど、どうすりゃいいのと開き直るから。どうしようもないじゃないのというから。どうするもこうするも、おとながどうするかでしょとこどもが言っても、いいから早く寝なさいというから。

ぼくのなかのこどもが言う。それ、うそでしょ。恐いんでしょ。なにもできないと思い込んでいて、そこにへばりついているだけでしょ、と。なんとかできるのはおとなのはずだけどと、発案するのは、おとなのなかの素直なこどもだ。おとなは自分のなかの無邪気なこどもと話をしたらいいのに。自分を殺しているから、それができないでいる。こんなに困ったことはない。

人は変わらない

2012年03月24日 00時11分43秒 | 航海日誌
オギャーと産まれて、それから52年経って、半世紀の時間の経過のなかであれこれいろいろな事々があって、個人的に感じることが今の自分の心情というもののすべてである。

その個人史のなかで、思い知ったことが胸に渦巻くのである。しかし、それは他者とはほとんど共有できない。当たり前の話だが、あえていうのは、そう、わかったとか、わかる気がするとかと言ってはみたものの、わからないからだ。

わかるというのは感情的な言葉であって、わかるわけがない。わかるというより、わかわないけど、わたしもいろいろあるから、たぶんそんな感じなのでしょうというくらいが適度だ。

わからないということを前提に人は相対さなければならないのだ。それをわかるというから話がこじれるのだ。わかると返答するならば、ものすごく多くの言葉とエネルギーを要する。どうわかるかを言葉で証明しようとするとそういうことになる。

ただ、なにも言わず、うんうんと頷いて、抱擁するような人は希であって、映画とか小説のなかの誰かだろう。恋人どうしが一瞬、そんな時期をもてることはあるが、そう長くは続かない。やがてすぐに、濡れ雑巾のような感情になって、べとべととした言葉を投げ合い、どっちがどうなの、そっちでしょとばかり言葉と言葉で空しいかけ合いをやり、言葉の解決というよりも、疲れたから、詰まらないから、と、日常にもどっていくだけの話である。

このことは、相手を変えても同じことである。相手が変われば、なにか変わるという幻想があるだけだ。だから、私でいえば、たとえばかみさんとなにかの拍子にギクシャクモヤモヤ状態になっても、かみさんを換えればまったくなにかが変わるというのは大間違いで、なにも変わらない。自分はそのまま自分でいるからだ。

よく、人は成長するというが、成長するのは環境条件への適応能力のことであって、自分自身の性質というのものは一生ものなのだ。ここをよく理解いただきたい。自分が変わるとか変われるとかいうが、変わりません。変わるのは、生活条件を眺める自分の心情変化だけである。反省はしても、すぐに基本のご自分に戻ります。

これが私が52年間、自身と他者を眺めてきて、確信していることであるが、この論も、他人との共有は難しい。私は私の実感でこれを書いているのであって、似たような心境にある人が、にやりとするだけである。あとの人は、ふ~ん? であろう。ただ、そいいう吐露が、ここに書いてあるだけだ。

やっぱうれしい!

2012年03月22日 22時08分03秒 | 航海日誌
久々に記事を続けて書いたら、倍の方々が読んでくれました。書く気力が落ちて暫く書いていなかったけど、このブログを忘れずに読んでくださる人たちがいて、やっぱうれしいです。

ですから、また、ほかの記事とはちがう面から世の中のことを書こうと思います。付和雷同。和して同ぜず。おれはこう感じるで書く。これしかない。

これからも、サイレントで応援してください!

どぶろくが飲みたい!

2012年03月21日 00時01分22秒 | 航海日誌
もう、20年ほど前のことだ。アニマという雑誌の取材で、青森県阿仁地方へ行って、マタギに会った。ツキノワグマの雌を捕ったら、産まれたばかりの仔熊を抱えた母熊だったとわかり、自責の想いからその仔を飼うことにしたという話を聞きに行ったのだった。

その夜、マタギさんの家に泊めてもらい、夕げを馳走になった。酒が出て、それは白濁した自家製のどぶろく。度数も18度以上あった。一口すすり、これは旨いと感嘆発すると、「だっしょ、なら、これ飲んおけばずっと旨いままでおれるよ」と出されたのは、からすみを平たくしたような黒い固まり。熊の胃だ。ひと欠け飲んでおけばいくら飲んでも酔わないという。

それからは熊の胃の効能の凄さの話。青森大学医学部の教授の奥方が癌になって、もう末期で手が付けられない。そこで噂に聞く熊の胃を飲ませることになった。ひと塊150万円もするが、購入して少しずつ飲ませたら、癌が消えたのだという。

そんな話を聞きながら、夜半過ぎまでどぶろくを旨い旨いと飲み続け、一升瓶が空になったあたりで、マタギさんのほうが酔っぱらって、あんた酒が強いなあと言って寝てしまった。ほんとうに、最後の最後まで、その旨さが喉ごしに残り、幸せな気分を味わえた。マタギさんは小生に熊の胃を飲ませたことをすっかり忘れていたのだ。

明治中頃までどぶろくは農家でふつうに造られ、飲まれていた。麹菌で発酵し、熱処理などしないで生のままで飲むから、プチプチ泡立つ発酵菌が腹に入ってすこぶる快調な酒だ。昔は男も女も身体に堪える農作業をどぶろくの力で乗り越えたのだ。ところが、酒税法で税金を取ろうとなって、自家製酒は御法度となった。だから、マタギさんが造ったどぶろくは違法ということになる。

ちゃんちゃらおかしい話だ。どぶろくの伝統は二千年余りある。自分で造って飲むのが何が違法か。味噌を造ったら違法か? アルコールだからという理由はおかしいですな。戦後の貧しい時代は取締りも厳しかった。隠れて酒を造って、ときにしょっ引かれた。いまや全体の税の3%程度の酒税で、いちいち取り締まっておれないといったところか。でも、違法は今も変わらない。売らない限り自家製酒を禁じている国は欧米にはないそうで、収入印紙もしかりだが、古いままの税法が残ったままで、官吏も人民もいいかげんなものである。

税金といえば、消費税を10%にもっていこうとしているが、愚策もはなはだしい。さらに消費が落ち込み、経済がしぼんでますます税収が減ってしまうことは、経済学者でなくともわかる。野田というドジョウは、田んぼにもぐって顔を出さないでほしいものだ。経済破綻寸前の欧米に右倣えで経済麻痺を起こし、アジア経済の伸びを押さえ込もうという算段の米穀との密約でもあるのだろう。司法あげての小沢攻撃の異常さを考えれば、どんな密約があるか知れたものではない。山崎豊子原作の「運命の人」というTVドラマが終わったが、密約はあるのである。

次はどんな世界が待っているのか。大釜の湯がちょっとずつ煮えているので、熱さがわからないが、気がついたら大火傷だ。とにかくどんな世だろうが、どぶろくを造って大いに飲んでやろう。マタギさんのどぶろくを飲んで20年経って、いよいよどぶろくの時代が到来か。超近未来小説『ドリーマー20XX年』で書いたが、ハイパーインフレが起これば、巷で酒など飲めなくなるのだ。自分で造って飲むしかないだろう。あー、どぶろくが飲みたくなった。あのマタギさんは山ん中で今も旨いどぶろくを飲んでいるんだろうなあ。マタギという人種は、まったく縄文人的な世界に生き、外界からみれば仙人のようであると思えるのである。現代人のほうがよっぽど遙かに野蛮人である。

無知のベール

2012年03月20日 00時01分59秒 | 航海日誌
この数ヶ月、日々の忙しさに忙殺されながらも、その隙間であれこれをずっと考えて来た。考えることだけは止めることができないからだ。

こと、福島の原発について、この日本という社会(血肉をかよわす人々が生きる、福島周辺、この関東も)含め、いったい原発の危機はどんなものなのか。ネットを検索されば、さまざまな情報らしきものが発信されている。どれも、まことしやかな、さもありなんといった話が満載され、どれも一理はありそうな話だ。

少なくとも、テレビ・新聞で発表される情報は、現状を少し表しているようではあるが、ほんとうにそれだけなのか、表面的にしか報道されていないのではないか、ひどい現実は包み隠されているのはないかといった疑いの念がぬぐいきれない。

だから、ネットで、少しでも真実に近い情報はないかと探るのだが、大抵の場合が、どこかから発せられたネタから推測しての拡大記事であるように思える。

真実とは何か・・・哲学的命題のように思えるが、そうではなく、もっと表層のほんとうはどうなんだろうの話である。

それがよくわからないのだ。いつ大地震が起こって、たとえばこの東京がカオス状態に陥るのか、そんなことはわからないのだが、東北で大震災が起こったのだから、いつ何時を思いつつ暮らしているような状態。福島第一原発4号炉には1500本余りの燃料棒がプールにあるが、いつそれが倒壊して莫大な放射能が放出されるのか。東電の対応は余りにも遅い・・・いったいどうなっているのか、ほんとうのところがわからない。

そんなことを、忙しさのわきで考えつつ、あれ? 何かおかしいと思い始めた。ほんとうにそんなカタストロフィーな状態にあるのなら、政府がなぜ、まだこの東京にあるのか。ほんとうは、嘘なのではないか。もっと違うシナリオ(密約)があるのではないのか。

正直、よくわからないのだ。しかし、どうもなにかがおかしい。チェルノブイリ原発事故よりも酷い事態だという割りに、福島周辺での放射能被害がないようで、原発周辺で何人も人が亡くなっていないのは(隠しているのなら別だが)、どうもソ連の事故と状況が違うようで、わけがわからない。

とにかく、今の状態がおかしいとしか思えない。1年経ったのだから、あれほどの原発事故だったならば、もっとハッキリした被害が出るだろうと思っていたから、不思議でならない。

この日本の禍害というよりも、もっと地球全体の大きな何かが進行しているのではないか。そんな気がして仕方がない。その現れがどうなのか、これからわかってくるのだろうか。私たちは無知のベールに包まれて今いるように思えてならないのだ。

ふくしま宣言

2012年03月17日 22時30分38秒 | 核の無い世界へ
ふくしま宣言、全世界へ 知事「再生エネ推進」
東京電力福島第1原発事故を受け、福島県の佐藤雄平知事は11日、再生可能エネルギーを推進し、原子力に頼らず発展する社会を目指すとした「ふくしま宣言」を全世界に向けて発信した。県はホームページに英訳も併せて掲載する。
この日、福島市で県主催の追悼式に続いて開かれた、震災と原発事故からの復興に向けたシンポジウムで発表した。宣言は「原子力を扱うことの難しさと正面から向き合ってきたか」などと自問自答した上で「二度とこのようなことが起きないよう、県内の原発を全て廃炉とすることを求めながら、再生可能エネルギーを推進する」としている。
最後に「私たちは必ず、美しいふるさとふくしまを取り戻します。活力と笑顔あふれるふくしまを築いていきます。このふくしま復興の姿を世界へ、未来へと伝えます」と結んでいる。
(中国新聞3月12日より)
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福島第一原発事故発生時にすみやかに避難勧告を出さず、福島県民を被爆させた責任を問われている知事が、上記のような宣言を発信。その内容はまことに歓迎すべきことだと思います。
記事は中国新聞より転載のもの。この新聞社がある広島も、「ひろしま宣言」を発信するべきだと私は考えます。世界で初めて被爆者を出したヒロシマ・ナガサキがまずは非核(原発)廃止を訴えるべきなのです。
原子力がなければ、生活も経済活動が停止するという呪縛から目覚め、新世界を開きたいと思います。それが出来るのは、そう思う人々によってです。思いもしない人は傍観者であり、それは自分の人生そのものを傍観していることになります。
そして後で後悔することになるのです。それはいつか。肉体を去った後の、今は忘れている場所で。生きているうちに出来る後悔は、やり直しがききますが、ほんとうの後の祭りは、死してからの話なのです。
そして、また人間に生まれてやり直しをしたいと思っても、今度はもう、地球学校に戻って来られないかもしれません。

だから、今が大切なのです。生きているうちが花というのはそのことです。とことんのところでの後悔をしない生き方をしたいものです。